その19 「新潮ジャーナリズム」を創った編集人 齋藤十一

×月×日 男子ゴルフのメジャー4大大会の一つ、マスターズ・トーナメントで、松山英樹選手が優勝した。日本人としてはもちろん、アジア人としても初めての快挙だ。競技が終了した後、キャディの早藤将太さんがピンをカップに戻し、キャップを取りコースに向かって一礼した。日本なら当たり前の所作が、賞賛の的になった。折しも、アメリカでは昨年の3月からアジア系市民を標的にしたヘイトクライム(憎悪犯罪)が急増している。
 スポーツに国家とか、人種問題をことさら持ち出したくはないが、何しろ明るいニュースが払底しているご時世なので、みんな自分のことのように喜んでいる。大リーグの大谷翔平選手、テニスの大坂なおみ選手、水泳の池江璃花子選手、将棋の藤井聡太二冠に加えて新しいスーパースターが出現した。
 後は東北楽天イーグルスの田中将大投手がメジャーリーグ仕込みの快投を見せてくれることを願うばかりだ。一説によれば、田中投手が帰国を決めたのは、アジア系へのヘイトクライムに危機感を持ったから、ともいわれる。アジア系スポーツ選手の活躍が、事態解消へのきっかけになれば、こんな喜ばしいことはない。

×月×日 ノンフィクション作家、森功の『鬼才──伝説の編集人 齋藤十一』(幻冬舎)を読む。新潮社は秋田の角館から上京した佐藤義亮(1878~1951)が明治29(1896)年に創業し、一族が世襲によって発展した出版社だが、その編集面を支えてきたのが齋藤十一(1914~2000)だ。経営陣にあたる佐藤家も齋藤の仕事に全幅の信頼を置いていたということになる。
 齋藤は文芸誌「新潮」の編集長を長く務めた。評論家の小林秀雄(1876~1955)を尊敬し、「芸術新潮」の創刊に際しては編集顧問を依頼した。小林と五味康祐(1921~1980)とともにクラシック音楽のレコードを聴くのが楽しみだった。
 「新潮」への自作掲載を望む五味康祐は齋藤宛に盛んに原稿を送ったが、「貴作拝見、没──」とだけ記された葉書が何度となく送られてきた。拝読や熟読、精読ではなく、拝見としたのは、ひと目見て駄目だと判断したという意味が含まれていたのだろうと、著者は推測している。
 しかし、昭和31(1956)年に創刊した「週刊新潮」には五味の『柳生武芸帳』が連載され人気となった。すでに五味は1953年に芥川賞を受賞していた。齋藤には純文学の作家を大衆文学の作家に仕立て直す才能(趣味)があったのかもしれない。小林秀雄や山崎豊子(1924~2013)、松本清張(1909~1992)、などごく限られた寄稿家としか顔を合わせず、社内でも口を聴ける人はわずかしかいなかった。
 「週刊新潮」の名物コラム『男性自身』の山口瞳(1926~1995)とも会ったことが無い。「山口さんのコラムがあるから売れている。本当に感謝している」と担当者に言いながらでもある。著者の森功は、次のように分析している。
<名立たる物書きがカリスマ編集者の慧眼に応えようと腰を入れて作品に取り組む。齋藤は、そのために敢えて作家と交わらないよう努めてきたのかもしれない。>
 いつのまにか畏怖半分、揶揄半分で「天皇」と恐れられた。気に食わない原稿は、連載が始まった直後でも、取り止めにした。
「編集者は絶対に表に出ちゃいけない、黒子であるべきだという意識が強かった。それが齋藤十一というカリスマ伝説をつくった面がある」というのは、ある新潮社の重役の分析だ。
 私の持論だが、雑誌作りは、独裁者でないとうまくいかない。新潮社の場合は、組織が小さく独裁者が存分に腕を揮えた。プロ野球チームに例えれば、オーナー、ジェネラルマネージャー、監督、コーチがそれぞれに重なりあいながら、意思の疎通がうまく図られ事の処理に当たっているようなものだろう。その辺りの事情を著者の森功は次のように説明する。
<何より編集長は編集人という立場で、すべての記事の責任を負わなければならない。したがって決断力が求められ、ワンマンでないと、やっていけない面がある。週刊新潮やフォーカスの編集長たちも、みなそうだった。
 だが、週刊新潮が他誌と決定的に異なる点がある。それは編集長の後ろに天皇が控えていることである。編集長でもない齋藤が唯我独尊を極めた編集人であり続けてきた。それどころか、新潮社のオーナー家である佐藤一族もまた、齋藤の意見に従ってきた。>
 「週刊新潮」や「フォーカス」などを創刊し、独特の視点を売り物にした「新潮ジャーナリズム」を作り上げた齋藤十一の素顔が見事に表出されている。
 本書を読んで、マスメディアを目指す若い人たちは、新潮社に入りたいと思うのかどうか。老いた元編集者としては大いに気になるところだ。

×月×日 第207回の落語朝日名人会。人数は定員の半分くらい。柳家小んぶの「三方一両損」。小んぶは柳家さん喬の弟子、九月に真打に昇進して、さん花を名乗る予定。古今亭志ん陽の「愛宕山」。本人はあまり言ってもらいたくないらしいが、志ん朝の最後の弟子だった。江戸のお大尽が幇間(たいこもち)を連れて京都まで遊びに行くという東京版。柳家三三の「橋場の雪」。「夢の酒」が初夏の噺とすれば、こちらは冬バージョンということになる。
 トリはさん喬が1年間4回にわたった連続口演三遊亭円朝作の「牡丹燈籠」を無事に読み切った。昔の寄席や釈場は、10日とか15日にわたる興行で、毎日毎日物語をつないで客を通わせた。大人のための「紙芝居」みたいなものだ。最後に「読み切りといたします」と締めたのは、落語ではなくあくまでも講談であることを意識している。

×月×日 今年の大学入試共通テストには、国語の科目で、実用文や行政の条令、条文、公共団体などの告知文が出題されると騒がれていたが、ふたを開けてみたら一題も出題されなかった。かといって次年度から、実用文が出題さないという保証があるわけではない。
 日本文藝家協会の会報によると、東京大学では夏目漱石、京都大学では石川淳が出題され、久しぶりに「文学回帰」の傾向がみられたという。一方早稲田大学では、実用文の出題があり、二極化の現象が現れている、とレポートしている。

[書評について]その⑥
×月×日 承前。書評委員が読者を向かずに「座長」の方を向くようになった例を一つ挙げる。平成5(1993)年に丸谷才一が書き下ろしの小説『女ざかり』を文藝春秋から出した。委員の諸先生がたは、大先生の新作を取り上げるのは、自明の理とばかり、誰が取り上げて執筆するか、発売前からお祭り騒ぎ。書評委員が執筆した書物は取り上げないという創設時の美風もどこかへ飛んでしまった。 頭(づ)が高いと自認する丸谷は記事の企画にとどまらず、担当者が肌に合わないと、交代を要求し、出版局内の人事にまで注文を付けるようになった。
 平成4(1992)年には、「週刊図書館」の座長格にありながら、毎日新聞から「書評欄をすべて任せる」と声を掛けられ、改革に乗り出した。「週刊朝日」の「週刊図書館」に関係していることには多少の忸怩(じくじ)があったようだが、「週刊誌と日刊紙では媒体のカテゴリーが違う」と強引に割り切った。「扇谷正造と齋藤明が作つたもの」(「新聞研究」2006年1月号『快楽としての読書』ちくま文庫所収)という自己弁護と自慢話の小文に記している。
 媒体が異なるといってしまえばそれまでで、社外のフリーのライターがどこに寄稿しようと勝手だが、他の寄稿家まで引き連れていくのは、いかがなものか。中には丸谷が「週刊図書館」に携わる前からの寄稿家もいた。日本のプロ野球の草創期ではあるまいし、監督が複数の主力選手を引き連れて他球団に移籍するようなもの。自分が依頼されてしゃべったさまざまな会の挨拶の草稿を保存しておいて、本にまとめて刊行するような人に、都会的な粋でスマートな振る舞いを求めても無理というものだ。
 毎日新聞の書評欄を任された丸谷は「明るい書評面」を標榜し、和田誠(1936~2019)のイラストレーションを紙面のアクセントとして掲載した。「この人の三作」と称しシェークスピアを井上ひさし、アンデルセンを野坂昭如に書かせ、両者の似顔を和田誠がアレンジして仕立てた。しかし、プロの編集者ではないから、この種の企画はやがて無理が生じてくることに気が付かなかった。似顔というのは、モデルの顔を読者がよく知っているから面白いのだ。そのうち、顔を見たこともなければ、名前も聞いたことがない丸谷周辺の人をライターとして起用せざるをえなくなる。スタートの時からわかっていたことだ。和田誠も毎日新聞学芸部の書評担当者も苦労したに違いない。
 丸谷は、日ごろから「書評で最も戒めなければいけないのは、『仲間褒め』です」と言っていた。しかし毎日の書評では、書評委員同士で各人の新作を取り上げる例が目に付く。各新聞の書評欄では、年末恒例の「今年の三冊」という企画がある。一年の収穫、代表作、と言った意味がある。毎日では、当初「書評者が選ぶ’92『この1冊』」だったが、翌年から「この3冊」になった。ここに取り上げられた本を見てみると、毎年、誰かが必ず丸谷の本をノミネートしている。それは見事なものだ。選集や編集の監修をしたものなど、よく探し出してきたものだと感心するような「著作」がある。
 先述した丸谷の『女ざかり』は、1993年に瀬戸川猛資(1948~1999)と日高普(1923~2006)の二人が推している。その「座長」を立てる忠誠心と団結心はまさに「丸谷組」で、「一座」という言葉がふさわしい。
 丸谷が毎日の書評に関係するようになった翌年には、「週刊朝日」から去っていった。編集部のほうでご遠慮いただいたのかもしれない。さまざまな感想を持つ編集部員はいただろうが、丸谷を惜しむ声はそんなに聞こえてこなかった。
 象徴的な出来事があった。外資系の雑誌から新聞の編集局を経て異動してきた若い女性部員が、「丸谷さんとかいう人から電話ですよ」と大声で叫んだ。編集部内に一瞬氷のような冷たい緊張が走った。丸谷才一の名前を知らない編集部員が登場してきたのだ。この項続く(2020,4.14)

◇次回の更新は4月28日の予定です。
筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。昨年10月の新刊『落語の行間 日本語の了見』(左右社)が好評発売中。