#02 ノビサド、寒い日々

 ノビサドは、ドナウ河の水源より一二五二キロメートルから一二六二キロメートルの地点に位置し、人口は三八万人ほど。ボイボディナ自治州の州都で、セルビアでは第二の都市である。ベオグラードからパンノニア平原を北へ約七〇キロ、ノビサド行のバスは、一時間に数本あり、列車の便も悪くない。左岸はバチカ平野、右岸はスレム平野でフルシカ・ゴーラの丘が連なり、そこをドナウがゆったりと流れていく。

 ノビサドのあたりは、一五二六年から一六八七年まではオスマン・トルコ帝国の支配下にあったが、一七世紀末からはオースリア・ハンガリー帝国の支配下に入り、街並みには西欧文化の影響が感じられる。カトリック教会、セルビア正教会、ユダヤ教のシナゴーグが町の中心に置かれ、異なる民族が混ざり合い、重厚な文化を生み出してきた。

 ノビサドの名前が歴史に登場するのは一八世紀のこと。一七世紀のオースリア・ハンガリー帝国の支配のもとで、ドナウの右岸の要塞の町、ペトロバラディンには、カトリック教徒以外の者が住むことが禁じられ、一六九四年、正教徒であるセルビア人は、左岸にラツコ・バロシュ(セルビア人の町の意)を形成した。やがて裕福なセルビア人たちはウィーンに行き、マリア・テレジア女帝に八万フォリントを収めて、ラツコ・バロシュに「王の自由都市」の称号が与えられた。勅令によって、都市の名前はラテン語でネオプランタ、セルビア語ではノビサド(新しい果樹園の意)と定められ、商業、手工業が発達し、セルビアのアテネとも呼ばれる都市として栄えた。

 町の中心には、セルビアの近代詩人の名前を冠した、ヨバン・ヨバノビッチ=ズマイ通りがあり、ここには研究機関、図書館、博物館などの役割を担うマティツァ・スルプスカという文化団体が置かれ、書店などが威厳のある店を構えている。通りにはケーキ屋やカフェ、居酒屋、ブティックなどが並び、人々の歩みはゆったりしている。鳩が広場で遊び、花壇が美しい。七月は、EXITと呼ばれる野外ロック・フェスティバルが行われ、外国からも多くの人々が訪れる。

 ドナウ河の夏は眩しい。シュトランドと呼ばれる水浴場に、パラソルが並び、水着姿の人々が小石をしきつめた岸辺に寝そべる。カモメが空を舞い、水を船が過ぎて行く。子供たちの歓声、家族が太陽を楽しんでいる。ドナウの流れは、強く速く冷たい。ここで泳ぎを覚えれば、素晴らしい泳ぎ手になれる。



 だが水浴場は、悲しい冬を記憶する。第二次大戦中、ノビサドは、ハンガリーのホルティ政権の支配下にあり、ナチズムの嵐が吹き荒れた。とりわけ残酷だったのは、一九四二年一月下旬の「寒い日々」と呼ばれる大量虐殺事件で、ユダヤ人、ロマ人(ジプシー)、セルビア人が、ドナウで命を失った。セルビア現代文学を代表する作家ダニロ・キシュも、七歳のとき、「寒い日々」をノビサドで体験している。



 七歳の少年ダニロは、姉と二人で長椅子に座っている。
「二つの現実が混じりあっている。家に憲兵と兵士が入ってくる。銃剣が光っている。一人の兵士がベッドの下を覗き、それから戸棚を開ける間、もう一人は銃を突きつけている。父は警察官に書類を見せる。警官は父にそれを返す。憲兵たちは立ち去る(第一ヴァージョン)。別のヴァージョンでは、一時間後、同じシーンが繰り返されるが、最後だけが違う。父は憲兵に書類を見せる。彼はそれを父に返す。父は帽子掛けから外套と帽子をとる。一瞬、杖を持っていこうか迷う…。杖は残され、帽子掛けで揺れている。」(『人生、文学』)

 キシュの父も、一斉検挙で連行された人々の一人だったが、「ある奇跡」のおかげで助かる。殺された人の数がおびただしく、ドナウ河の氷の穴に入りきれなかった、と言われるほど、残忍な蛮行は国際社会の知れるところとなり、虐殺が「少なくとも」一時的に中止されたからだ、という。九死に一生を得た父が家に戻るのは、翌日の午後であった。

 同年の春、父は子供たちにハンガリー語を教えようと決心する。庭の木製のベンチに幼いダニロは姉と二人で腰掛け、籐椅子に腰をおろした父と向かい合って、ハンガリー語を習う。突然、父は空を見上げる。本のページに、雪が舞い落ちたのか…。「『フル・ア・ホー、繰り返してごらん、フル・ア・ホー、いいかい、雪が降る、という意味だ』と、父は言った…」(『倉庫』)。父は、後にアウシュビッツに連行され、還らぬ人となった……。


「寒い日々」慰霊碑 (「家族」、ヨバン・ソルダトビッチ作)


 今年は暖冬で、セルビアは雪が少ない年となった。それが二月の終りから三月の初めに、思いがけぬ寒波に襲われ、季節外れの大雪が降った。雪を見つめていると、キシュの言葉、そして「寒い日々」が想いに浮かんだ。思えば、真冬の水浴場を訪ねたことは一度もない。ノビサドへ行かなくては……。何かに駆りたてられるような思いで、小さな旅に出た。この旅には、列車がいい。

 三月二日の早朝、家を出て、ノビ・ベオグラード駅に向かう。高架線の下のうらぶれたキオスクが、切符売り場だ。ガラス窓が割れている部分には、べたべたとガムテープが貼ってある。若い男が二人、切符を買っているが、支払に時間がかかっている。かなりの金額だ。国際列車でウィーンに行くらしい。私の番が来る。ペンの手書きで金額が記された切符を受け取る。往復五百四〇ディナールだ。

 階段を上ると、吹きさらしのホームに、列車が入ってくる。アナウンスは不親切だが、ノビサド行きらしい。八時四分。四人掛けのコンパートメント。私のほかに、女学生らしい女性と、年配の女性が一緒だった。車掌がやって来る。切符を見せると、不足分として百四〇ディナールを請求された。切符売りの女性の間違いだという。車窓に雪に覆われた草原が広がり、黒い鳥が飛び交う。パンノニア平原は、空が高い。太古の時代は海だったから、空が海を記憶していると、友達が言ったのを思い出す。セルビアは地中海の文化圏だ、という言葉を。

 間もなく、列車は徐行しはじめるが、アナウンスも無く、理由は分からない。ふと車内に取り付けられた赤いハンドルに眼をやると、ポーランド語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、セルビア語の六か国語で注意書きが記されている。これは国際列車なのだ。

 インジア駅で太った男の人が乗り込んできた。ビニールの大きな袋からバニラの匂いがする。手作りのお菓子を誰かに届けるのだろうか……。甘い香りに、ふと眠ってしまう。目が覚めると九時半、ノビサド駅に着いていた。がらんとした駅の構内を出ると、大雪で道は混雑しており、二〇分もかかってやっとタクシーが見つかった。



 車は雪道を走り、シュトランド水浴場の傍に着いた。ここから先は、歩いていらっしゃいと運転手さんが言う。木の下で待っているからね、と。

 水浴場の切符売り場には誰もいない。戸惑っていると、遠くから女の声がする。冬の間は、切符なしでいいのよ、と。鉄の柵を押すと、鍵などかかっておらず、あっけなく開いた。水浴場は雪に埋もれ、押し黙っている。大きなパラソルが、夏の名残をとどめていた。ドナウには橋が架かっており、対岸に煉瓦色の古い町が現れる。

 あの日、このあたりで多くの人が殺された。誰もいない岸辺。長靴の底で、雪がきしみ、足に冷たさが伝わってくる。あの日、連行された人々は、靴もなく裸足だった。子供もいた……。冬鳥の声がして、空を見上げると、白樺の枯れ枝が細い線を描いている。ドナウの灰緑の水を見つめた。

 車に戻ると、岸辺で子供たちが、そり遊びをしている。母親らしい人たちがおしゃべりしていた。そこから「寒い日々」の記念碑のあたりにむかう。「一九四二年一月二十一日、二十二日、二十三日」と刻まれ、多くの花環が雪のなかに埋もれ、凍っている。黒々とした記念碑は、彫刻家ソルダトビッチ氏の手によるブロンズの作品。子供を真ん中にして、男女が肩に手をかけて立つ。裸体は極限までやせ細り、身体がありながら、影になっている。雪道を歩かされた人々は、コートもマフラーも手袋もなく、三日で千三百人あまりが犠牲となった。対岸のペトロバラディン要塞を、彼らも見たのだろうか……。

ノビサドの中心にあるシナゴーグ

 そこから町の中心に向かい、シナゴーグのあたりで車を降りた。シナゴーグは、ペシタの建築家、リポット・バンホール(一八六〇-一九三二)の手によるもので、荘厳な建造物である。ユダヤ人協会で、お話を伺うことになっている。約束の時間まで、あと一時間ほどある。手がかじかんでいた。すぐ近くのグレーデというキャフェに入り、熱いお茶を飲みながら、カップを両手でつつみ暖をとる。

 十二時、ユダヤ人協会の事務所にむかった。仲良しの詩人、ブラディミール・コピツル氏が笑顔で迎えてくれた。事務所は中庭のある立派な建物の一室で、しばらくするとコピツル氏の知人、ミルコ・シュタルク氏が現れた。芸術大学の教授、赤い毛糸の帽子が若々しい。シュタルク氏の話が始まった。



 ボイボディナ地方にユダヤ人が移り住むのは、一七世紀のこと。ノビサドにも、弁護士や医師など名士たちが中心となってユダヤ人の共同体が生まれた。だが一九三三年、ヒトラーが登場する。シュタルク氏の父の兄は、「ヨーロッパは私たちにとって狭い」と言って、イスラエルに移住して行った。一九四一年、セルビアの北部、ボイボディナは、三分割される。バチカ地方はハンガリー、スレム地方はクロアチア独立国、バナット地方はドイツの支配下に置かれた……。



 ノビサドでは、ユダヤ系の家族の不動産の没収が始まる。突然、当局の者がやってきて、家屋を押収する。私の父の家は、中庭のある建物にあったのだが、祖母の妹夫妻のおかげで、没収を免れたのでした。祖母の妹は、クロアチア人と結婚していました。夫はイボ・コバチェビッチ、彼が家族を救ったのですよ。彼は郵政省勤務のエンジニアで、シーメンス社の電話システムの導入に携わっていた人です。彼は、当局に「この家族にはパルチザンなどいない」と、証言してくれたのです。僕たちの家族は、パルチザンの協力者だと密告されていたのでした。

 だが一九四二年、虐殺が始まります。ホルティ政権は、ノビサドでは、一月二十一日から二十三日にかけて、「寒い日々」と呼ばれる虐殺を行いました。ドナウ河だけではなく、支流のベチャイ川、ティサ川の岸辺でも、虐殺は二十日間ほども続けられたのですよ。

 その日は厳冬、マイナス二十度。ハンガリー軍は、シュトランド水浴場に人々を連行します。ドナウ河は凍っていた。人々に氷を割らせて、その穴に沈めていったのです。あまりの残虐ぶりに、ブダペストから中断するようにと命令が下ったほどでした。ユダヤ人、セルビア人、ロマ人、反ファシストたちが犠牲となったのです。シュタルク家の者たちも、シュトランド水浴場に送られました。



 四四年の春、ふたたびユダヤ人は一斉検挙されました。老人から子どもまで、旧郵便局の建物に集められ、そこからシナゴーグに収容されます。食物も水もなく、トイレもない。さらに鉄道駅に送られ、家畜を輸送する貨車で、ブダペストに送られました。ボイボディナ全土から集められた人々の多くは、アウシュビッツに送られたのです。生還したのは三百名ほどでした。

 父の名は、エゴン・シュタルク。少年だった父は、当時、地下組織だったユーゴスラビア青年共産同盟のメンバーとして、反ファシズム活動に加わっていた。一九四一年秋、アジトのあった魚市場で父は当局に捕まり、ハンガリーの町、セゲディンの刑務所に送られ、ソ連軍が刑務所を解放するまでの三年間をそこで過ごします。その後、父は二年間、ハンガリー語とドイツ語の通訳として働き、やっとノビサドに戻りました。父が家に戻ったとき、祖母は気を失ったそうです。

 祖母は、ダッハウのナチスの収容所に送られましたが、生きて還ります。手には収容所でつけられた刺青が残っていました。祖父はアウシュビッツで殺されました。父の姉、マルタはダッハウに送られ、チフスにかかりますが、命をとりとめて生還します。戦後、イスラエルに独りで移住しましたが、運の悪いことに、一九五三年、交通事故で亡くなってしまいましたよ。

 祖母の名はボリシカと言います。祖母は、家族の悲劇について、一度も語ったことがありませんでしたが、日記をつけていました。ボイボディナのハンガリー人の多い町、センタ市で生まれた祖母は、耳が聞こえず、ハンガリー語しかできません。僕の父はハンガリー語がわかります。日記は二十頁ほどありました。ずっと後になって、父は三年かけて祖母の日記を翻訳し、三年間、涙を流しました。それは、一九四五年の日記です……。



 アウシュビッツを、僕は訪ねたことがありますよ。五十年の歳月をかけて、心の準備をしました。髪の毛、歯……。カメラに収めようと思っていたのですが、展示品を前にすると、カメラを片付けてしまいました。カメラを回すことなどできなかった。理解できなかった。すべては「健全な理性」とは、およそ結びつけることができない……。

 僕の父は、戦後、鉱山学部を卒業して、大学で知り合った母と結婚、最初はサラエボのカカリ鉱山に勤務し、一九五九年にノビサドに移りました。サラエボ時代は、祖母が僕の面倒をみてくれ、小さな僕はハンガリー語ができた。

 祖母の日記の翻訳を父に頼んだのはね、僕なのです。父が祖母の日記の翻訳をはじめたのは二〇〇五年、翻訳が終わった二〇〇七年に、父は亡くなりました。

 ユーゴスラビアの内戦ですか。父は、この内戦について、一言も語ることはなく亡くなりました。今日は、お会いできて嬉しかった。また会いましょう……。


「寒い日々」慰霊碑、ユダヤ人犠牲者の慰霊碑

 シュタルク氏とお別れし、コピツル氏と通りに出る。「寒いね、お茶でも飲もう」と、コピツル氏。表通りから中庭に入り、狭い階段を上ると、キャフェだった。古風な家具が並ぶ。ひとつひとつ違う椅子とテーブルがそれぞれの昔話を囁く。窓から外光がぼんやりと差し込む。ルビー色のホットワインに、身体が芯から温まった。

 午后の雪道を、コピツル氏がノビサド駅まで送ってくれた。定刻になってもベオグラード行きの列車は来ない。無愛想なアナウンスで、人の群れが動き始める。別のホームに行き、列車が入ってきた。ベオグラード行きだ。

 列車が動き出す。窓から手を振る。今度は、僕たちの家においでよ、とコピツル氏が言う。列車は次第にスピードを上げ、夕映えがドナウ河を淡く染めていく。車掌がやってきた。例の往復切符を見せると、また不足分を請求された。今度は、百四〇ディナールの追加。よく解らない説明だ。だが、貨車でブダペストに送られた人々の運命を想うと、切符のことなど、どうでもよくなった。車掌は仲間と、空いた席にすわり、楽しげにおしゃべりをしている。

 次は、夏にノビサドを訪ねよう。ドナウの岸の並木道には、アカシアの木に、寄生木が緑の毬をふくらませて揺れるだろう。夜の闇に沈んでいく車窓を見つめながら、シュタルク氏のお祖母さんの日記には、何が書かれていたのだろう、と想った。



写真撮影:Teodor Kopicl テオドル・コピツル




山崎佳代子(詩人・翻訳家)
一九五六年生まれ、静岡市出身。一九七九年、サラエボ大学に留学。一九八一年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。