第21回 みんなに嫌われてもいい! 破滅型作家・葛西善蔵に学ぶ

 遠くで見ている分には面白いが、近くにいると厄介な人物はどこの組織にもいるものだ。酔って暴れたり、ビール壜をなぎ倒したり、ゲロまみれになったり、血まみれになったり。理解不能な奇行を繰り返したり。大正時代に私小説を多く著し、「酒仙作家」とも呼ばれた葛西善蔵もその一人であろう。


 葛西善蔵と聞いても作品が思い浮かぶ人は多くないかもしれない。『子をつれて』、『哀しき父』などが代表作として挙げられる。

 善蔵は貧困、酒乱、病気の自らの負の側面を土台に作品を書き続けた。同時代を生きた菊池寛などは「あんなもんは文学じゃない」と貶したが、自虐的作風に男子学生を中心に惹かれる者も多かった。
 
善蔵の文学や生活を語る上で、生活苦は切っても切り離せない。出世作の『子をつれて』も親子で街頭をさまよう貧乏話である。なぜそこまで生活に困窮するのか。善蔵の場合、仕事がないわけではない。仕事をしないのだ。
 
中央公論社の編集者だった木佐木勝の日記からも善蔵の仕事のしなさっぷりがわかる。家を日中訪れると、たいてい酒を呑んでいる。呑んでいないと珍しく、呑んでいないと驚かなくてはいけないほど、常時、酒臭いのである(酒を呑まないと、ぼんやりした人との評が多い。非社交的で家にいるが、酒を呑むとサービス精神から必要以上にはしゃいでしまったとか。そして呑む相手は彼の独演が終わる機会をうかがわなければならなかった)。
 
木佐木は原稿を依頼するが、雑誌用の原稿なので締め切りも当然ながら決まっている。木佐木が目を離すと呑んでしまうから、木佐木は早朝に善蔵宅に押しかけ晩まで居座る。ここまでされたら仕事をせざるをえないと思うのだが、それでも善蔵はしない。しぶとい。
 
「一合だけ呑んでいいかい」などと往生際が悪い上に、木佐木がいるにもかかわらず隣家の住人が「酒を呑もうぜと!」おしかけてくると、酒盛りを始める。木佐木をチラ見しながら、まあいっかと呑み、踊り始める。まあいいっかじゃねーよと、切れる木佐木。どんだけ仕事をしたくないんだと思ったのだろう。
 
木佐木は他の担当作家も抱えているのだが、善蔵が隙あれば酒を飲むのだから、目を離せず、つきっきりで、大晦日も善蔵宅で過ごすことになる。

 結局、木佐木の苦労もあり、善蔵は原稿を書き上げたが、ここまで手厚く面倒を見なければいけないとなれば、なかなか作品はできあがらない。(実際、木佐木は他の編集者が善蔵の担当になった時に「酒の監督を引き受けたようなもの」と語っている。善蔵の担当になっても原稿をもらえない者もいた。「葛西氏は酒を飲まさなければ書けないことがわかったので、仕方がないから行くたんびに一升びんをさげてゆくんだ」とその編集者は酒を持参するものの、2人で飲んだくれて一日が終わることも珍しくなかった)。

 善蔵も何とかしたい気持ちがないわけではない。駆け出しの頃は、東京を離れ、長野県の温泉宿にこもり、作品に集中しようと試みたこともあった。あくまでも試みただけであり、編集者の葉書に対して「湯もよし、酒もよし、友もよし、女もよし」とやる気があるのだかないのだかわからない返事を送り、一向に書けずじまい。遊びほうけて宿泊費と遊興費だけが膨れあがった。心配した編集者が善蔵と親交のある作家の久米正雄に金を渡し、つれ戻しを頼んだが、善蔵と久米はその金でさらに遊んでしまう。久米までもが借金を作る始末。類は友を本当に呼ぶらしい。
 遅筆が故に、量産できない。量産できないから、生活も苦しい。残した作品は生涯で60作ほど。短い作品ばかりで、100枚を超える作品は一枚しかない。
 晩年は酒まみれで口述筆記になるのだが、自分で書こうが他人が書こうがやはり遅い。作家の木山捷平は善蔵の口述筆記を担当した編集者からその模様を何度も聞かされたという。

酒ずきの善蔵は一ぱいやりながら口述をはじめた。はじめたのが午後の三時ごろで、終わったのが午前の三時ごろだった。口述の途中で善蔵は何べんも便所に行った。墨をすって唐紙に大きな字を書いたりした。口述が行きづまると、畳の上を這いずりまわって犬が小便をする真似をしたり、牛がなく真似をした。手をこすって垢を出したり、郷里の津軽民謡を口ずさんだりした。

奇行のてんこ盛りである。確かに何度も飽きずに人に話したくなる内容だ。善蔵が恐ろしいのは、たまたまこのような奇行に及んだわけでなく、日常的だったのである。特に犬の物まねは大好きだったようだ。
 
同じく口述筆記を手伝った作家の嘉村磯多は自著の中で、善蔵が「二枚も稿を継げるとすっかり有頂天になって、狭い室内を真っ裸の四つん這ひでワンワン吠えながら」駆け回ったと記している。犬のように走り回って、喜ぶとは聞いたことがあるが、実際にそのような行為に及んでいる人はほとんど見たことがないではないか。大の大人が四つん這いになってワンワン言ってたら怖いだけなのだが。本当に大の大人が四つん這いになってワンワン叫ぶ。それも裸で。行動自体、恐怖を覚えるが、そもそも、二枚仕上げて狂気乱舞している時点でいかに書けないかを物語っている。


 先の木佐木の日記によると、死去する4年ほど前の大正14年頃(1925)、善蔵の自宅には近隣の住人や同人仲間で作家の谷崎精二(谷崎潤一郎の弟)を除くとほとんど出入りがなかったという。それまでの勝手気ままな生き様に疎遠になった人も少なくない。

 例えば、被害者のひとりが後のベストセラー作家・石坂洋次郎。善蔵は郷里から戻る旅費に困窮し、同郷で当時学生だった石坂の習作を谷崎のつてで善蔵名義で出版社に送りつけ小銭を稼いでいる。皮肉にも、その作品は新聞書評で「最近の葛西の作品はずっと低調だったが、みちがえるほど引きしまった好短編」と激賞される。哀しき善蔵。石坂は善蔵にこの事例に限らず、「こんな下品な甘ったれた小説を僕に読ませるのか!」とディスられたり、原稿を破られそうになったりした(善蔵は破り捨てようと思ったが、腕力がなくて破れなかった。どこまでもひどい)。後に石坂は作家として名をなしたあとに、編集者に善蔵のことを聞かれると顔面蒼白になり震え出すこともあったという。善蔵の無茶な生活に巻き込まれたことを物語るエピソードだ。

 作家の広津和郎は善蔵と同人誌をつくっていた仲だが、善蔵の作品をきっかけに距離を置くようになる。同人たちは切磋琢磨し、時に仲間の私生活を題材に小説執筆に励む者もいたが、これが上手かったのが善蔵。けちょんけちょんに仲間たちを弄り続けた。ある作品では広津を取り上げ、広津が妻の妹を孕ませて、生まれた子を里子に出させるストーリーを綴った。こうした事実はないのだが、土台となる広津の家庭問題は真実な上に、善蔵の筆力も手伝い、読み手は広津が本当に妻の妹を妊娠させたと勘違いしてしまいかねなく、広津は激怒する。

 善蔵は木佐木が関わっていた頃までは貧困に喘ぎながらも、口述筆記にも頼らず創作していたが、昭和に入ると酒と肺病の悪化でいつ死んでもおかしくないような状況に陥る。
 昭和3年になると「善蔵がヤバイ」の噂が広まり、友人知人が善蔵宅を訪れる。広津も死の間際に駆けつける。広津と善蔵は一時期和解したが、このころ問題となった小説を善蔵が全集に収録することにして、再び距離が出来ていた。善蔵の死が迫る中、二人にしてくれと頼む広津。感動の対面かと思いきや、広津は瀕死の善蔵に言う。「僕は君に腹を立てている。死ぬまで会わないつもりだったが、今でないと話すときがないから話すんだ」。要は「おまえ、マジむかつくから会いたくなかったんだけど死ぬと聞いたからきた」ってな話である。死にそうな人間に、それ言うか。当時の文士は旧友が死にかけようと己を貫いていたのだ。

 好き放題で周囲をかき回した善蔵だが、葬式には約200人が参加する。香典は700円集まったという。現在にすると700万円ほどになる。香典と別に、作家の佐藤春夫などが金を出し合い、遺族への寄付金を募った。集まった金額は316円。葛西は酒癖が悪かったが、素朴であっけらかんとしており、文壇の内外にファンも多かった。

 善蔵の死を惜しむ声を聞き、懇意にしていた酒屋の主人は「700円も香典が集まるなんて、やはり葛西先生は凄い人だった」と胸を張ったという。この酒屋の主人は善蔵にツケ払いで酒を無尽蔵に供給し、死後もそのツケ(香典に相当する700円。呑みすぎである)を請求しなかった。心温まる話として多くの本で紹介されているのだが、善蔵が酒浸りになった環境を後押ししたようにも映るのだが気のせいだろうか。
 
いずれにしても、多くの人が人格も生活も破綻しながらも作家としての善蔵に対する敬意を持ち合わせていたことがわかる。晩年の口述筆記も友人の谷崎によると本人は気乗りしなかったが、生活のために受けざるをえなかったようだと指摘している。実際、2枚もかければ犬の真似していた善蔵だが翌朝シラフになって原稿を見つけると破り捨てていたところにも、善蔵の作家としての矜持が見え隠れしている。
 
人間は死に方が問われるとはよく聞く。酔っぱらって全裸で四つん這いになってワンワン叫んでいたことがあっても、多くの人が惜しんでくれたら人間の最期としては素晴らしいのではないだろうか。ゲロまみれにも血まみれにもなる酒飲みたちにとっては自信が溢れてくるエピソードだが、それが許されるのはもちろん、才能があればという条件つきである。。
 
栗下直也(くりした・なおや)
1980年東京都出身。業界紙記者の傍ら、書評サイト「HONZ」や雑誌『本の雑誌』、週刊誌に書評を執筆 する。新橋系泥酔派を自認するが、酒場詩人は目指していない。辻潤の研究がライフワーク。
Twitter @naokurishita