#00 はじめに 物語は流れはじめる

ドナウにそそぐ水たち  セルビアの小さな旅

 水のある情景が好きだ。セルビア(旧ユーゴスラビア)の首都、ベオグラードに棲みはじめて三十七年ほどが過ぎた。セルビアは海のない国。海が恋しくなると、私はサバ川の岸辺へ向かう。我が家から十分ほど歩くと、ニセアカシアの大樹の枝を透かして、深緑の川が現れる。「まあ、海みたい」と、母が驚いたほど、川幅は広い。ときに、砂を運ぶ巨大な船が行き過ぎる。

 サバ川は旧ユーゴスラビアを西から東へ流れるドナウ河の支流で最長、全長九四〇キロメートルある。スロベニアの山、クランスカ・ゴーラから流れ出し、クロアチア、ボスニア、そしてセルビアと四つの国を繋ぐ。ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ大切な川である。

 霧、雪、光、雨……。水は絶えず表情を変える。一度も、同じだったことはない。川岸に立ち、水を見つめる。空をカモメが飛び交い、川面を野鴨が泳いでいく。この流れがドナウ河に合わさり黒海に向かうのだと、想ってみる。そして私の故郷の海にも、水は溶けこんでいるのだと、想ってみる。そうすると、なんだか、ほっとする。だから、水のある情景が好きだ。

 ここからほんの三キロメートルも下れば、サバ川はドナウ河に流れこむ。その合流点を、高みから見下ろすようにして、旧き城塞カレメグダンがたっている。ローマ帝国時代にはシンギドヌムと呼ばれたベオグラード。城壁は、激しい歴史の濁流の中で、たえず支配者の名を書き換えてきた。中世に栄えたセルビア王国は、コソボの戦いに敗れてオスマン・トルコ帝国の支配下におかれる。トルコ帝国の崩壊のあと、この城の主はオースリア・ハンガリー帝国となる……。幾度もの蜂起、解放戦争……。城壁には、東と西を結ぶバルカン半島の歴史が地層のように重ねられている。

 この城壁のあたりでドナウは、サバ川をうけとめて、のっしりと流れていく。河岸の港にはキャフェが並び、外国の豪華客船が休んでいる。

 ヨーロッパ第二の大河、百二十の支流をもつドナウ河。ドイツのシュバルツバルト(黒い森の意)に端を発し、やがて大きな流れを形成し、十か国を繋ぐ。全長二八五〇キロメートル、その中流の五八七キロメートルがセルビアを流れている。長さでいえば、ルーマニアの一〇七五キロ、ドイツの六八七キロに次いで三番目の長さ。オーストリアの三五七キロよりはるかに長い。

 ドナウにつながるセルビアの支流には、サバ川、ティサ川、ティモック川、ベリカ・モラバ川などがある。その川たちには無数の小川がそそぎこむ。セルビアというバルカン半島の国で、ドナウ河の小さな支流を巡るとき、歴史という時間が、あなたの胸に流れはじめる。それぞれの土地が、セルビアに生きる人々の記憶をドナウに繋がる水面に、映しはじめる。


 バルカン半島の国、セルビアを流れるドナウの支流たち。水をめぐる小さな旅へ、あなたを私は誘いたい。小さな国の岸辺から、大河の光をとどけたい。あなたの胸に水の流れをとどけたい。



©︎Veliko Zitarevic ベリコ・ジタレビッチ

山崎佳代子(詩人・翻訳家)
一九五六年生まれ、静岡市出身。一九七九年、サラエボ大学に留学。一九八一年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)があるほか、『日本語現代文法』を著わした。