#03 葡萄と魚

円卓会議の故郷、スレムスキ・カルロヴツィへ



 七月の朝、八時三十分。小さな旅に出た。車がノビサドに向かう自動車道に入る。パンノニア平原が広がっていく。ハイウエイを右に折れる。スレム地方はドナウ河流域の肥沃な大地、イリグ村に入ると、ひまわり畑、林檎畑、トウモロコシ畑が続き、彼方に丘が波打っている。ブランコ・ラディチェビッチをはじめ、セルビアの詩人たちが詠ったフルシカ・ゴーラである。地名「フルシカ」の由来は、スラブ語でフランク王国を意味する言葉「フルグ(Frug)」、「ゴーラ」とは山、または森のことだ。一番高い地点は五三九メートル。落葉樹の森が、二〇〇メートルから四〇〇メートルほど、花環のように連なる。広大な丘陵は、国立公園に指定されている。
 葡萄畑に、緑の葉が揺れていた。スレムは葡萄酒の産地、コバチェビッチなど個性あるワイナリーがある。手元のガイドブックを開く……。この地域のワイン作りの歴史は長く、三世紀まで遡ることができる。ドナウ流域は、かつてローマ帝国の領土だった。十八人ものローマ皇帝が、現在のセルビア共和国の町や村に生まれている。しかも、三世紀から四世紀に活躍した皇帝の多くがスレム地方の出身だ。三世紀に第四十代皇帝となったマルクス・アウレリウス・プロブス帝も、当時のパンノニア州都シルミウム(現スレムスカ・ミトロビッツァ市)で生まれた。ライン川、ドナウ河の蛮族撃退で活躍、優れた武功があったが、ワイン作りにも深い関わりがある人物だ。
 紀元一世紀、第十一代ドミニティアヌス帝は、イタリア以外の土地でのワイン作りを禁ずる。各地で質の悪い葡萄酒が作られるようになったのが理由らしい。その約二百年後、プロブス帝がこの勅令を無効としてから、フランスやスペインをはじめ、各地でワインが作られるようになった。プロブス帝は、軍隊に命じ、フルシカ・ゴーラを開拓させて葡萄の栽培を奨励したが、軍隊内部の反発をかい、暗殺された……。


 緑の深い森を辿る。やがて空が明るんで、聖堂が現れた。ノーボ・ホポボ修道院だ。フルシカ・ゴーラには、セルビア正教会の修道院が群れをなす。十四世紀、コソボの戦いでセルビアがトルコに敗れると、セルビア正教会はトルコ軍の迫害を逃れて北上、十六世紀から十七世紀には、この地に三十五もの修道院が作られた。今は、十六の修道院が残る。
 門をくぐると僧坊に囲まれるようにして中庭があり、ゼラニウムが深紅の花を咲かせ、聖ニコライ教会があった。マクシム・ブランコビッチが一四九六年から一五〇二年にかけて建立した。日曜日には聖体礼儀が執り行われる。読経が流れ、神父の手が振り鳴らす「振り香炉」が鈴のように鳴り、蝋燭の光のなかに乳香がただよう。正教会ではオルガンなど楽器はなく、唯一の楽器は声である。無伴奏の聖歌が清らかだ。

ノーボ・ホポボ修道院

 いちめんに描かれた壁画に、息をのむ。ラピスという宝石から採った青い色は、ビザンチン・ブルーと呼ばれ、中世の教会美術を彩る。フレスコはギリシャのアトス山から来た画僧の手によるもので、十七世紀に描かれた。ここにも写経の学校が置かれ、ロシアやアトス山との繋がりは強い。二十世紀初頭、一九一七年、ロシアで十月革命が起こると、ソビエト連邦から逃れた白系ロシア人が、セルビアに安住の地を求めて亡命したが、この修道院にも、ロシア人の尼僧たちが祈りの日々を送っていた時期があったと聞いた……。
 だが今は、歴史の荒波が嘘に思われるほどに静かだ。修道院長が銀の器から、赤葡萄酒で煮たパンを匙ですくい、信者に与えている。最後に、大きな器に聖別された小さなパンが、皆に配られた。かすかに甘い。満ち足りた気持ちで、聖堂を出た。
 売店で小冊子を求め開くと、意外な事実に驚いた。十九世紀を代表するセルビアの啓蒙家、ドシテイ・オブラドビッチが、この修道院で出家していた。ドシテイは、イソップの翻訳をはじめ、セルビアの近代化に大切な書物の数々をドイツ語から翻訳した人だ。若き日に修道士となったものの、祈祷書や神学書には飽き足らず、様々な書物を耽読するうち、修道院を離れて世俗社会に戻り、学問を続ける決心をしたと記されている。彼がここで祈り続けていたら、セルビアの歴史は別の軌跡を描いただろう。ベオグラード大学の礎となったセルビア初のリセー(高等学校)を創立したのも彼である。顔を上げると、聖堂の壁を蔦の緑がおおっていた。


 ふたたび車で森の道を走った。窓を開くと、樹木の香が入り込む。曲がりくねる坂道を下っていくと、サイクリングの自転車の列にすれ違った。道路は狭く手入れが悪くて、穴だらけ。夜は怖いだろう。やがて分かれ道に出た。左に折れてイリリシキー・ヴェナッツ(Iriški Venac)へ向かった。
 野原に車を停めて、歩いていくと、男女がブラックベリーを摘んでいる。女の人が手のひらに分けてくれた。黒く光る実が甘酸っぱい。春は雨ばかりだったからな、今年は不作だ、と男の人。
 そこから五分も歩いたろうか。あっ、思わず声を上げた。道の傍らに、爆撃を受けたテレビ塔が立っている。生々しい傷跡は、一九九九年の春、NATOの空爆によるものだ、と分かった。

空爆されたテレビ塔

 この辺は、第二次世界大戦の激戦地であり、多くの犠牲者が出た……。野原に、巨大な記念碑が現れる。「自由」と題するパルチザンの群像、彫刻家スレテン・ストヤノビッチ(Sreten Stajanović)の作品で、一九五一年の制作と記されている。ドナウの岸まで約八キロ、サバ川の岸までは約四キロ。ナチス・ドイツの衛星国だったクロアチアとの国境もすぐそこ。壮絶な戦いだったろう。
 未来を見据えるように娘が立ち、その下を勇ましいパルチザンたちが歩む。土台にはレリーフが刻まれていた。右側は難民となった民衆がドナウ河を渡る姿、左側はナチス・ドイツに抵抗する人々……。セルビアでは、社会主義リアリズムは主流とはならなかった。シュールで抽象的な記念碑が多いから、この作風は珍しい。写真を撮っていると、老人が現れた。「数年前に修復したから、きれいだろう。あれは大変な戦争だった……。今日は天気もいいし、散歩日和だね……」

フルシカ・ゴーラの道


 車で、フルシカ・ゴーラをさらに下る。でこぼこ道の先は、広いトウモロコシ畑だった。文字通り、泥んこの道に入った。速度を落とす。やがて、いっぺんに視界が開けた。ドナウの青い光が、ゆったりと流れていく。車から降りて、しみじみと眺めた。坂をさらに下ると、煉瓦の屋根の家並みが始まる。スレムスキ・カルロヴツィに着いたのだ。
 ノビサドから約六キロ、人口数千人足らずの古都は、世界の喧騒から隔離されて、別の時が流れている。石畳の通りを急ぐ者はない。この町が古文書に最初に登場するのは一三〇八年、最初はカロンという名前だったと聞く。幾つもの民族がせめぎ合うバルカン半島の過酷な歴史が、ここに刻まれている。一五二一年、北へと版図を拡大するトルコに町は征服されたが、一七一三年には、トルコに圧迫され北上してきたセルビア人の町となり、セルビア正教会主教座が置かれ、印刷所も作られて、セルビア文化の中心を担った。町の中央には四頭の獅子の頭をあしらった古風な噴水、それを囲むように、一七九二年創立のギムナジウム(高等学校)、セルビア正教会、カトリックの聖堂が並んでいる。
 急な坂道を上り、「平和の聖堂(Kapela mira)」に向かった。
 丘の上に、聖堂はあった。気温は上がり続け、町の人の気配はない。東洋の女たちが日傘をさし、ベンチで休んでいた。観光客らしい。サングラスの女は、タオルを首に巻き、ヨーグルトを飲んでいる。

平和の聖堂

 聖堂の庭の門には鍵がかかっていた。壁の掲示板には、手書きで携帯電話の番号が記され、見学希望者は連絡されたし、とある。電話をすると、すぐ参ります、と女性の声がした。坂道のむこうから右足をかばうようにして、女の人が歩いてくる。きれいだと言えぬプードルがついてくる。ようこそ、と、エプロンのポケットから大きな鍵を取り出して門を開き、石段をのぼる。聖堂の中は、ひんやりとしていた。入場料は百ディナール。後から、ヨーロッパ人のカップル、例の東洋の女たちも入ったが、お金を払う者はなく、女の人も請求しない。なんと呑気な……。でも、説明をしてもらえるのは私だけだ。
 この丘は、ラウンド・テーブルの発祥の地。十七世紀末、オスマン・トルコ帝国とヨーロッパ諸国が、長い戦争のあとでこの丘に集まり、国境を決定する協定を結んだ。歴史の教科書にはドイツ語風に「カルロヴィッツ条約」とあるが、それがセルビアのスレムスキ・カルロヴツィのことだと知ったのは、つい数年前のことだ。
 女の人が説明を始める。プードル君もいっしょだ……。中世にオスマン帝国は、北へと版図を拡げて中欧に進出、大宰相カラ・ムスタファの率いるトルコ軍は一六八三年にウィーンを攻撃するも大敗、ベオグラードに撤退した。だが政敵がメフメト四世に讒言、処刑された。指揮官を失ったトルコ軍は苦戦を強いられる。ローマ教皇イノケンティウス十一世の呼びかけで、オースリア、ポーランド、ベネチアがカトリックの神聖同盟を結成して抵抗、大トルコ戦争に突入し、戦争は十六年も続く。その終結のため、ここで国際会議が開催されたのだ。イギリスとオランダの仲介で、神聖同盟側からオースリア、ポーランド、ベネチアが参加、オスマン帝国の代表、他にオブザーバーとして東方教会のロシア帝国の代表が集い、一六九八年十月二十四日から七十二日間、三十六回も会議を重ねた。
 スレムスキ・カルロヴツィの町が選ばれたのは、「誰にも属さない」町であったから。トルコの代表は駱駝に跨って現れ、丘にテントが張られ、仮の宿となった。駱駝は異郷でどんな餌をもらっただろう。長旅のあと駱駝もここで休んだ。ドナウの対岸にそびえる城塞ペトロバラディンの下町には、約百五十人、代表団の関係者や付き人たちが投宿した。下町には、英語、伊語、独語、露語、ポーランド語、トルコ語が不思議な音楽となって響いたことだろう。
 参加者が対等な立場で話しあうために、会議では円卓が用いられた。今日の国際会議のラウンド・テーブルの原型である。この丘は平和の象徴なのです、と女の人は言葉を続けた。記録によれば、全体会議の前に、二国間の会談が重ねられた。この結果、ドナウ河の大きな支流サバ川とティサ川が、オスマン・トルコ帝国と神聖同盟諸国との境界に定められた。当時の戦況を反映した境界線である。条約締結の日には、にわか作りのバラックの四方に作られた扉から同時に代表が入場、条約に署名。オスマン・トルコは星の運行を占い、縁起をかついで深夜十二時十五分前に条約は締結された。一六九九年一月二十六日の深夜である。
「聖堂が建てられたのは一七一〇年です。条約が結ばれた木造バラックに模して楕円形、四方に扉を作りましたが、トルコの代表が入場した扉を、聖母マリア像で塞いでいます。二度とトルコが攻めて来ぬよう祈願して……。一階の窓枠は仲介した英国を記念してユニオンジャック、二階の窓枠はオランダの旗のイメージです……」

かつてのトルコ入場扉を塞ぐ聖母マリア像

 開け放した入口の扉から、熱い外気が入ってきた。「会議の模様を伝える記録は、ベネチアに残る一枚の銅版画だけです」と、円卓会議の図版を見せ、女の人は、円卓をあしらったマグネットを下さった。庭に出ると、夏草のなかに墓標がひとつある。墓碑銘が読み取れない。ベネチア代表のお墓だ。「冬は厳しく、連日続いた会議で病に倒れ、客死したのです……」。異郷で昇天したイタリア人は、ドナウを見下ろすように眠る。
 門を出ると、プードルが私を見上げている。頭をなぜる。瞳が愛くるしかったが、お風呂に入れてあげたくなった。きれいとはいえない、そこが自然でいい。
「すぐ近くに、「雪の聖母教会」があります。一七一六年、トルコ軍は条約を破り、ドナウ河を渡ってペトロバラディン要塞を攻撃しますが、思いがけぬ冷夏、八月五日に雪が降り、トルコ軍は大敗しました。その日が「雪の聖母」の祝日だったので、教会の尖塔のひとつに、トルコを象徴する三日月を突き刺す形で十字架が掲げられています。この戦を最後に、トルコ軍は二度とドナウ河を渡ることはありませんでした……」と、別れ際に女の人が言った。
 旧道を行くと、「雪の聖母教会」があった。三日月を串刺しにした十字架も見える。正午とうに過ぎ、お腹がすいた。車を停めず、レストランに急いだ……。


 ドナウの岸辺、ここの川幅は広く、向こう岸に中洲が横たわり、空をカモメが飛びかう。店の名は「パセント(Pasent)」。土地の方言で、ちょうどぴったり、という意味らしい。洋服がぴったりとか、味加減が絶妙、というときに使うドイツ語起源の言葉だ。ノビサドの若夫婦が数年前に開いた店は白が基調で明るい。今日は町の人の披露宴らしく、お手製のケーキを抱えた老夫婦、ドレスの娘、慣れないスーツを着た青年が集まって来る。水辺の席は満席で、葡萄棚の下の席に案内された。
 フィッシュ・スープを注文する。ドイツ語の名が付けられた鍋料理は、鯰や鯉など川魚をパプリカの粉で味付けした赤いスープ。ハンガリー風の料理だが、リーブリャ・チョルバとも呼ばれる。リーバはセルビア語で魚、チョルバはトルコ語で実だくさんのスープのこと。ハプスブルグ帝国とオスマン帝国が境界線を争った土地ならではの名前の二重性。料理に言語が重なっている。ただ美味しさは一つだ。サラダはキャベツ、ワインは白。ハウス・ワインがガラス瓶に注がれ、運ばれてきた。ワイン・リストに、赤ワイン「アウレリウス」がある。プロブス帝の名を冠した高級ワインだ。
 ウエイトレスが、水玉模様のホウロウ鍋を運んできた。いい匂い。一人前とは、信じられない。最初の一口を味わう。魚が舌の先で溶けていく。よく冷えたワインは果物の香り、プロブス帝に乾杯……。
 魚のスープを味わいながら想った。スレムスキ・カルロヴツィは、セルビア人が多く住んでいた町だ。十四世紀末、オスマン・トルコに征服され、セルビアは国家を失っていた。オスマン帝国とヨーロッパ神聖同盟の代表は、会議で境界線を定めた。だが国を持たぬセルビア人たちの利益は、同じ正教国であるロシア帝国がちょっと代弁しただけだ。サバ川、ティサ川を二つの勢力の境として、スレムの平野はオスマン・トルコ帝国の領土、川の向こうはオーストリア、ハプスブルグ帝国の領土となった。土地のセルビア人の居住地は、川で分断された。円卓会議は平和の象徴だというが、国を持たぬセルビア人は、二つの帝国に挟まれ、戦で村や町が焼かれても、黙々と生き続けた。セルビア人の独立運動が始まるのは十九世紀初頭、ドシテイ・オブラドビッチが活躍した時代だ……。
 青緑の水を見ていた。店の前の船着き場から、舟が中洲に向かっていく。麦わら帽子、浮き輪、水着の子、水浴客たちの歓声……。十八世紀初頭、トルコ軍から逃れ、ラーチャの修道院を後にした修道士ベンツロビッチの船も、この水を辿ってハンガリーを目指した……。次に来るときは、舟に乗ろう。そう思った。

ドナウの岸辺のレストラン「パセント」



撮影:山崎久


山崎佳代子(詩人・翻訳家)
一九五六年生まれ、静岡市出身。一九七九年、サラエボ大学に留学。一九八一年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。