その7 本城雅人の『オールドタイムス』を読む

×月×日 菅新政権は、デジタル庁創設を盛んに謳っている。公明党は福島県に設置したらどうか、と提案した。世はまさにデジタル時代だが、デジタル改革はスマホと密接に連動している。高齢者に多い「スマホ難民」はどこへ押しやられるのか。
 新型コロナウイルスに感染し、入院中のトランプ大統領は、自分の意に沿わないニュースを「フェイク」扱いにするのがお好きのようだ。7月に刊行された本城雅人の『オールドタイムス』(講談社)を読むと、フェイクニュースがここまで進化しているのに驚かされる。進化という言葉が、適切かどうかはわからないけれども。
 写真は「真を写す」と書くが、そうでなく「嘘も写す」ことはアナログ時代から学んでいる。コンピューターグラフィックが曲者だということも知っている。
 だから、ブログやツイッターなどで、「美談」の主としてヒーロー扱いされる人の裏側に、秘められた一面の真実があるかもしれない。おぼれている人間に石を投げつけるようなニュースも疑ってみる必要がある。
 ウェブニュース会社を立ち上げた元夕刊紙記者の不動優作ら7人の侍たち。「耳当たりのいい言葉にこそ眉に唾をつけて考えよう」の信念で、現代のネットニュースの真贋を探っていく。既存のマスメディア批判でもあるが、ネット社会の危うさと脆(もろ)さが鮮明に浮かび上がる。SNSが全盛の時代だからこそ液晶画面の裏側に隠れている人間のさまざまな煩悩や業が、よりリアルに感じられるのかもしれない。ちょっと甘いかもしれないが、本城雅人は巧みに現代のSNS事情の光と闇を描出した。すでに直木賞候補に挙げられたこともあるが、本作もノミネートされるだろう。

×月×日 相変わらずメディアだけでなく、都知事をはじめとして日常の会話にも外来語が蔓延している。単語のアクセントを後ろにもってくるのが、最近のトレンドなのだろうか。「ライン」が最も顕著な例だ。
 主にテレビで聴いていて、おかしいと感じた単語を並べてみる。主にアナウンサーで、チャラチャラした若いタレントたちではない。
 ドラマ、クラブ(酒場)、ドラム、ライブ、リスク、ブース、ベース、シート、パネル……。
 三文字の単語に限らず四文字以上の長めの単語でもそうだ。ドライバー、サークル、ショップ、バイヤー、オーブン、ベーコン、マネージャー、ディーラー(カジノ)、ワイナリー、レギュラー、アドバイザー、プログラマー、パフォーマー、バーディー(ゴルフ)、ピーラー(調理器具)……。挙げていけば限りがない。
 日本語でも、業者、屋台、今月、医官(防衛省)などなど。大相撲の話でもないのに、「角界の意見をお聞きする」というのでおかしいと思ったら、「各界の意見」だった。
 どうも、語尾にアクセントをつけた方が格好いいと思うのかしらん。一時、半クエスチョン語として、半ば疑問形みたいに語尾を跳ね上げる話法が流行った。今でも、時折耳にする。いつの間にか若者言葉が大人に移ってしまった。若者が大人に成長したからかもしれないけれども。

×月×日 [ノムさんのこと]⑥
 野村は捕手として皆川睦雄の投球を受けることで、投手の配球を自分の打撃に生かすことを会得した。投手と捕手の心理を分析し、次にくる球種を推測するのだ。オールスターのように、初めて対戦する投手と捕手には、過去のデータがないから、その「読み」が通用しなかった。
 皆川には杉浦のような球威はなかった。しかし針の穴を指すような正確なコントロールを持ち合わせていたので、捕手として「サインの出し甲斐」があった。先に述べた「杉浦の球は受けていて面白くない」とは、そういう意味だ。杉浦には、配球の妙で打者を抑える必要がなかったからだ。
 しばしば野村が口にして文章にも残していることだが、銀座のクラブで王とばったり会ったことがある。王とは、よく話が合った。お互いに同じ高卒ということもあったに違いない。積もる話もあっただろうに、王が「ノムさん、申し訳ないけどお先に失礼します。荒川さん(博。早実の先輩で「一本足打法」の生みの親であり指導者)が待っているのです」といって帰っていった。
 野村は、「この人に勝てるわけはない」と思い至ったという。片や、これから練習するというのに、自分は、銀座でホステスと無駄話をしている。野村が作り上げた通算本塁打数などの記録は、次ぎ次と王によって破られていった。野村は、からきし酒は飲めない。そんな人が銀座に行くのは、相手選手の情報収集だった。打席に入った時にぼそぼそとささやくのである。
 実は、野村も熱心に指導した選手がいる。柏原純一だ。自宅が近いこともあり、試合後も毎日のようにバットの素振りを繰り返していた。一度、柏原がやむにやまれぬ用事があり、野村に断って休んだことがあった。柏原が深夜帰ってみると、玄関前で野村がバットを振っていた。
 以後、柏原は自分から、「休ませてください」と言ったことはない。ただ荒川博は、チームと関係が無くなった元コーチだから、単に王の高校の先輩に過ぎず、友人みたいなものだ。柏原と野村は選手と監督の関係だった。
 野村の南海ホークス兼任監督時代の末期、「公私混同」と言われても仕方のない言動で、選手の間に亀裂が生じ、指揮官としての権威は失墜した。あまりにも沙知代がしゃしゃり出過ぎたといっていいだろう。選手の一部に取り巻きのような「沙知代親衛隊」が生まれた。
 まだ正式に離婚が成立していなかったから、余計に反発があった。「野球を取るか、女を取るか」と言われ、即座に「女を取る」と答えた野村は、南海の監督を解任された。兼任中の1973年に一度だけパ・リーグの首位になったが、日本シリーズでは巨人に負けた。南海ホークスの監督としては、あまり自慢できるような成果を上げることはできなかったといっていい。
 解任されたときの記者会見で、「一部の大きな力が影響している」と暗に「鶴岡の意向」と発言してからというもの、南海とは絶縁状態になった。「俺は女で失敗したかもしれないけれど、野球の上では失敗していない」と強弁したが、組織の上に立つ指揮官として、野球以外の人間としての魅力が問われるのは世の習いで、世間が認めるところではなかった。
 78年に野村は、一選手としてロッテ(金田正一監督)に移籍した。翌79年から2年間西武(根本陸夫監督)に在籍した後、27年間の選手生活を終えた。
 野村が南海ホークスを退団した際、野村と親しかった江夏豊、柏原純一は広島、日本ハムへそれぞれ移籍した。球団は野村色を払拭したかったのだ。柏原は野村と同じロッテへの移籍を懇願したが、受け入れられなかった。日ハムで4番打者として活躍した。特にロッテ戦ではよく打った。「野村から教えてもらっている」、と陰口をたたかれた。半分程度は当たっていたのかもしれない。柏原は後に阪神に移籍し、コーチとなったが、新庄剛志以外に大した実績は残せなかった。
 ロッテ時代の野村は肩も衰え、活躍の場が無かったが、評論家の草柳大蔵の知遇を得て、「生涯一捕手」という標語を教示され、頼まれた色紙などに好んで用いるようになった。=敬称略(2020,10,7)
◇次回の更新は10月21日の予定です
筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。10月に『落語の行間 日本語の了見』を左右社から刊行予定。