その12 相次ぐ雑誌の休刊は何をもたらすのか

×月×日 女子大生や若いワーキングウーマンたちに人気のファッション雑誌は、赤文字系といわれる。「JJ」(光文社)、「ViVi」(講談社)、「Rai」(主婦の友社)、「CanCan」(小学館)などで、表紙の書名が赤やピンクの色を好んで使うからだ。
 その先導者的役割を果たした「JJ」が休刊となった。彼女たちの祖母や曾祖母の世代に読まれた「ミセス」(文化出版局)も来年の4月で休刊となる。創刊は1961年だから60年の還暦になる。出版界で「休刊」といえば「廃刊」と同義語だ。
 食や酒の世界でも、「グルメジャーナル」は古い話としても、ワイン専門誌「ヴィノテーク」は廃刊となり、「料理通信」は休刊して「第2章」を始動させるという。元メルシャンに勤めていた有坂芙美子が1980年に創刊した「ヴィノテーク」は、数年前から田崎真也が経営を引き継いでいた。日本のワイン界の隆盛に大きく寄与した。創刊号には「酒博士」として知られた坂口謹一郎が寄稿している。
 柴田書店の「専門料理」編集長だった齋藤壽が1994年に創刊した「料理王国」の流れを汲む「料理通信」は、小規模なレストラン経営者たちに光を当てた。今のスイーツとパンのブームを演出したともいえるだろう。
 編集顧問を務めた齋藤は、「料理の世界でも、時代とともにハイテク技術は開発されていくだろう。しかしこれからも人間的なふれあいはなくならないどころか、ますます人間臭さが求められていくような気がする」と最終号に寄稿した。
 各雑誌によって、休刊の理由はさまざまだ。「紙媒体」の衰退に加えて、コロナ禍の影響を忘れることはできない。まさに出版業界は大きな変節点を迎えている。

×月×日 『藤井聡太の時代』(朝日新聞将棋取材班・朝日新聞出版)を読む。現在の将棋ブームは藤井ブームに他ならない。本書を読むと、藤井の才能と努力が周囲の人の支えで花開いた経緯がよくわかる。特に家族と師匠の杉本昌隆八段の存在が際立っている。師匠の人柄が藤井をここまで育て上げた、といってもいい過ぎではない。
 また将棋界がこぞって、ニューヒーローの出現を喜び、同時にこれからの発展を後押ししている構図がうかがえる。勝負の世界なのに、ちょっときれいごと過ぎる気がしないでもない。外部の素人の目には、異様にさえ映る。棋士というのは素人にうかがい知れないメンタリティと勝負根性の持ち主らしい。

×月×日 中野翠の『コラムニストになりたかった』(新潮社)は、中野の自伝と言っていいだろう。名門大学を出て父親が務めていた新聞社の出版部門の「お茶くみ」のアルバイトから社会人人生が始まる。大手出版社を辞め、出版業界で原稿料を頂戴して暮らしていくのは、大変な才能と努力と運を必要とする。本人はさらりと受け流しているが、フリーランスで生き続けるのはそう簡単なことではない。雇用機会均等法以前の女性のロードムービー風サクセスストーリーだ。
<自分では全然そうは思っていないのだが、若い頃、年長の人たちに「愛相がない」と言われたことが何度かある。「愛相って?!」と私は考え込んだ。高校時代からの親友・K子にその話をすると、「無愛相よ、あなた。自覚ないの?」と言うのでビックリ。K子こそ愛相笑いの一つもできない、ストレートな女なので。互いに「私のほうがまだマシ。愛相がいい」と思いこんでいたのだ(いまでも私のほうが人当りは柔らかいと思っている)。>
 このように、自分を冷静かつ客観的に見つめることが出来るところが、才能だろう。ご本人は気が付いていないかもしれないけれど。

×月×日 [ノムさんのこと]⑪
 野村克也はハングリー精神をもって野球をやっていた最後の時代の選手だった。欠場したら、即自分の出番がない、すなわち生活に困る、という意識だ。ファウルチップを受けた野村の右の薬指は第一関節から曲がったままだ。骨にヒビが入り、医者からはギプスで固定しないと指が曲がるといわれたが、薬指だからいいだろうとそのままにして試合に出続けたからだ。阪急のスペンサーに内ももをスパイクされた傷など、10近い傷が残った。
 骨折しても試合に出た。顔面を強打しても、青黒い顔でベンチに姿を現した。今の選手はすぐどこそこに違和感がある、といって休む。考えられないとぼやいた。
 野村について語るなら、沙知代夫人について述べないわけにはいかない。沙知代のおかげで、監督を二度クビになった、と自虐をこめていう。
 沙知代が2017年の12月に虚血性心疾患で急逝し、一周忌が済んだ19年の4月に野村は『ありがとうをいえなくて』(講談社)を出版した。以下本文から引用する。
<頭を下げるとか、腰を低くするとか、そういうことはすべてどこかへ捨ててきてしまったような女である。すべて上から目線。すべて頭ごなし。地球は自分中心に回っていると本気で思っているのだ。>
 結婚してから30年たって、沙知代の経歴がほとんど嘘だったことに気づいた。
<私は出会ってから約三十年間、沙知代の言うことを信じ切っていた。ところが、私に語ったキャリアは、ほぼ一〇〇パーセント嘘だった。>
 東京生まれの東京育ち、戦闘機を作っている会社社長の娘、から始まり、コロンビア大学で学んだ、と聞かされていた。テレビ局はコロンビア大学まで行って照会し、沙知代の過去を暴き立てた。
<騙す方も騙す方だが、騙された方も悪い。妻の悪いところは、こちらにも責任がある。
 一般論から言ったら、最低の女房だろう。見栄っ張りで、金に汚く、傲岸不遜。悪妻の見本のような女だった。
 生まれ変わっても沙知代と巡り会いたいかと聞かれたことがある。
 勘弁してくれ。それが正直な気持ちだ。>
 と言いながらも、すぐに沙知代のような女性を求めてしまうのではないか、とも語っている。
<沙知代の棺桶を閉じるとき、あらためて顔をじっと見た。いまさらながら、彼女に惹かれた理由がわかった気がした。おふくろによく似ている。
 気の強いところだけではなかった。鼻ぺちゃなところも、そっくりだった。
 沙知代は、いわゆる妻らしいことは何一つしなかった。食事も作ってくれなかったし、洗濯もしない。子育てにも熱心でなかった。
 妻としての沙知代に多くを求めなかったのは、私が、沙知代の中の父性をより必要としていたからだろう。
 私は父と母が待つ家を知らずに育った。私にとっては、沙知代が初めての父と母が待つ「家」だった。>
 二人とも酒は全く飲まなかったが、タバコはよく喫った。趣味と言えば買い物くらい。野村が集めた時計はすべて何百万というものばかりで、一度泥棒に盗まれたが、30本くらいは残っているという。
 他人の夫婦について傍からあれこれ言っても始まらない。無粋の極みであろう。私は、野村が結婚したばかりの頃、西宮の自宅で先妻の正子にも会ったことがある。沙知代の前ではもちろん、野村にもいう機会はなかった。明かしたところで、お互いにせんかたない思いが残るだけだ。
 みんな逝ってしまった。野村克也はあの世で、なにをぼやいているのだろう。(この項おわり=敬称略)(2020,12,16)

◇今年も一年間のご愛読を感謝いたします。どうぞ良いお年をお迎えください。
次回の更新は新年1月20日の予定です。
筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。10月より最新刊『落語の行間 日本語の了見』(左右社)が好評発売中。