その14 精神論ばかりが先行する東京オリンピックの行方は?

×月×日 東京オリンピック開催の是非を巡って議論がかまびすしくなってきた。世論の大勢は明らかに「実施は無理」ということだろう。IOC会長を初めとして、大会組織委員会や東京都、JOC、政府が開催に向け強行する姿勢を見せるのは立場の上から当然のことで、とやかくいっても始まらない。その裏では観客の有無、医療体制など最悪の事態も想定して検討しているに違いなく、表向きには発信できないだけのことだ。
 また多大なオリンピックマネーが絡んでいるから、「着地点」がなかなか見えてこない。中止、あるいは無観客となった時にどこが赤字を補填するのか。すでに一年延期したことで、多大な経費が掛かっている。金銭的な損失をどう処理するのか、悩みは尽きない。
 しかしいつまでも、今のままで過ごすことはできない。いつかは決断しなくてはならない時が来る。森喜朗組織委員会会長は、「国内で聖火リレーが始まる3月末までには」と発言したから、一応のメドになる。
 オリンピックを目標としてきた選手たちには気の毒だが、選手たちの競技人生と多くの人の生命を秤にかけたら、答えはおのずと明らかだ。ワクチンを開催の切り札にするという意見も散見するが、オリンピックのために高価なワクチンを入手するわけではない。やはり、国民の生命を守ることを最初に考えるのが、政治の基本だろう。
 昨年の4月ごろか、中国の習近平主席の来日と夏のオリンピック開催を巡って、政府と東京都のコロナ対策が遅れたことは否定できない。この失態の二の舞を演じるのか。政府と東京都は何も学習していないように見える。
 さらに強行派の主張に科学的根拠が乏しいのが、問題なのだ。「ゆるぎない決意」(山下泰裕JOC会長)、「党として開催促進の決議をしてもいいくらい」(二階俊博自民党幹事長)、「人類がウイルスに打ち勝った証として東京で開催する決意だ」(菅義偉首相)などといった精神論ばかりが先行している。「菜っ葉の肥やし」のような「掛け声(肥え)ばかり」では、少しも説得力を持たない。「欲しがりません、勝つまでは」「進め! 一億火の玉だ」といった戦時中の標語を思い起こす。
 かてて加えて、安倍前首相の国会での「虚言」問題があり、自民党と公明党の幹部代議士が、深夜の銀座を徘徊する騒ぎも起こった。新型コロナウイルス対策の特別措置法の修正内容は、ドタバタもいいところで、菅官邸にはクオーターバックがいないのか、どこにパスするのか自軍の選手にも全く分からない。誰が言い出したのか、「安倍に菅あり、菅に菅なし」とは、官邸の脆弱性を的確に衝いている。菅首相は、とうとう「先には生活保護がある」とまで口に出してしまった。古い話だが、1950年の池田勇人元首相の「貧乏人は麦を食え」よりもひどい。
 政府に国民を守る姿勢が見えてこないから、国民はますます白けて、東京オリンピックの関心が薄れていくばかりだ。緊急事態宣言延長について、菅首相の発言もひどかった。
「2月7日で緊急事態が終わると考えている人は、一人もいらっしゃらないのではないでしょうか」
 こんな他人事(ひとごと)のような口の利き方はない。
 大勢の意見を追認、追従しているだけで、首相自身の判断、決意など、訴えるものが何一つない。いっそのこと「夏のオリンピックが開かれると思っている人は、一人もいらっしゃらないのではないでしょうか」といってみればいいのに。確かに感染者数は減少の傾向が見える。政治家への信頼が薄れているから、「オリンピックを控えて東京都は数を少なく発表しているのではないか」という噂も出てきた。みんな疑心暗鬼なのだ。コロナ騒動が沈静化しても、政治不信から生まれた「政治的無関心(ポリティカルアパシー)」はさらに強まるだろう。最も深刻なコロナ後遺症になるかもしれない。

×月×日 「EIKO 石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展を深川の東京都現代美術館で観る。初めて中に入ったが、思っていたほど、先鋭的な建築ではなかった。
 先に『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(河尻亨一・朝日新聞出版)を読んでいたので、理解が早い。デザインや写真の評論家は、難解な文章を書く人が多いが、河尻亨一さんの文章は平易で、読みやすい。
 文中に日宣美の話が出てきた。石岡さんは私より一つ上なので、ちょうど日宣美が最も盛んな時に芸大から社会人へと足を踏み出したことになる。新聞のレイアウトの実験的試みが日宣美に出展されたことを思い出した。
 大まかに言うと、ブランケット版の日刊紙を半分にしたのが、「夕刊フジ」や「ゲンダイ」の夕刊紙で、タブロイド版という。タブロイド版を二つに折った面を縦にして「田の字」に四つ並べた格好だ。その四つのブロックごとに記事をまとめる大胆な試みで、混んだ電車の中でもスマートに折りたため、読みやすくなるという紙面改革案だった。
 新聞社では、レイアウトという言葉をあまり用いない。「整理」という。デザイナーは記事の内容よりも、すべて「活字の塊」(マッスと呼ぶ)として、処理したがる。記事の内容から取った見出しの文字の訴求力をあまり重視しない。昨今の夕刊の記事のインデックス的な扱いを、先取りしていたのかもしれない。もう60年も前のことだから「先取り」というのには、いささか古すぎるけれども。
 私はまだマスコミュニケーション論を専攻する学生だったが、粟津潔氏や朝倉摂さんから呼ばれ、この紙面デザインについて勉強会をしたことがあった。なぜ声を掛けられたかは、覚えていないが、若い人の意見を聞きたかったのだろうと思う。神宮外苑近くの喫茶店だった。まだ東京オリンピックの前で、日本中にデザイン時代が来る前兆があった。呼び名も図案家からデザイナーへ変わる過渡期ともいえる。アートディレクター、グラフィックデザイナーといった、カタカナ職業が増殖しつつある時代だった。
 石岡さんは資生堂のホネケーキや前田美波里を起用したポスターで一躍実力を認められたが、グラフィックの世界だけでなく、エディトリアル、ファッション、舞台美術、映画の衣装デザイン、さらに冬季北京オリンピック開会式の演出、スポーツウエア等、活躍したジャンルは多岐にわたる。まさにユーテリティプレーヤーだ。一緒に仕事をしたくなる人だったかどうかは、また別の問題だ。
 かつて私が若い頃、「週刊朝日」の表紙に石岡さんを起用できないかと模索したことがあった。日本の経済発展とともに成長、活躍した人だが、どの程度の経済的規模で仕事の価値が評価されたのか、知りたいところだ。またコマーシャルの分野でのチームプレーと、自己の芸術的創作意欲のバランスをどのようにとったのだろう。

×月×日 芥川賞の選考委員、島田雅彦氏の『空想居酒屋』(NHK出版新書)を読む。私より22歳下。若いということが、食の世界でどれだけ有効かどうか、難しい問題だ。食の原稿を書くとき、読者がもし自分より年長の人だったら、どう思うかをいつも考える。何しろ年齢によって経験した食事の数が絶対的に違う。回数では追いつかないから、なにか「芸」を見つけ、折り合いをつけて書くしかない。
 最近は、食の文章を誰でも書くから、小説を数冊出しただけの若い作家でも、食のエッセイ集などを出す。出版社は無節操だから、本質的に食べることへの関心がない人でも、名前にすがって依頼をする。こういう人の文章を読むと、小学生の夏休みの絵日記に見えてくることがある。
 島田氏は外国の食文化にも造詣が深く、何より酒と食べ物への好奇心が旺盛なのが、読者に理解できる。もちろん、「芸」も備えている。芸もなく、ただ初めて食べただけの珍しい料理に興奮して、やれ「外はパリパリで、中はジューシー」だのと常套句ばかりを並べた「食レポ」まがいの文章に当たった時の失望感は、「一食、食べそこなった」気分に陥る。

[書評について]その①
×月×日 1月9日付の朝日新聞読書欄を読む。前から気なっていたが、翻訳書が多すぎる。単独の書評、7点を挙げてみる。
 トップが『カズオ・イシグロと日本──幽霊から戦争責任まで』(田尻芳樹、秦邦生編、水声社)、『カズオ・イシグロ 失われたものへの再訪──記憶・トラウマ・ノスタルジア』(ヴォイチェフ・ドゥロンク著、三村尚央訳、水声社)の二冊。評者は作家の温又柔(おん・ゆうじゅう)さん。
『苦学と立身と図書館──パブリック・ライブラリーと近代日本』(伊東達也、青弓社)の評者は本田由紀東大教授。
『猫と東大。猫を愛し、猫に学ぶ』(東京大学広報室編、ミネルヴァ書房)、『ネコの博物図鑑』(サラ・ブラウン著、角敦子訳、原書房)。評者の石川健治氏は東京大学教授。
『「色のふしぎ」と不思議な社会──2020年代の「色覚」原論』(川端裕人、筑摩書房)の評者は石川尚文朝日新聞論説委員。
『ファジズム──警告の書』(マデレーン・オルブライト著、白川貴子、高取芳彦訳、みすず書房)。評者は作家の保坂正康氏。
『民主主義の壊れ方──クーデタ・大惨事・テクノロジー』(デイヴィッド・ランシマン著、若林茂樹訳、白水社)。評者は東大教授の宇野重規氏。
『操作される現実──VR・合成音声・ディープフェイクが生む虚構のプロパガンダ』(サミュエル・ウーリー著、小林啓倫訳、白揚社)の評者は坂井豊貴慶大教授。
 なんと7人の評者が9冊の本を評しているのだが、その9冊のうち6冊までもが翻訳書というのは、よくわからない。7人のうち4人までが大学教授というのも、気にはなる。たまたまだろうけれど、同じ日の日本経済新聞の読書面も翻訳書が多かった。単著を大きく取り上げた5冊のうち、なんと4冊が翻訳書で、評者の3人が学者だ。1月30日付の朝日新聞も同じようなラインアップだった。
 翻訳書を取り上げるな、と言っているわけではない。
 たまたまだろうけれど、同じ日の日本経済新聞の読書面も翻訳書が多かった。単著を大きく取り上げた5冊のうち、なんと4冊が翻訳書で、評者の3人が学者だ。翻訳書を取り上げるな、と言っているわけではない。出版事情を俯瞰したときに、あまりに偏り過ぎている。しかもその傾向が、ここ数年長く続いている。大学関係者のあいだで、「新聞の書評は論文一本に値する」という伝説がある、と聞いたことがある。日本の「書評」について、その歴史、特徴を考察していくつもりだ。(この項続く)(2021,2.3)

◇次回の更新は2月17日の予定です
筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。昨年10月の新刊『落語の行間 日本語の了見』(左右社)が好評発売中。