#01 移動の詩人ベンツロビッチ、ラーチャ川からドナウへ

人生の道は数多い

 ラーチャ川は、ドリナ川の小さな支流である。ドリナ川はサバ河に流れこみ、サバ河はドナウへ注ぐ。ベオグラードから車で四時間ほど西南へ走ると、ドリナ川の左岸にバイナ・バシタ市が現れ、そこから六キロ、ラーチャ川にそって山道を上るとラーチャ修道院が姿を現す。ラーチャ川の源流は、修道院から山道を一時半ほど歩いて登ったラージェバッツと呼ばれる泉で、そこからスカカバッツ(バッタの意)と名付けられた約二十メートルの滝が流れている。



 昨年、ラーチャ村を訪ねたのは夏。八月十九日、ハリストス顕栄祭(または変容祭)、遠方からも人々が集まり、厳かな祈りのあとで、浄められた葡萄の実が一粒、一粒、神父の手から一人一人に与えられた。葡萄の瑞々しい味を思い出す。

 ラーチャ修道院には、十三世紀、ネマニッチ王朝ドラグティン王によって建立されたと伝えられるが、史実はわからない。十四世紀にセルビア王国が、コソボの原でトルコ軍に敗れ、オスマン帝国の支配下に入って以来、セルビア正教会は何度もトルコ軍の襲撃にあい、多くの教会や修道院が廃墟となった。だが、ラーチャ修道院は、灰の中から幾度も甦えった。

 ラーチャ修道院は、十五世紀から十七世紀にかけて、聖書や祈祷書を手で書き写す「写本学校」が置かれ、文化の担い手として栄えた。セルビアには、一五二九年、ルイノ修道院(ズラティボル高原のブルトゥツィ村)に初の印刷所が置かれ、一五三七年には四福音書が印刷されたが、オスマン帝国に破壊されてしまう。印刷所が支配者の怒りに触れたのだ。ラーチャ修道院に印刷所ではなく、写本学校が設立されたのには、こうした歴史的背景があった。一六三〇年、トルコの旅行家チェレビヤの紀行文には、写本などに携わる修道士が約三百人、護衛の者が約二百人、ラーチャ修道院で生活していたと記されている。修道僧の手によって、美しい飾り文字や、鳥や葡萄の蔦、花などが施され、神の言葉が書き写されていった。

 だが修道院は、十七世紀末、トルコ軍に破壊され、修道僧は難民となり、この地を去る……。清楚な聖堂、澄んだ鐘の音の響く鐘楼を見上げると、そんな悲劇は嘘に思われる。僧院には深紅の薔薇の花が咲き誇り、穏やかな時間が流れているのだから。




 年が明けて、私は冬のラーチャ村を訪ねた。今度は、詩人ガブリル・ステファノビッチ=ベンツロビッチ(1680-1749?) に魅せられての旅である。ベンツロビッチは、少年時代にラーチャで修業僧として写本学校に学び、その後、修道僧とともにハンガリーのセント・アンドレに移動した。ブダペストから二十キロ離れたドナウの岸辺の町である。「ベンツロビッチを読んでごらん、無常を詠った詩人だ」と、友達にすすめられ、古本屋で詩集を求め、その作品に触れ、すっかり心を奪われた。

 修道僧ベンツロビッチは、説教、散文、戯曲なども手がけた。セルビア語文法の父ブーク・カラジッチに百年も先駆け、近代的な文章語を築き、諺を収集し記している。ベンツロビッチの作品には、聖書に関わりのあるものが多いが、そこには難民となった日々の旅が織り込まれている。マトフェイ(マタイ)の福音書八章二十節をふまえた作品にも、セント・アンドレに移り住んだ人生が透かして見える。


    心の中の祈りの城

キツネは己の穴に
暮らすところあり
鳥には己の巣あり
だが我、人の子となりてより
悪しき時から身をまもり
首(こうべ)を枕とするべき
ところ無し

彼を憐れめよ
ああ、城によき家をもつ者よ
汝の心の中に
棲家を与えよ


 ベンツロビッチはドリナ川の岸辺のマチバ村の生まれと言われ、ラーチャ修道院で写本や挿絵の才能をみせた。が、穏やかな少年時代は、戦争に断ち切られた。一六九〇年、セルビア正教会はトルコ軍の激しい攻撃を受け、南部のコソボ・メトヒヤに置かれていた総主教座が大きな危険にさらされる。総主教アルセニエ・チャルノエビッチ三世は、僧侶や村人を率いて北へと「大移動(セオバ)」を開始した。歴史書によれば、三万七千から四万のセルビア人の家族と約千人の聖職者が、一度に難民となった。オーストリア帝国は、聖職者をはじめ難民となった者を領内に受け入れる許可を下した。人々はドリナ川、サバ川をたどり、ドナウ河流域のオーストリア領へと旅を続けた。牛や馬や羊など家畜をともない、古文書や写本、儀式に必要な金や銀の宝物を携えて、「大移動」は二、三年も続いたという。

 ラーチャの修道僧たちが、セント・アンドレに移動したのは、この「大移動」のときである。五年ほどの漂泊のあとに、セント・アンドレに居を定めた修道僧らは、聖ルカ教会で、写本を続ける……。



 冬のターラ山のミトロバッツ村に宿をとる。朝の七時、まだ暗い。村の運転手、ラドエさんの車で、うねうねと雪道を下って行く。やがて薄闇に、青く視界が開け、遥か下にドリナ川が現れ、プレチャッツ湖のまわりに無数の蜜柑色の灯が浮かび上がった。光に飾られた水力発電所は、清らかな聖所にも似て、息をのむ。向こう岸は、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、ユーゴスラビア解体の内戦の後、今は外国である。冬のドリナ川を泳いで渡り、戦場の村から逃れて難民となった若者のことを思い出した。バイナ・バシタを通り抜け、細い山道に入る。森の道はラーチャ川にそって続く。やがて空は明るみ、ラーチャ村に着いた。

 セルビア正教会の降誕祭(一月七日)が終わってまもない修道院は、雪の中に黙している。家族や友人の健康を祈るため、死者の霊を弔うための蝋燭を灯す小聖堂があり、そこで人々が佇み、蝋燭に火を灯している。黒衣の小柄な女性が祈っていた。ほっそりとして清らかな、後ろ姿に見入る。

 鐘楼から雪空に鐘が鳴りわたった。聖体礼儀の始まりを知らせている。寒さの厳しい冬は、暖をとるため小さな聖堂で行われる。人々が集まっている。幼い子供、家族にまじって、国境警備の若い警察官たちの姿もある。正教会の礼拝は、祈りの言葉も聖書の拝読もふくめ、すべてが詠われる。儀式がひとつの長い歌なのだ。ゲルマン修道院長の張りのある声が響き、信徒たちの静かな声が重なる。長老のマカリエ修道士の軽やかな読経が明るい。開かれた窓から、ラーチャ川のせせらぎが聞こえる。聖堂に、十歳ほどの少年がいた。幼い修行僧ベンツロビッチもこんな男の子だった……。



 ラーチャの修道僧たちは、セント・アンドレの聖ルカ教会に、文学の学校を開いた。ベンツロビッチは、恩師の修道士キプラニンらと写本を続けるかたわら、画家、詩人として作品を生む。南からはオスマン・トルコ帝国の攻撃、北のオーストリア帝国からはカトリック化の脅威にさらされつつも、セルビアの民はセント・アンドレに文学の中心を移し、ベンツロビッチの無常の文学は、異郷にて開花する。商業に栄えたセント・アンドレには、印刷所や本屋なども生まれ、賑わいがあったと言う。

 ベンツロビッチの詩作品には、「詩」、「詩の神」、「最期の日」など、死をテーマとした詩が目立つ。民族の「大移動」のなかで、死と隣り合わせの日々が、詩人を無常と向い合せたのに違いない。


    汝は大地

ああ、汝は大地、
水ではなく、強き葡萄酒でもない
長い時間も経たぬうち
汝は帰還する
ふたたび大地へと


 水は、詩人の大切なテーマである。連作「水の賜物」には、次の詩が美しい。水のイメージには、ラーチャ川からドナウ河へと旅する、修道僧たちの旅が重なる。


    船、鷲と蛇

船のとおりゆく海に
航跡はわからぬ
天空の下の鷲の飛翔の道も
石の上を這う
蛇の道もわからぬ


 ふと、鴨長明の「ゆく河の流れは絶えずして……」を思い起こした。汽車などもなく、セント・アンドレまでは、長い道を歩いたはずだ。たよりは馬や船だけだったろう。彼が記した諺に、「人生の道は数多い」とあるが、水路も彼らが辿った道の一つであった……。



 聖体礼儀のあとで、女の人が私に声をかけた。あの黒衣の女性だ。遠くからいらっしゃったのでしょう、集会所でコーヒーをどうぞ、私の名はビオレッタ、よろしく、と。聖堂を出ると宿坊があり、その傍らに水車小屋がある。水車はラーチャ川の清流を取り込んで勢いよく回っている。集会所のテーブルには、人々が神父さんを囲み、ラキア(火酒)で健康を祈り、コーヒーが運ばれてくる。プラムから作るラキアは、修道院の手作りだ。初めて会うのに、旧い親類に会ったような気持になるのは、集う人々の善良さのためだ。セルビアが誇る「もてなしの心」である。自然な優しさ。テーブルに置かれたラキアの瓶には、植物が入っていた。薬草かしら、と瓶を手にとると、蕾の薔薇だった。僧院の庭に咲いた花……。

 みんなに、よく来ましたね、と言われ、詩人ベンツロビッチが少年時代を過ごした修道院だから、ゆっくりと訪ねたかったのです、と答える。なごやかな話が続き、修道院長と長老の修道僧に挨拶をしてお別れとなった。

 帰り際に、ビオレッタさんが、私の家にいらっしゃい、と昼食に誘ってくださる。ドラガナさんが車で送ってくれ、バイナ・バシタのビオレッタさんのお宅にお邪魔する。ドラガナさんは別れ際に、二人で召し上がれ、と手製の黒パンをくださった。

 旧ユーゴスラビア時代に建てられた典型的な集合住宅の四階に、ビオレッタさんは暮らしていた。簡素で美しい食堂の壁には一面、無数のイコンと数珠と十字架が飾られている。「夫のスロボダンはね、昨年の夏に亡くなったの。彼は病院の医者でしたけど、癌が見つかった時、手術や化学治療は受けず、自然療法に専念し、祈りの生活を続けて昇天したの。修道僧みたいだったわ……。お昼は、虹鱒を焼きましょう。ラーチャ川で採れた魚よ。スープは温めるだけ。サラダは、アイバル、夏野菜のペーストよ」と、小さな冷蔵庫から魚を取り出してオーブンに入れ、テーブルにお皿を並べて、お話が続く。

「夜になるとね、この椅子に座って、このランプをつけて聖書を朗読していた……。私はマケドニア人、夫はセルビア人。夫とはスコピエ大学で知り合ったの。私は工学部だったけど、医学部の授業をひとつ受講することになって。演習のあと、雨だった。私の傘に彼は入って、そのあと互いのことが気になって。次は、いつ会えるかなと彼。来週の金曜日に映画を見ましょうと答えると、一週間も僕は待てないって言ったの。こうしてお付き合いが始まった。しばらくして、恋で学業をおろそかにしないでという母に、彼を引き合わせたの。私のところにいたとき、娘はちゃんと勉強していたわと、母が彼に言うと、それでは、これから彼女は僕のところにいるから、お母さんは心配しないでいい、と彼が母に言った。まあ図々しい、笑っちゃったわ。学生時代からずっと一緒、卒業して結婚して、ウジツェ市で二人とも就職できた。ここから一時間ほどの工業都市よ。私は繊維工場のエンジニアだったけど、国連制裁で工場も倒産。私の退職を機に、夫の故郷のバイナ・バシタ市に引っ越したの……。お魚、焼けたわ。さあ召し上がれ……」

「お魚はね、三度、泳ぐと言うでしょ。水の中、ワインの中、そしてお腹の中。ワインを開けましょう」と、ビオレッタさんはグラスに赤ワインを注ぎ、二人だけの昼食が始まる。笑顔と尽きせぬ話。「あなたが来てくれて、ほんとに嬉しいわ。今年は、きっと良い一年となるわ」と彼女は心から喜び、私も出会いの幸せをかみしめる。そして私も、小さな自叙伝の一部を話す。ベオグラードで暮らしはじめて長い歳月が流れたが、ビオレッタさんのように無防備で温かい人たちとの出会いに、支えられてきたのだと、しみじみ思った。再会を祈って、お別れする。

 帰りは、ラドエさんの車でターラ山を登り、帰途につく。ラドエさんが言った。「ゲルマン修道院長は、賢く優れた人でね、わざわざバイナ・バシタからラーチャ村へ通う信徒さんも多い。昔はラーチャ村にも小学校があったがね、過疎化で閉鎖した。ラーチャ村の人口は五百人くらいかな。残念だね。バイナ・バシタ市だって、人口は二万六千人ほどだし高等学校もあるけど、若者たちはベオグラードかノビサドの大学に入って、故郷の町に帰る者は、まずない。ベオグラードの人ときたら、今度は外国へ出ていってしまう。この国、どうなるのかね……」ミトロバッツ村に着くと、世界は雪のなかに埋もれていた。



 その夜も、静かにやって来た。雪あかりに樹氷がきらめく。ミトロバッツ村の宿で、『ラーチャ修道院』という書物を開いてみる。十七世紀末に廃墟となった修道院は、十八世紀末に、ハジ・ミレンティエ司祭修道士の手によって再建される。だが、ふたたびトルコ軍が破壊。一八〇一年、各地でセルビア蜂起が始まると、ミレンティエ自身も部隊を率いてトルコ軍を破り、修道院を再建する。だが第二次世界大戦中は、一九四一年にナチス・ドイツによって爆破され、四三年にナチスに協力したブルガリア軍によって修道院は荒らされた。戦後、修道院は、文化遺産として修復され、宿坊も作られ、今日の姿となったと記されていた。不死鳥という言葉を思い出した。



      ベンツロビッチの詩集表紙(挿絵はベンツロビッチが書いた)


 二月の初め、私はふたたびターラ山のミトロバッツ村に籠った。ベンツロビッチの詩集を携えて……。土曜の午后、ビオレッタさんに電話で連絡する。その晩、雪が降り続けた。日曜日の朝、ラドエさんの車で、雪深い道を下りる。わずか一か月の間に、日の出も早くなり、プレチャッツ湖を見下ろすころには夜が明けて、湖の水面の周りの燈火は消えていた。車は小道に入り、ラーチャ村に向かった。

 聖体礼儀のあと、集会所でコーヒーをいただく。老僧マカリエが、ラキアの杯を手に、よくいらっしゃったなと、歓びの笑顔で迎えてくださり乾杯する。今度、私がラーチャに来られるのは夏だ。「裏山の道を行くと、ラーチャ川の源流で、体にいい水が湧き出る泉がある。今度、案内するわ」とドラガナさん。「夏なら、中世の修道士たちが写本をしていた聖ゲオルギイ小庵まで、歩いて行ける」とゲルマン修道院長。

 帰りには、ビオレッタさんの家で、またお昼を御馳走になる。お土産に、干したアプリコットと私の詩集を届けた。「甥っ子が、肺癌で苦しんでいるの。四十二歳、二人の子供の父親。まだ若いのにね……」まわりに、若くして癌と戦う人が増えた。一九九九年、NATOの爆撃で使われた劣化ウラン弾の被害……。しばらくすると、ドアのベルが鳴る。ドラガナさんだ。お土産にと、お手製のアイバルを届けてくださった。この土地の名物、夏野菜のペーストだ。夏の再会を誓う。

 ふたたび、ラドエさんの車で雪道を宿に戻った。午后のターラの森を歩く。白樺の芽が、ほんの少し、紅色に膨らんでいる。真冬とはいえ、日の長さを感じた鳥たちが、密かに声を掛けあっている。一七四一年、ベンツロビッチが記した諺を思い出した。鳥は片方の翼では、高みへ飛べない、という諺を。




写真は、ラーチャ修道院のゲルマン院長により提供していただいた。ここに感謝する。
写真撮影:Vladan Matijevic ブラダン・マティエビッチ

山崎佳代子(詩人・翻訳家)
一九五六年生まれ、静岡市出身。一九七九年、サラエボ大学に留学。一九八一年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)があるほか、『日本語現代文法』を著わした。