その17 「誤読」を指摘され、辞任した評者もいた

×月×日 旧知の童門冬二さんから送られてきた『小説 秋月鶴山──上杉鷹山がもっとも尊敬した兄』(PHP研究所)を読了する。窮乏に瀕した米沢藩の再興を果たした名君と称えられる上杉鷹山(治憲)を描いたベストセラー『小説 上杉鷹山』は、童門さんの代表作といって間違いない。日向高鍋藩(宮崎県)の藩主、秋月種茂は上杉鷹山の実兄にあたる。鷹山は兄の種茂について、「もし兄上が米沢の藩主になっていたら、今よりもさらに繫栄したであろう」と語った。秋月という名からわかるように、秋月藩(福岡県)から高鍋に移ったのだ。島津藩に与(くみ)し、秀吉に睨まれたからで、髙鍋の名前は財部(たからべ)から転じた。財務を担当するものの由緒ある名前だ。昔の武家社会では、金銭をはしたないものと考える風潮が根強くあったが、種茂はそのような考えを採らずに重要な意義を認めていた。
 童門さんは「あとがき」で、「あまり例をみない『自治体小説』として読んでいただきたい」と書いている。自治体(都庁)に長い間勤務した経験から産み出されたのはいうまでもない。時代小説とはいえ、本文にはタスクフォース、ボトム・アップ、コーポレート・ガバナンス、といった外来語が出てくる。
 秋月種茂は、武士に限らず農民にも教育の重要性を説いた。安全な出産方法の普及、双生児への扶助、藩校「明倫堂」を設置するなど、高鍋藩の全盛を築いた。種茂をトップに立つリーダーとしてとらえ、補佐役の学者役人たちと藩の存亡をかけて民心のために尽くす治世の姿は、一自治体にとどまらず国家にも当てはまる。
 『完全版 上杉鷹山』、上杉鷹山の師、細井平洲の生き方と思考を追究した『完全版 細井平洲』に本書が加わり、三部作としてPHP研究所から上梓されたことになる。
 童門さんは昭和2年の生まれだ。年齢を感じさせない健筆ぶりは目を見張るばかり。これからも一層の活躍を祈りたい。

×月×日 『辞典語辞典』(見坊行徳・稲川智樹 誠文堂新光社)なる本が出た。広告につられて買ってしまった。辞典に関するトリビアな話題があるかと思えば、近代国語辞典の創始者で『言海』を編んだ大槻文彦、国語学者の金田一京助、春彦、秀穂の三代、『広辞苑』の新村出、用例の採取者として知られた見坊豪紀(ひでさと)など辞書に関係の深い人名もある。見坊は、採取した用例をカード化して保存、公開し、多くの学究の徒の助けとなった。
 一般的にみて、国語辞典の最初と最後の項目は何か。すぐに「愛」とか「嗚呼(ああ)」を思い浮かべる人が多いが、「嗚呼」の前に「亜」とか「我」など13の項目がある。最後は、「女(をんな)」と考える人が多いらしいが、「ん」がある。『広辞苑』(7版)では、「んぼう(ん坊)」。動詞の連用形につく接尾語で、「暴れん坊」「食いしん坊」の例を挙げる。『三省堂国語辞典』(第7版)では「んーん」で、「ひどくことばにつまったときや、感心したときなどの声」とある。「五十音順でこれより後ろにくる項目は今後も登場しないであろう」とのことだ。
 私はそんなに辞書マニアではないが、それでも書架で辞典と名のつく書を数えたら70冊を超え、事典を加えると100冊近くになった。家人が私の部屋に入ると、機嫌が悪くなるはずだ。

[書評について]その④
×月×日 昭和26年1月、臼井吉見、浦松佐美太郎、河盛好三、坂西志保の4人でスタートした「週刊朝日」の週刊図書館は、順調な滑り出しを見せた。座長格は、浦松佐美太郎だった。書評の署名はなく、(SUN・A)、(SUN・B)などのイニシャルだけだった。大袈裟にいえば、日本のその後の書評文化の原型になるともいうべき様々な「取り決め」や「約束事」が生まれた。とはいっても、別に文書で残っているわけではない。担当者が代々引き継いできた不文律みたいなものだ。
 まず選考委員(便宜上、「委員」と称しただけで、表向きには「週刊図書館同人」と言ったようだ)の著書は取り上げない。装丁、造本については論じない。新書、文庫の類は取り上げない。連載をまとめた本も取り上げない。書評執筆者の中には、自分のことを「筆者」と書く人がいる。これだと本を執筆した人と混同するので、評者(書評する人)と著者(批評する本の作者)と明確にした。熱心な論議が交わされ、複数の同人による「合作」の評もあった。やがて、英文学者の中野好夫(1903~1985)が加わった。中野と浦松は肌が合わなかった、と伝えられる。
 もう一つ、委員会を設けた理由は、商品の宣伝になることを恐れたことが挙げられる。今でいうNHKのように、広告になることに潔癖だった。新聞の経営は、販売収入と広告収入が車の両輪みたいなものだが、その当時は販売収入が圧倒的に多かった。紙面に限りがあったという事情もあるが、広告収入が増えたのは、日本経済が高度成長期に入ってからだ。テレビの出現で、広告産業は飛躍的に増大するが、書籍の広告はテレビに不向きだった。
 週刊図書館に取り上げられると、何百万円の広告(当時の担当編集者、黒川豊蔵は「誇張にしても」と述べている)と同等の価値があり、三刷りは間違いないとまで喧伝された。したがって、売り込み、持ち込みに出版社は精を出す。広告部を通じて依頼があり、社の上層部の役員を通じて持ち込まれることもあった。そんな時、「編集部の一存ではどうにもならないのです」といって、断ることができる。委員会が決めることなので、と下駄を預けることができる。「委員会」には、それだけの権威があり、縁故や義理の申し出をはねつける矜持をそなえていたということだ。
 週刊図書館で取り上げた本が、たまたま広告面でも掲載予定あり、かぶることがあった。そんな場合は、広告を次週回しにして、同じ号に載ることはなかった。私が入社した当時から昭和の40年代のことで、今は新聞も同日の紙面に重なったからといって意に介さないようだ。
 昭和35年1月の号では、本欄の担当者として浦松佐美太郎、中島健蔵、河盛好蔵、中野好夫、臼井吉見、白石凡の6名の名前が記されている。白石凡(1898~1984)は朝日新聞の元論説主幹。大阪の学芸部長時代に演芸界、文壇にも交友が深かった。
 昭和29(1954)年12月26日号では、6人の匿名委員と司会者の7人で「本から見た1954年」という座談会を開いている。伊藤整ブーム、貸本屋の隆盛、大衆文学は雑誌で読まれるのに本となると売れていない、などと侃々諤々の議論がなされている。
 匿名による批評は、昭和35年3月まで続き、同年4月から評者の名前を明記する署名原稿になった。4月17日号には、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』(中央公論社)を阿川弘之が書評している。他にも武田泰淳、高見順、佐伯彰一、野間宏などの名前が見られる。もちろん、「週刊図書館同人」浦松佐美太郎、河盛好蔵、中野好夫、臼井吉見、白石凡といった創設期のメンバーも時に執筆している。
 この年(昭和34年)の3月に、朝日新聞出版局から「朝日ジャーナル」が創刊されたことも、「週刊図書館」の署名化と関係があったのだろう。初代編集長は和田斉で、書評に力を入れ委員会制度を参考にした。ちなみに創刊時の書評委員の名前をあげておく。都留重人、加藤周一、林健太郎、美濃部亮吉、吉田秀和、坂西志保、辻清明、堀田善衛、永井道雄、大島正徳、市井三郎などが交代で執筆した。
 署名原稿になるのに伴い、書評委員の著作を扱わないという不文律は消えた。昭和36年12月22日号では、中野好夫の『最後の沖縄県知事』(文藝春秋新社)の書評を文芸評論家の佐伯彰一が書いている。この号では花柳寿太郎・小島二朔編『鶯亭金升日記』(演劇出版社)を戸板康二が、丸山真男の『日本の思想』(岩波書店)を梅棹忠夫、ペシキン著・長谷川淳訳『ボール・ベアリング物語』(理論社)を科学評論家の相島敏夫が執筆している。丸山真男の『日本の思想』は岩波新書だから、新書、文庫は取り上げない、という不文律も消えたことになる。
 委員会の枠を超えて執筆者の顔ぶれが広がり、取り上げる書籍と評者の面白い組み合わせが見られるようになった。これは、編集者のセンス以外の何物でもない。例えば、山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』(文芸春秋新社)を結城昌治(昭和38年3月8日)、石井好子の『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(暮しの手帖社)を、食べることに一家言持つ映画監督の山本嘉次郎(同年5月10日)、高群逸枝の『火の国の女の日記』(理論社)を瀬戸内晴美(昭和40年7月16日)といった案配だ。
 執筆者の顔ぶれは永井龍男、中村光夫、橋川文三、奥野健男などに加え、開高健、江藤淳といった昭和生まれの新進気鋭が登場している。筆者による評者への反論が寄せられ、それに対する評者の再反論が掲載された。おぼろな記憶をたどれば、平野謙は「誤読」を著者から指摘され、委員を辞任した後、「週刊朝日」には二度と書評を書かなかった。昭和40年代後半ではなかったか。昭和40年代までは「週刊図書館」が最も輝いた時代だったといえる。(2020,3.17)

◇次回の更新は3月31日の予定です。
筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。昨年10月の新刊『落語の行間 日本語の了見』(左右社)が好評発売中。