その6 一見、「安倍継承」風ではあるけれども

×月×日 菅義偉新首相についた枕詞が「たたき上げ」だが、どうも好きになれない言葉だ。「たたき台」も好みではないから、用いたことはない。今はあまり見なくなったが、昔露店で威勢のいい口上を言いながら、バナナを台の上に並べ講談の釈台よろしくバシバシ叩いて値を下げていく「啖呵売(たんかばい)」から生まれた。
 たたき上げの「たたき」は普通「三和土」と書くが、家の中の土だけの「土間」のこと。ただ土を均(なら)したままでは、三和土にならない。石灰、赤土、砂利などに苦汁(にがり)を混ぜて練り、敷き詰めて叩き固める。そんなところから、下積み時代に鍛えられ、苦労を重ねて一人前になることの意味が生まれた。
「寄らば大樹の陰」というか、コバンザメが多いのか、みんな「主流派」に残りたいものだから、菅はその心理をうまく勘案して「安倍継承風内閣」を組んだが、再選を狙っているのは明らかだ。
 メディアは新しいスターが誕生すれば、なにかと枕詞を冠して持ち上げる。ジャーナリズムの習性だ。田中角栄が登場した時も「今太閤」と持ち上げた。これから菅政権が上昇していくのか、逆にバナナのたたき売りのように値を下げていくのか、多難な前途であることだけは確かだ。

×月×日 新刊の阿部正子編『てにをは俳句・短歌辞典』(三省堂)を読む。約6万の俳句と短歌をキーワード(大見出し)で分類、編集した労作だ。キーワードは、飲む、遊ぶなどの動詞。明るい、早いなどの形容詞、涙、雲、職人などの日常生活語からなる大見出しがある。例えば、飲むのページを開くと、甘酒、コーヒー、水を飲む猫、など25の小見出しに分類されて見開き2ページにきっちりと収められている。
 コーヒーの項を開く。「珈琲や夏のゆふぐれながゝりき」(日野草城)や「置きどなく身を竦(すく)めゐる軽躁(けいそう)の座を引き締めて薫(かお)るコーヒー」(中城ふみ子)など11の俳句と短歌が並ぶ。「声に出して読んでもらいたい」という編者の意図で難しい言葉は、現代仮名遣いによるひらがなの「読み」が付されている。
 大見出しはページ単位でまとまっているので、編者は、ぜひページ全体を一緒にまとめて読んでもらいたいという。江戸時代から現代まで、時代を超えた生活の息吹や情感が体得できる。また、歳時記ではないから四季の移ろいを越えて、比較、対照できるのも編者の狙いだ。時代別では江戸以前が2割。俳句が7割、短歌が3割だから、俳句と短歌、両方の魅力をクロスオーバーして味わえるところが最大の魅力だ。
 作者の有名、無名を問わないところも、もう一つの特徴だ。ハンセン病の人たちが詠んだ俳句や短歌が収載されている。編者の女性や社会的弱者への温かい眼差しがある。コロナ時代に生きる現代の人の知恵や励ましに大きな光が当てられるに違いない。新しい形の「歳時記」として、俳句や短歌の詩作に携わっている人はもちろん、詠まない人にも興味が湧く座右の書になることだろう。日本語の新しい美しさと韻律のすばらしさを発見できるに違いない。

×月×日 オウム返しという言葉がある。辞書には「人から言いかけられた言葉を、そっくりそのまま返答すること」とある。鳥の鸚鵡(オウム)のように、こちらが言った言葉をそのまま繰り返すことからきている。
 昔はオウムや九官鳥といえば、「オタケサン」と呼び掛けることに決まっている。江戸時代にオランダから長崎に来たフォン・シーボルトの妻、お滝の名前に由来し「オタキサン」から「オタケサン」に変わった。若い人は、まったく知らないだろうけれども。
 落語の「牛褒め」や「子褒め」、「鈴ヶ森」のようにいささか鈍い連中が、口写しで教えられたとおりに復唱するのも、一種の鸚鵡返しといえるだろう。鈴が森の新米追い剥ぎが「オーイ、旅人、ここをどこだと思っている」となぞる。つっかえながらしゃべるものだから、すぐにお里が知られ、逆に脅かされる噺だ。
 最近のテレビでは、アナウンサーと解説者とか気象予報士といったゲストの間で、この「オウム返し」ばやりだ。テレビ朝日系列の夕刻のニュース番組「スーパーJチャンネル」の天気予報は、キャスターの渡辺宜嗣の紹介で始まる。
「6時30分、お天気の時間です。今村さんお願いします」
「お願いします」
 気象予報士の今村涼子が判で押しように答える。
 お願いされたのだから、「かしこまりました」と返事をするのが普通だと思うが、いつも「お願いします」としか返さない。
 NHKの大相撲中継、最後に「本日の向正面(むこうじょうめん)の解説は、元小結普天王の稲川親方でした。本日はありがとうございました」と紹介して終わると、必ずといっていいほど、「ありがとうございました」と返す。元小結豊真将の立田川親方、元関脇豪風の押尾川親方でも同様だ。
 正解は「どういたしまして」だろうが、聞いたことが無い。「お粗末でした」、「失礼しました」とか「行き届きませんでした」というのもない。
「お粗末でした」
「いやあ、そんなご謙遜を」
「次回はもう少しうまくしゃべりますから、これに懲りずに来場所もぜひ声をかけてください」
「その件については、ちょっと上の者と相談しますので……」
 まあ、こんなことをうだうだと話していたら、なかなか終わらずに6時のニュースが始まってしまうけれども。
 日曜日の早朝、CS放送のTBSチャンネル2で「落語研究会」という番組がある。司会のTBSアナウンサーの長岡杏子と解説者の落語プロデューサーの京須偕充(ともみつ)が出演している。「本日はありがとうございました」と長岡がいうと「こちらこそ」と京須が答える。ちょっとそぐわない気がするけれどとも、「鸚鵡返し」よりはまだましだ。長年落語を聞き続けているだけのことはある。
 英語でも「サンキュー」と言われて「サンキュー」と返すのは、おかしい。「どういたしまして」の意味で、「ユアーウエルカム」から最近は「マイプレジャー」、「シュアー」、「エニータイム」などいろいろとある。「喜んでした親切です。そんなにお礼を言われるほどたいしたことではありませんから、気になさらないでください」といったニュアンスが含まれる。
「蟻(あり)が十(とう)なら、芋虫二十歳(はたち)」という軽口(地口)が古くからある。「蟻が鯛(タイ)なら芋虫鯨(クジラ)」ともいう。「蟻が十歳なら、蟻よりも何倍も大きい芋虫は二十歳(はたち)だな」の意味で、そう大仰にお礼を言われるほどのことでは、ないから、気にしないでください。といった謙遜の意が込められている。笑いにすることで、相手の負担をいくらか和らげる働きがある。日本人の言葉使いの知恵だ。実際に聞いたことはなく、用いたこともないが、いつかは使ってみたいと思っている。

×月×日 [ノムさんのこと]⑤
 1965年11月17日次期監督を引き受けた蔭山和夫の急死によって、鶴岡一人は退団を白紙に戻し、再び南海の監督を続ける3年契約に調印した。次のシーズン(66年)はリーグ優勝を果たしたものの、翌年は4位。68年の2位を最後に24年間の南海ホークスの監督生活にピリオドを打った。
 同一チームで史上最多の1773勝を挙げ、勝率も.609という好成績だ。300試合を経験した監督の中で唯一6割の勝率を挙げている。1969年のシーズンは生え抜きの一塁手、飯田徳治が指揮を執ったが、ケガ人が続出した不運もあり、最下位に沈んだ。一年で退団し、次の監督には野村克也と杉浦忠の名前が挙がった。
 川勝傳オーナーの決断で、1970年のシーズンから野村が選手兼任監督に決まったが、鶴岡と杉浦は不服だったと考えられる。69年のシーズン終了後、日本シリーズのテレビ解説に鶴岡と野村はそれぞれ別のテレビ局のゲスト解説に呼ばれて、ネット裏で顔を合わせた。野村が「今度監督を任命されましたので、一度お宅に伺ってお話を伺いたい」と鶴岡に挨拶したところ、「お前は監督がどういうものか、わかっているのか」と野村の胸倉をつかまんばかりに激怒し、周囲のスタッフがあわてて間に入る騒ぎがあった。
 杉浦は野村が監督に決まった夜に、「体力の限界で現役を引退したい」と電話が掛かってきた。何を今さらと感じた野村は、「俺が監督になったことが、そんなに気に入らんのか」と聞いた。「それは誤解だ」という杉浦に、「俺も若いし、自信も実績もない。助けてくれよ」と懸命に慰留し、現役を続けることになったが、いったん切れた緊張の糸が元に戻るのは難しい。その年は16試合に登板、1勝を挙げただけで、翌年引退した。通算187勝106敗。59年の38勝が燦然と光っている。35歳だった。
 杉浦は右腕の血行障害に悩んでいた。杉浦夫人が夫の真っ白になった右腕を見て、「どうして監督さんに『もう投げられないかもしれません』と言わないの」と、初めて野球のことに口を出したことがある。「バカヤロー! こういう体になっても投げるのが、エースなんだ」と怒られたという。それだけ鶴岡にほれ込んでいたのだろう。負けていても自分から降板するとは、絶対に口にしなかった。
 野村は、そのころ正子夫人とうまくいかなくなっていた。私は、西宮の自宅で、正子夫人に一度会ったことがある。半世紀も前のことになるので、何も覚えていない。球団後援会の副会長を務めた印刷会社の社長令嬢で、万事派手好みの都会っ子だった。丹波の田舎から出てきた野村とは合わなかったのかもしれない。一子をもうけたものの、別居状態になった。その理由につてはあまり語らない野村だが、沙知代の死後「妻に不義があった」と明言(『ありがとうを言えなくて』講談社)している。
 夫婦の仲について、あれこれ言っても始まらないが、別居中に沙知代(伊東芳枝)と知り合った。この沙知代との出会いが、また野村の人生を大きく変える。一言で言えば、野村はダンプカーのような沙知代を制御できなかった。=この項続く
敬称略(2020,9,23)
◇次回の更新は10月7日の予定です
筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。10月に『落語の行間 日本語の了見』を左右社から刊行予定。