第22回 人たらしになれ! ー力道山に学ぶ

 傍若無人で周囲に波風を立てまくりながらもなぜか憎めず、先輩に可愛がられ、後輩からの信頼も厚い人物というのがコミュニティーにひとりはいる。無茶苦茶なんだけど憎めない。好きではないんだが、離れられない。今回は戦後のスターのひとりであったプロレスラー・力道山を取り上げる。

もはや、「力道山って誰?」という人もいるだろうから、簡単に彼のレスラーになるまでの歩みをふり返ってみよう。


 大正13年(1924年)、朝鮮民主主義人民共和国で生まれる。本名は金信洛、創氏改名で金村光浩に。後に養子にいき、百田光浩となっており、国民的スターになるころには完全に長崎県生まれの日本人になっていた。現代においては、もはや自明だが、出自が朝鮮である事はメディアにおいては最大のタブーであった。
 
13歳の時に朝鮮相撲の大会に出場し、3位となる。15歳で二所ノ関部屋に入門するや、破竹の勢いで勝ち続ける。序ノ口からわずか9場所で十両になる。とんとん拍子に番付を上げ、24歳で関脇まで昇格。大関も視野に入れた場所前に体調を崩す。
 
咳、痰、そして吐き気がおさまらず、体重が20キロも減少。場所前に川ガニが食べたのが原因で、肺ジストマになり、復活は絶望的とみられた。自宅を売るなどして、治療費を捻出し、その後、復調するものの、当時の封建的な体質がゆえ、出自の問題もあってか、冷遇され、自ら廃業を決める。

「強ければ何をしてもよい」の信条のもと、力道山は、この頃、どこまでも破天荒だった。ちょんまげ姿でジャンパーを羽織い、大型バイクにまたがり、国技館に出勤する。常識の枠にとらわれない男だった。そのため、先輩力士の中には露骨に嫌う者もいた。
 
一方、後輩の面倒見は良かった。自らもよく稽古をしたが、後輩にも胸を貸した。稽古の後には後輩が喜ぶ物も用意した。ビールだ。

巡業先でも力道山がふらりと酒屋によって、誰のものかはわからないが名刺を一枚差し出すと24本入りのビールケースが2ケース無条件に用意されたとか。戦後すぐでビールなどなかなか入らない時代だけに、多くの後輩が魅了された。
 
とはいえ、面倒見の良さも行きすぎると後輩はついていけない。呑みに出かけると無傷では帰れないのである。

力道山が大一番を控えた前日には恒例の行事があった。料理屋でタライほどもある大鉢から料理を全て放り出し、そこになみなみと酒を注がせる。注ぎ終わるやいなや、後輩にこう指示する。「よし、それを一息で飲み干せ。途中で息なんかするんじゃないぞ!」。息をするや、傍らのビール壜で殴られたというから穏やかでない。近年も横綱がビール壜で後輩を殴打し、引退に追い込まれた事件があったが、力士はビール壜がよほど好きらしい。
 
このような「かわいがり」はひとつの席で1回や2回でない。ビール壜にとどまらず、鉄拳制裁を食らい、前歯が折れた付け人もいた。現代ならば完全なるパワハラ野郎なのだが、この程度で驚いてはいけない。後輩たちが最も恐れたのが「コップ食い」である。大下英治著『力道山の真実』(祥伝社文庫)によると、その光景はおぞましい。

「これを食ってみろ!」骨太の手で差し出してきたのは、なんとガラスのコップであった。芳の里(※注・後輩)は、肝を潰した。が、食わなければ、いやというほど打ちのめされる。ええい、ままよと囓りはじめた。だが、うまく囓れるものではない。ガラスの破片が口腔に突き刺さり、口のなかは血だらけになった。

どう考えても血だらけになる。だが、見ていた力道山は違ったらしい。苛立ちながら実演した。

 コップを手にした力道山は、円に沿いながらぐるぐるとまわし、見るまに囓っていく。ガラスが細かく砕け鈍い音がする。すべて口のなかに入れてしまうと、まるでいくつもの飴をいっぺんに噛み砕くようにして飲みこんでしまった。

飲みこんでしまった、ではない。そこまでされると、後輩としては「ごっつあんです」とでもいいながら追随するしかない。

 芳の里も、なんでこんなことをしなければならぬのかと思いながら、こんちくしょうと呑みこんだ。それから十日ほど、ガラスの粉が砂のように口のなかに残った。

このガラス食いはプロレスラーにありがちな「自分を大きく見せる架空のエピソード」に捉える向きもあるが、作家の石原慎太郎や「喝!」でおなじみ、元プロ野球選手の張本勲やも目撃して、衝撃を語っている。

 力道山は力士を廃業した後にプロレスラーに転向するわけだが、実はその間に会社員を経験している。いかんせん、勢いでやめてしまったところもあるので身の振り方など考えていない。力士時代のタニマチであった新田新作をたより、新田の経営する建設会社に就職する。東京の日本橋浜町に2階建ての家まであてがわれたうえに、給料は月給5万円。現在の貨幣価値にすると35〜40万円で力道山も「当時土方として破格」とふり返っている。

 とはいえ、力士時代に比べれば質素な生活を強いられるし、何よりも力があまりにあまった。そうなると、やることは決まっている。呑んで暴れるの最悪コースだ。

 私は毎晩酒を浴びるほど飲んで歩き、泥のように酔っぱらった。頭を狂わせて、うさを晴らすしかない。けだもののように思ったままに行動した。いまから思えばずいぶん無茶なことをしたし、馬鹿なことだったと思うが…。

少しばかり反省しているようだが、周囲はたまったものではない。例えば、かつて所属していた相撲部屋を訪れたときのこと。力道山が来訪すると、酒を呑ませてくれると後輩達は喜んだが、現役と同様に和やかな雰囲気がいつ暗転するかわからない。

 あるとき、後輩力士が酔いも回り、「関取!」と気安く肩に手をかけたら、暴発。「なんだ、てめえ!」と叫ぶやいなや、一升壜で頭を殴りつけ、血まみれにさせたとか。現役時代はビール壜だったのにと思う読者もいるかもしれないが、安心して欲しい。力道山は我々の期待を裏切らない。一升壜で殴りつけてもおさまらず、ビール壜をおもむろに手に取り、続けざまにふりおろそうとした。慌てた他の後輩力士が「逃げろ逃げろ」と部屋から血まみれの力士を外に出したが、可哀想なことに部屋に戻ったら殺されると思い、その晩は警察署に泊まったという。本当に警察署に泊まらなくてはいけないのは力道山だろうに。

 エネルギーを持て余し、泥酔して暴れ回るのが日課だった力道山だが、その行動がプロレスの道に彼を誘うことになるから人生はわからない。

当時、米軍属のボハネキという米国人と連れだって酒場を巡っていた。ある日、いつものように新橋のクラブで2人でケンカ相手を物色していると、ひとりの大柄な男が目につく。向こうから近寄ってきたとか、肩がぶつかったとか、ここは諸説あるが、「ユーはプロレスラーか強そうだな」と話しかけられた。馬鹿にされたと思い激高した力道山が張り手をかましたものの、かわされ、逆に関節技をかけられ、力道山は全く身動きがとれなかったという。

 男は日系二世のハロルド坂田。元重量上げのオリンピックのメダリストで現役のプロレスラーであり、慰問のために来日中だった。力道山は練習を見に来ないかと誘われ、プロレスとはどういうものか気になり、出向くことになった。

 一度くらいやってみようかと軽い気持ちで参加したが、赤子のように扱われ、持ち前の闘争心に火がつき、プロレスに賭ける決心をする。

ここからが、力道山の単なる暴れん坊でない「人たらし」の一面が垣間見られる。早速、元タニマチで今は勤務先の社長の新田に「プロレスをやりたいんです」と願い出るも、「そんなわけのわからんもんは、やらせられない」と一蹴される。プロレスラーになったとしても興業を打つには、後ろ盾が必要で今やいち会社員に過ぎない力道山は金主になりうる新田の意見を無視できない。

 もちろん、それで諦める力道山ではない。毎日トレーニングを欠かさぬ一方で、力士時代に知己があり、後に「興行界のドン」と呼ばれる永田貞雄に急接近する。永田邸を毎日のように来訪し、永田が翌朝、8時半に出かけると聞くと、8時には自分の車を運転してあらわれ、永田を送迎した。力道山はじわじわと永田に食い込み、永田経由で新田の説得に成功する。

 単なる筋肉泥酔野郎と思われる力道山だが、根回しに根回しを重ね、自分の夢の実現には権力者に恥ずかしげもなくこびていたのだ。ただ強いだけではスターにはなれない。後輩には酒を奢り、先輩にはおもねる。スター力道山の実像を知れば、「実力があればどうにかなるっす」などと、ただの会社員は軽口をたたけない。地道な営業活動が必要なのはどのような職業でも変わらないことがわかる。
 
その後の力道山の活躍は周知の通りだろう。アメリカ修行を経て、帰国。永田らの支援を受けての興業は大成功。白人を空手チョップでなぎ倒す姿が敗戦国日本を勇気づけ、力道山は少年たちのヒーローの座を掴む。


 とはいえ、ヒーローになれど、素行が改善するわけではない。プロレスに群がる人々も増え、利権を巡る水面下での駆け引きは熾烈さを増した。力道山は猜疑心の塊になり、私生活も荒れた。
 
晩年は酒量は減った。後見人代わりであった自民党副総裁の大野伴睦に禁酒を忠告されたこともあり、表向きは守り、寝るときのブランデー一杯を楽しんだ。だが、嬉しいことがあれば当然のことながら公の場で酒を呑む。

 暴力団員の村田勝史に下腹部を刺された日もリング上の好敵手だったザ・デストロイヤーと興行の成功を祝い、朝の10時から午後2時まで呑んだ。その後、夕方から料理屋に出向き、午後7時過ぎに赤坂のナイトクラブで第3ラウンドに突入した。その日の酒量の合計はウイスキーのボトル1本半、日本酒7合、ブランデー1本、ビール半ダースだったという。

 力道山の死は、刺されたことそのものではなく、刺された後の手術時の麻酔量を間違えたとの説が有力だ。歴史に「たら、れば」は禁物だが、あの日、禁酒どころか節酒を飛び越え、暴飲痛飲とならなければ、歴史は変わっていたのだろうか。ナイトクラブのトイレの入り口でぶつかったと村田に激高し、半殺しの目に合わせたがために、ナイフで反撃されることもなかったのかもしれない。
 
栗下直也(くりした・なおや)
1980年東京都出身。業界紙記者の傍ら、書評サイト「HONZ」や雑誌『本の雑誌』、週刊誌に書評を執筆 する。新橋系泥酔派を自認するが、酒場詩人は目指していない。辻潤の研究がライフワーク。
Twitter @naokurishita