その5 「安倍辞任」と「菅新総理」で何が変わるのか

×月×日 安倍晋三首相が退陣して、菅義偉官房長官が後継になるようだ。このまま、森友・加計問題や「桜の宴」が不問になるのでは、不満だけが残る。
 安倍晋三が、「自分の言葉を持っていない」ことは、就任当初からわかっているのに、メディアが指摘しなかったのがおかしい。やはり首相たる人は政策や主張を、自分の言葉で説明してもらいたい。在任中は相手の質問をはぐらかし、嘘の強弁で逃げ続けてきた。
「私や妻が関係していたことになれば首相も国会議員も辞める」といったのが最大の誤りだった。この発言がなされてから、公文書が改ざんされ、人、一人の命が失われた。ガキ大将の喧嘩みたいな小学生の啖呵で、大人の対応ではない。
「もし誤解を与えたのなら、私と妻の不徳とするところで、今後気を付けたい」程度の釈明があれば、一人の官僚が命を落とすまでにはいたらなかっただろう。「李下に冠を正さず」なんていう言葉は、当事者が言うセリフではない。自分から言ってどうするのだ。
 最後の辞任会見も同じで、まともに答えていない。「責任は私にある」とか、「責任を痛感している」といいながら、まともに謝罪の言葉を述べない。それでもメディアは「首相、陳謝」と見出しに打つ。どう考えても理解できない。
「選んだ国民が悪い」と言われると、反論できないのがもどかしいが、どうも若い人の政治に関する無関心に、問題があるのかもしれない。となると、今の「若い大人」にも責任があるということになる。「老いた大人」である私のような後期高齢者も、もちろん責任を痛感していますとも。

×月×日 滝沢カレンという人の料理本、『カレンの台所』(サンクチュアリ出版)が売れている。レシピ集と言いながら、材料の分量はどこにもない。例えば、「ブリ大根」の項はこんな具合だ。
<ブリはたくさん旅してきたせいか様々な臭いがくっついているので、熱湯でその思い出を全て消し去るようにバシャンとお湯をかけます。赤から透けない白にややなったら、思い出を忘れた証拠になります。>
 大根を「食べたいなと思える形」に切り、電子レンジか熱湯で芯まで温めておく。
<それでは、フライパンにお客様が来る前にという感覚で、お水を恥ずかしくて誰にも出せないほど四口分くらいを入れたら、和風だしのカサカサした粉を上から紙吹雪をかけるような量、そしてお醤油はブリを、こんな色に変身させたいなぁ、と思うくらい入れ、お醤油でけっこうな面積に染みたら、みりんとお砂糖は謙虚に、さらに遠慮してください。>
 和風だしやコンソメはカサカサ。つまり粉末の「即席だしの素」を使う。にんにくや生姜も、場合によってはチューブ入りを用いる。
<白いお米たちにはとんだ重い熱布団だと思いますが、ぜひかけてあげてください>(「中華丼」)
<お砂糖を全ての鶏肉たちに差がなくかかる量かけ、お醤油、お酢も鶏肉たちへしっかり濡れてしまうほどかけます。(略)まだ春みたいなパステルコートの色だったらお醤油たちが足りないかもしれません。>(「チキン南蛮」)
といった文章になじめない人には向かない。
 糸井重里が、表紙の帯に、「この人は、日本語をこわしているのではない。あたらしい日本語をデザインしているのだ」と書いているが、そもそもこわすような日本語常識を持ち合わせていないのだろう。
 だけど、食べることへの執着は真っ当なものだ。家庭の匂いがあまり感じられないのは気になるが、食材への敬意を忘れてはいない。また「あさりの砂抜き」といった基本的な作業にも触れている。
 掲載されているメニューは、外食で食べた料理が圧倒的に多い気がする。レストランなどで、口にしたものを自分の手で再現してみようという熱意が伝わってくる。一見今を流行りの「手抜き」とか「ずぼら料理」を想像するかもしれないが、そんなことはない。決して頭で作ってはいない。きちんと自分の手で作っている。本書を読んで、作ってみたくなる若い女性が多いというのもよくわかる。
 私は幼児期に独り言を言いながら、一人でおままごとをしている姿が浮かんできた。その独り言を、気分のおもむくまま、文章にしたのだろう。ここまで本にするには、かなりの失敗を積み重ねたと思われる。その独学の努力と、達成した成果に拍手。

×月×日 [ノムさんのこと]④
 1956年春のハワイキャンプで鶴岡一人監督から実力を認められた野村は、捕手の定位置を確保した。1965年の日本シリーズで巨人に敗れたが、この年三冠王に輝いた。シーズン終了後、鶴岡監督が勇退を申し出て受理された。なにしろ1946年に復員した年から選手兼監督として52年まで。53年から選任監督として20年間南海を率いてきた。同一球団の監督として史上最多の1773勝の記録はいまだに破られていない。「親分」と慕われ「ミスターホークス」だった。後任は蔭山和夫に決まった。大阪の市岡中学から早稲田大学と名門のエリートだ。
 鶴岡は、東京の東京オリオンズかヤクルトアトムズに入団するといわれていた。11月13日に蔭山の監督就任が発表された。鶴岡は17日に東京で新しい移籍先を発表する予定だった。ところが、蔭山が16日の深夜、自宅で倒れ、救急搬送されたが、亡くなった。監督に決定してから不眠に悩み、精神安定剤と飲めないブランディーを飲んでいた。監督に決まってから、4日しかたっていない。「野村に連絡してくれ」といったのが最後の言葉だった。病名は急性副腎皮質不全と発表された。まだ38歳の若さだった。
 鶴岡の他チームへの移籍発表は延期となった。選手会長の野村を初め、杉浦、広瀬、杉浦光平といった選手たちが鶴岡の自宅に行き、残留を強く懇請した。鶴岡は答えを保留。
 ここで鶴岡は野村に、「三冠王がなんぼのもんじゃい。南海に一番貢献したのは杉浦だけじゃ」と言い放ったと伝えられる。この一言が、どれだけ野村を傷つけたか、想像に難くない。以後、二人の確執となり、野村の人生について回る。
 蔭山は1962年に監督代行も経験しているし、監督が重荷になって悩んだとは考えにくかった。蔭山の母親は、弔問におとずれた鶴岡に向かって、「あんたに息子を殺されたんや」と絶叫した。よほど深刻な事情があったにちがいない、と噂された。
 それは何か。「鶴岡が杉浦を連れて出る意向だった」という説がある。杉浦はこの年8勝1敗で、往年の球威に翳りが見えていたが、まだ10勝する力はあったし、ホークスの看板選手だった。この衝撃が蔭山の不眠とノイローゼを誘発したというのである。
 もう誰も当時の真相を知るものはおらず、噂の域で真偽のほどは分からない。鶴岡の移籍先も当時は明かされなかったが、永田雅一の死後、東京オリオンズだったことがわかる。永田は、オリオンズのオーナーでありパ・リーグの会長を務めていた。

 この蔭山の死は、松本清張も気にしていた。かなり経ってから松本宅を訪ねた際、いつものように動機不明の殺人や変死事件、死亡時刻の誤認方法などが話題だった。松本は「蔭山という人は酒を飲めなかったと聞いているけど」と、唐突に数年前のことを言い出した。松本はとにかく好奇心が旺盛で、ごく些細な市井の事件にも関心があった。何しろ日本酒の蔵元を見学した際、酒の貯蔵樽を見るや、ここに死体を入れたらどうなるか、と蔵元に聞くくらいの人だ。尋ねられた蔵元も困惑したことだろう。小説のヒントになることしか興味はない人だった。
 熱心な野球ファンというわけではないが、ご本人は巨人が大嫌いだった。大した理由があるわけではない、築地のさる料亭の廊下で、川上哲治とすれ違った際に、川上が端に寄らなかったというだけのことだ。川上は巨体で、松本は小太りの短躯だ。小さくなって脇を通り抜けなければならなかったのが最大の屈辱だったのだろう。それからというもの、前日巨人が負けた日は機嫌がよかった。巨人が勝った翌日に松本宅に行くのは気が重かった。
 杉浦に凋落の翳りが見えた一方で、同年生まれの皆川睦雄が、65年には14勝10敗の成績を挙げていた。通算勝利数では、杉浦の187勝を上回る221勝を挙げた。杉浦は、皆川のシンカーを習得したかった。三振に取るのには最低でも3球投げなくてはならないが、シンカーなら1球でショートゴロに打ち取ることができる。
 しかし、その新しい球の習得が、杉浦の投手生命を縮めることになった。(この項続く)
=敬称略(2020,9,9)
◇次回の更新は9月23日の予定です。

筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。10月に『落語の行間 日本語の了見』を左右社から刊行予定。