その11 ソフトバンク工藤公康監督の豊饒な言葉

×月×日 福岡ソフトバンクホークスが日本シリーズを圧倒的な強さで4連勝し、工藤公康監督は5度目の日本一を成し遂げた。しかも今年で4年連続になる。V9の川上哲治(巨人)の最多連続記録に次ぐ2位に躍り出た。
 しかも勝率がすごい。20勝4敗1分の8割3分3厘は断トツだ。通算5度の日本一は川上(11度)、森祇晶(6度)についで水原茂に並ぶ歴代3位の記録だ。
 余談になるが、勝率8割3分3厘というのは、奇しくも将棋の藤井聡太二冠がプロ棋士になってからの通算勝率8割3分3厘と同じだ。将棋の2位は永瀬拓矢王座で7割1分9厘、3位は羽生善治9段で7割3厘だから、やはり段トツと言えるだろう。もちろん、将棋と野球の勝率を比較する意味はあまりない。たまたま同じような数字だったので紹介しただけだ。
 工藤公康は幸せな監督だと思う。しかし才能がなければ優勝はできない。工藤は名古屋電気工業高を卒業して、西武ライオンズに入団した時から、良くしゃべった。普通18歳の青年は、そんなに口が回らない。新人にしては、しゃべり過ぎだといわれたこともある。
 今回も第2戦後の「囲み取材」で巨人の原監督が39秒で終わったのに、工藤は7分29秒も取材に応じたという。もちろん敗者と勝者の違いはあるし、単なる「お話好き」といった次元の事柄ではない。メディアを相手にした試合後のインタビューは、ファンへのサービス精神の現れでもある。
 考えてみれば、それだけ自分の言葉を持っているということかもしれない。中国の論語に「巧言令色鮮(すくな)し仁」とある。口が上手くご機嫌をうかがうような愛想の良い人物は信用できない、といった意味だ。別に工藤がご機嫌取りに長けている、というわけではない。古来日本では伝統的に「男は無口」が美徳とされてきた。しかし、相手を説得するコミュニケーションに言葉は不可欠だ。選手を掌握し、統率力を生み出す。
 そう考えてみると、言葉を持たない人はしゃべろうと思っても、しゃべれない。「顔色をうかがう」とか「腹を読む」、「目は口ほどにものを言い」などともいわれるが、どうかな。最後は言葉で、しかも自分の言葉でなくてはいけない。

×月×日 石川県と富山県で地方紙を発行している北國新聞社から、「北國文華」という季刊の文芸誌が出ている。12月に発売された第86号では、「池波正太郎が愛した井波──時代劇作家のもう一つの『故郷』」を特集している。そういえば亡くなったのは平成2年だから、早30年が経つ。
 「故郷」というのは、池波家のルーツが井波(富山県南砺市)にあることがわかり、生前に数回訪ねている。井波は欄間(らんま)の透かし彫りで知られる木工の町だ。池波は井波の風土や住む人の気質がいたく気に入り、「老後は井波で過ごすのも悪くない」とまで考えた。私も、池波夫妻と一緒に訪ねたことがある。どうも夫人はあまり興味を示さなかった節がある。
 池波正太郎と初めて知り合ったのも、冬の金沢の旅だった。先の東京オリンピックの翌年、1965年のことだ。そんなことをどこで知ったのか、「池波さんと歩いた『雪の金沢』」という原稿を頼まれた。開通したばかりの東海道新幹線で、米原を経由して金沢に入り、帰りは直江津回りの夜行寝台を利用した。今では北陸新幹線が開通し、東京と金沢の距離は格段に縮まった。
 当然のことながら、金沢の変貌はすさまじいものがあろう。その様相をこの目で実感しようと思っていたら、新型コロナウイルスの騒ぎが出来した。都内の外出もままならないのだから、金沢は当分行かれない。なんとも口惜しいかぎりだ。
 「北國文華」の前号の特集は「開港50年 金沢港誕生秘史」だった。地元の歴史と文化に焦点を当てた文芸誌は、全国的に見ても貴重な存在だ。今後のユニークな活動に期待したい。

×月×日 コロナ騒ぎで、外食の機会がめっきり減ってしまったが、イタリア料理店の隆盛は相変わらず目を見張るものがある。「イタリア料理小説」ともいうべき、新刊が出た。『海と山のオムレツ』カルミネ・アバーテ著(関口英子訳・新潮社)。作者のカルミネ・アバーテは、カラブリア州出身のアルバニア系イタリア人。アルバニア系の住民はカラブリア州を中心に「アルベリア」というコミュニティを作り、独特のアルバレシュ語を話す。
 アバーテの母国語はアルバレシュ語で、6歳までイタリア語を話さなかった。イタリア語を覚えたのは、小学校へ通い始めてからだった。イタリアの地形を長靴に見立てると、つま先にあたるカラブリア州はイタリアでも貧しい地方とされ、アバーテの父親もドイツに出稼ぎに出ている。アバーテは大学を出て、ドイツでイタリア語教師の職に就き、やがて作家になる。本書は幼いころから口にしてきた食事を言葉に変換して、著した自伝的小説といえる。
 ピーター・メイルの『プロバンス物語』を彷彿とさせるが、向こうがエッセイとすれば、こちらは自伝というところがやや異なる。しかしピーター・メイルは英国人だし、アバーテも生っ粋のイタリア人と言えないところに共通項がある。
 カラブリア州の料理が次から次へと登場するが、唐辛子が特徴らしい。しかも激辛だ。各家庭の台所には、丸いころころしたものから、細長いもの、動物の角に似ているものまで、多くの種類の唐辛子がぶら下がっている。その辛さは「舌を燃やし、思い出を焼き尽くす」といわれる。
 よく「イタリアの各地方にそれぞれの郷土料理はあるけれど、イタリア料理という料理はない」といわれるが、その意味するところが良く理解できる。
 アバーテの父親は、出稼ぎから帰ってくると、食事の最後に必ず次のようにいう。
 「母さんが作ってくれたおいしい料理を家族でいっしょに味わう。人生でこれ以上素晴らしいことがあるか?」
 本書を読むと、誰でも自分の食生活の歴史とともに自伝を書きたくなるだろう。しかし、「腹を空かせるのが最良の調味料」という体験が今の若い人にはない。不幸なのかそれとも幸福なのかはわからないが、空腹感が無ければ良質な「食文学」は生まれないだろう。

×月×日 [ノムさんのこと]⑩
 野村克也が鶴岡一人の功績の一つに挙げるのが、そのスカウト術だ。球団から大きな権限を与えられていたという当時の事情(実質的にはGMを兼任していたともいえる)もあるが、大沢啓二、杉浦忠、長嶋茂雄(寸前に巨人へ逃げられた)の立大ラインに始まり、『あなた買います』の穴吹義雄(中大)、渡辺泰輔(慶大)などを獲得したのは、鶴岡の交渉術が長けていたからで、皆川睦雄も山形の高校時代から手を伸ばしていた。
 後藤新平の「財を遺(のこ)すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上」を座右の銘の一つとしていた野村は、意外な人を遺していた。私はまったくその経緯を知らなかったが、中日ドラゴンズで活躍し、最後は巨人でコーチも務めた井端弘和だ。南海を退団した後、東京に出てきた野村は、西武ライオンズを最後に引退し、評論家となった。中学生の硬式野球チーム、港東ムースの監督を務めた。息子の克則もチームの一員で、オーナーは沙知代夫人。井端は同じリーグの城南品川で投手をやっていた。
 野村の死後、各テレビ局は追悼の特集番組を放映し、スポーツ関係の雑誌も、追悼の臨時増刊号を出した。その中の一冊、「週刊ベースボール」増刊の『野村克也 追悼』」(20年3月31日号)に井端弘和が、「野村監督と私―。」という一文を寄せている。
 89年の9月、ピッチャーをやっていた2年生の井端の投球を見て、野村は「あの球は打てない」と漏らしたという。野村が率いる港東ムースと対戦したわけではない。準決勝の試合がたまたま目にとまったのだ。港東と決勝になったが、井端は事情があって試合には出なかった。野村は10月にヤクルトの監督になる。
 1年後の7月、野村から井端の自宅に「もう進学先は決まっているのか」と電話がかかってきた。
 井端はシニアの野球も止め、地元神奈川県の県立高校へ進むつもりだった。
 野村は「高校で野球をやるなら、強い高校でやったほうがいい」と東京の堀越高校を紹介したが、「ピッチャーは止めて、ショートをやった方がいい」とアドバイスを与えた。
 井端は堀越の名前も知らなかった。二年上に野村克則がいることを知ったのは、入部してからだ。井端は亜細亜大学で野球を続け、中日にドラフト5位で指名される。もし野村の電話がなかったら、野球を止めていたかもしれないし、そのまま投手を続けていただろう。ショートへ転向の理由は、聞かずしまいだったという。
 プロ入り後に同じ球団で野球をやることもなかったが、楽天の監督時代に「いま欲しい選手は井端」といっていたということを人づてに聞いて、ものすごくうれしかった。
 福岡ソフトバンクホークスの甲斐拓也も、同じ増刊に一文を寄せている。今回の日本シリーズでの活躍は素晴らしく、最高殊勲選手に選ばれなかったのが不思議なくらいだ。甲斐が生まれたときには、すでにヤクルトの監督をやっていたから、野村のプレーは見ていないし、一緒の球団に属したこともない。ただ幼いころから野球を始め、野村の本を読んでいた。野村は母子家庭に育ち、育成契約から這い上がった甲斐に自分の過去を重ねたのだろう。会うたびに「母ちゃんを大事にしなさいよ」と声を掛けた。週刊「ベースボール」で対談をしたこともある。
 20年から、甲斐は南海時代の野村の背番号19を付けることになった。野村の意向があったという。残念ながら19番のユニホーム姿を野村に見せることはできなかった。
 追悼のテレビ番組も各局で放映されたが、取材を終え、帰りの車の中と思われるシーンが印象に残っている。確かNHKだったのではないか。すでに佐知代夫人が亡くなった後だが、自分の左腕にはめた時計をジーっと見つめながら、「エリートはこんな時計を使わんわな」とつぶやいた。
 趣味と言えば高級時計を集めるくらい。いずれも1千万円クラスといわれる。最期まで自分の極貧の家庭生活を気にしていた。それは嫉(そね)み、いじけるのと紙一重だ。
 沙知代夫人との出会いが晩年の野村を大きく変えた。野村は沙知代に母親の姿を想い、父親の影を追っていた。(この項、次回完結)=敬称略(2020,12,2)
◇次回の更新は12月16日の予定です。

筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。最新刊『落語の行間 日本語の了見』(左右社)が好評発売中。