その21(最終回) 東京オリンピック開催の是非と日本人の我慢の限界

×月×日 現在の最大の関心事は、東京オリンピックを開催するのか、どうかだ。日本のみならず世界中の注目を集めている。医師会と歯科医師会、菅首相と都知事、五輪担当大臣と都知事など、人事の軋轢や衝突が取り沙汰され、肝心の国民の安全がないがしろにされている。
首相でも都知事、大臣でもいい。職を賭して中止の意見を表明すれば、人間の株がぐんと上がるのに。「千万人といえども吾いかもん」という孟子の言葉があるが、今回の問題は賛同者の方が多いのだから、あとは複雑な「しがらみ」をどう断ち切るかだけだろう。IOC脱退をも視野に入れて、決断が待たれる。
世論の大勢は開催に否定的だとしても、その矛先を選手に向けることはない。懸命に出場を目指している選手たちに、匿名で「辞退しろ」などと、書き込むのはまったく別の次元の話で、お門違いというものだ。いつから日本人の品性がこれほどまでに卑しくなったのか。

×月×日 大相撲の夏場所が始まった。無観客なので、盛り上がらない。その上、横綱が不在だ。白鵬の休場については、さまざまな意見がある。あまり強くいうと、レイシズム(人種差別主義)と批判される。要は横綱の価値と責任をどうとらえるかに尽きる。
もう少し休場して治療に専念すれば、まだまだ活躍できたのに、土俵を去っていった横綱は過去に何人もいた。白鵬のたにまち(後援者)が、横綱をビジネスととらえているのかはわからないが、やはり横綱問題は日本の伝統美に結び付けたくなる。別に日本人の美意識とまではいわないけれども。

×月×日 JR中央線の駅前にあるなじみの居酒屋がとうとう休業に踏み切った。酒を出すのは自粛して、ノンアルコール飲料だけで営業していたが、限界が来たようだ。午後2時の開店から列をなしていた人気の店だが、やはり酒の無い居酒屋はどうにも、様(さま)にならない。20人の従業員を雇い、お客が100人にも満たないのでは、やっていけない。市場の仲卸も魚の売り先が無いから、無理やり「おっつけて」くる。押し売りだ。大量の魚が豊洲から香港へ回遊ならぬ回送されている、という説もある。
すでに来店前から一杯飲んでくる客や、席に座るなりポケットからおもむろに酒を出す客もいる。コップにお酒を入れて出してくれれば水に見えるから、と無理難題をいう。店主も酒を飲んでもらいたいのはやまやまだが、一番怖いのが「通報」だという。「自粛警察」というやつ。同業者もいるし、今やSNSの時代だからスマホで簡単に「刺す」ことができる。一発で、休業補償の協力金を受け取れなくなる。
太平洋戦争中も、「どこそこの家では、まだ貴金属を供出しないで隠匿(いんとく)している」などと当局(町会長や警察など)に密告する者が現れた。あくまでも「自粛」なのに、お互いが監視しあうという荒(すさ)んだ雰囲気が生まれている。マスクの着用を巡って喧嘩になるのも、同根だ。
まったく嫌なご時世になったものだ。日本人は従順で、あまりお上には盾(たて)突かない国民性だが、やはり限界もある。この鬱々(うつうつ)、苛々(いらいら)とした気分は、もちろん「東京オリンピック」の開催と無縁ではない。

[書評について]最終回
×月×日 カズオ・イシグロ氏の「ノーベル文学賞受賞第一作」となる『クララとお日さま』(土屋政雄訳・早川書房)が3月に発売された。イギリスのフェーバー社とアメリカのクノップフ社と世界同時だった。そのためには翻訳の時間も必要で、脱稿してからの原稿を長期間、寝かせなくてはならない。これが出版業態の本来のあるべき姿勢なのだろう。しかし残念ながら、それほどイニシャルコスト(初期費用)をかける余裕は日本の現在の出版業界にはない。自転車操業もいいところだ。
これだけの余裕があれば、刊行までの時間を利用して書評家に見本を届け、読んでもらう時間が生まれる。昨今の厳しい出版不況時代では、新人文学賞を受賞したからといって、すぐに生活できるわけではない。本を出版しても印税だけではとても食えない。第一、無名の新人の本を出す出版社がないし、出しても売れない。名前の知れた作家でも、初版の刷り部数は年々減少している。それでは何のために出版するのか。金にならなければ、残るは名声か栄誉しかない。書評に取り上げられるために出版する人も出てくるのだ。
最近は様々な人が書評を書いている。肩書だけをみても、書評家と名乗る人もいれば、「書店員」というのもあった。書評だけで生業が立つとは到底思えない。今、出版編集者に最も求められる能力は、いかに多くの書評を書いているライターと友だちになれるかだ。編集者は普段から交誼のある評者に書評を依頼できるようにしておかなくてはいけない。もちろん、その中には各新聞社や一部雑誌の「書評担当者」も含まれる。担当者は異動が多いから、常にチェックする必要がある。本を送る際に「書評担当者様」と書くのと、「書評担当 〇△様」というのでは、受け取った時の印象が違う。
「本のソムリエ」という言葉を初めて用いたのは作家の大岡玲氏だったと記憶しているが、ワインのように、書籍の氏素性を分析、整理したうえで読者に説明してもらいたいという趣旨なのだろう。比喩ということは百も承知しているが、ワインと本はやはり違う。本来ソムリエはワインを多く販売するのが本業だ。
仮に酒と本が近似していると考えて、酒屋の店員が選ぶ酒を飲む側がどれだけ信用するかということになる。メーカーなり卸売店の意向が大きな影響を与えるのではないかという疑念が生まれる。そういえば、書店員が本を選ぶ「書店大賞」という不思議なイベントもある。書籍の場合、書店のマージンは原則、どこの出版社の本でも変わりはないから、かなり公平な判断がなされるという見方もできるが、書店員の読書リテラシーに関しては、まったくわからない。
『「食道楽」の人 村井弦斎』で嘱望され夭逝したノンフィクション作家の黒岩比佐子(1958~2010)は、読売新聞の書評委員を務めていた。二度ほどお目にかかったが、日曜の朝は近くのコンビニに掲載紙を買いに行く、と言っていた。
もし私が新聞の書評面の担当者だったら、評者の自宅まで、掲載紙を届けるだろう。オートバイに頼むか、評者の家が拙宅に近ければ、少し寄り道をしても、前日の夜には刷り上がっている早版を届けられるはずだ。新聞記者と雑誌記者の違いを感じた。この話を出版部門も経験した新聞の文化部の記者にもらしたら、書評委員の原稿料はその分高くなっているのだという。それはそれとして、少なくとも一年か二年の任期中は、無料で配達させるくらいのサービスがあってもいい。
この連載の最初で、大学教授は新聞の書評を「業績」として、公表できると書いた。流行りの「自己評価」である。大学内の紀要や学会誌に発表するわけだ。短い書評を「業績」というのは大袈裟だが、仕事をしているフリをするには格好だ。大学も自校の宣伝になるから、有り難がる道理だ。しかし紀要に公表するとなると、専門領域以外の本についての書評はそぐわない。だから専門書が多くなるのは当然なのだ。
丸谷才一は中世の詩歌の研究書や最近の小説を取り上げる一方で、ミシュランガイドをも論評した。これだけの雑学的好奇心の守備範囲の広さを持つ大学教授はなかなか見当たらない。
大学教授、新聞記者はすべて文章が上手い人とは限らない。どれだけの筆力があるかどうか、人選に際しては鋭い吟味が必要だろう。私が書評担当編集者なら、自分の専攻分野以外に著作のない人は避ける。評者と著者の相性や評者に相応しい本を選ぶ作業は苦労を伴うが、編集者の楽しみでもある。
政府や行政の審議会ではないが、微妙にバランスをとっているかのように見える書評委員会のメンバーに本の選択を委ね、評者も同じメンバーで回していけば、編集者は楽かもしれない。しかし、書評委員会に頼りすぎると、著者と評者の味のある取り合わせはなかなか生まれないのではないか。新聞社特有の官僚的な体質を払しょくしなければ、新聞の書評面に明日はない。
なお、本稿の執筆にあたっては、『朝日新聞出版局史』のほかに、以下の書評アンソロジーを参考にした。
◯1993年に「週刊図書館」40年に因み、3冊が朝日新聞社から刊行された。いずれも週刊朝日編。約10分の1を目途に摘録されている。(版元品切れ)
『春も秋も本! 週刊図書館40年(昭和26年-44年)』
『ベッドでも本! 週刊図書館40年(昭和45年-59年)』
『本が待ってる! 週刊図書館40年(昭和60年-平成3年)』
◯毎日新聞からも2012年に出版されている。いずれも丸谷才一・池澤夏樹編で、在庫はある。
『愉快な本と立派な本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選(1992~1997)』
『怖い本と楽しい本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選(1998~2004)』
『分厚い本と熱い本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選(2005~2011)』
この項終わり(2021,5.12)

<お断り> 長らくご愛読いただきました「鯉なき池のゲンゴロウ」第一部、第二部は今回で終了いたします。しばらく休養と充電の時間を頂き、秋には内容を一新して再びお目にかかるつもりです。長い間、ご愛読をいただき、心よりお礼を申し上げます。
筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。昨年10月の新刊『落語の行間 日本語の了見』(左右社)が好評発売中。