第2回 藤井聡太と大谷翔平への期待

×月×日 鬱陶しい世の中にあって、唯一明るい話題は将棋の藤井聡太七段の活躍だ。最年少のタイトル獲得は、最初のチャンスこそ逃したものの、栄冠に輝くのは時間の問題だろう。驚くべき17歳だ。
 駒の動き方を知っている程度の私は初心者というのも恥ずかしいのだが、藤井七段のすごさはわかる。本人の性格も善さそうだ。将棋界にとっては願ってもない「希望の星」だから、周囲の期待も大きくなる。師匠の杉本昌隆八段が弟子を見守る目もいい。高価な羽織袴をプレゼントして、「とても自分のためには買えません。可愛い藤井君のためなら、ちっとも惜しくはありません」といえるのはすごい。
 名人戦のB級2組のリーグ戦で負けた元A級の橋本崇載(たかのり)八段が、「積んでいるエンジンが違う」といさぎよかったのもいい。「藤井さんも疲れていらっしゃるようだから、今日はここでお開きにして、感想戦をやめましょう」と後輩に気を使ったのもたいしたものだ。中2日で棋聖のタイトルがかかった大切な試合を控えているので、少しでも負担を減らそうとした親心だ。感想戦というのは、勝負の決着がついた後に駒を戻してポイントになった局面を両者で検討する風習だが、必ず行わなくてはいけない、といったものではない。
 対戦後に藤井が記者の質問に答える内容は、勝っても負けても先輩騎士に充分気を使っているのがわかる。中学生でプロになった時だったか「望外の喜びです」と発言して話題になったほど語彙も豊富だが、対局後の会見では相手を傷つけないよう、ぐっと言葉数が少なくなる。聞いていて胸が苦しくなるほど、先輩に気を使っているのがわかる。
 藤井聡太に大リーグエンジェルスの大谷翔平とヤンキースの田中マー君が活躍してくれると、新型コロナウイルスの勢いも衰えるような気がしてならない。

×月×日 小さい頃から、手紙や私製はがきの切手はまっすぐ貼るよう亡父からきびしく教えられた。切手が曲がって貼られた手紙が来ると、父はこんな手紙を送ってくるのは碌でもない人間だと、ぶつぶつ怒っていた。父親の仕付けはかなり順守してきたつもりだが、最近は切手をまっすぐに貼れなくなってしまった。
 これが老化というものだと、つくづく感じる。つまらない些細なことだが、ことほど左様に簡単なことができなくなる。父親が見たら、さぞ嘆くだろうと思いながら、曲がった切手を貼ったはがきをポストに入れる。
 それにしても、日本郵便株式会社の発足以来、手紙などの「物を送る」事業は、すっかり信用を無くしてしまった。郵政民営化によって、効率と採算ばかりを追求するようになった。郵送関連は採算性が悪いものだから、そのうち手紙や葉書は全国均一料金が崩れ、土曜日の配達は中止となるだろう。速達といえば、昔は普通郵便とは別に朝の一番で届けられたものだが、今では他の普通郵便と一緒に昼頃に届く。
 レターパックやゆうパックの宛て名伝票にあるお届け先とご依頼主の両欄に「様」と印刷されているのも、気が利かない。ちょっと考えれば、すぐわかるのに余計なお世話だ。律儀に差出人の「様」の字をいちいち消している利用者に思いがいたらないらしい。届け先だって、団体や企業宛てだったら、様ではなく御中だろう。
 料金不足を切手で送る葉書に「切手ちょう付欄」と書いてある。確かに「貼付」は、「てんぷ」と読む人が多いが、本来「ちょうふ」の方が正しい。辞書にだって、「チョウフの慣用読み」とはあるが、「てんぷ」で項目が立っている。わざわざ「ちょう付」と書く必要があるのかどうか。かえって意味がわからない人の方が多いだろう。

×月×日 [ノムさんのこと]
 野球評論家の野村克也が2月11日に自宅で亡くなった。別に病院に入院していたわけではなく、急性の循環器疾患だから、驚いた人が多かったはずだが、何回も手術していたから持病ともいえる。
 亡くなってから、これほどメディアに取り上げられた元プロ野球選手は珍しい。NHKをはじめ各局で出演した特集番組が再放送され、追悼番組が組まれた。雑誌も追悼の別冊を何社もが出版した。上梓した書籍の数もずばぬけて多い。縁起でもないが、長島茂雄や王貞治が亡くなっても、これだけの番組は放映されないだろう。
 それはなぜか。ノムさんは自分の言葉を持って、野球を語ったからだ。どこかの国の首相とは違う。データを重視して、自分の言葉で理論的に説明した。選手への指導、バッテリーの配球、ゲーム中の作戦の理由もしかりだ。「根性野球」とか「ボールに食らいつけ」といった空疎な叱咤を嫌い、「結果オーライ」を認めなかった。
 成功しても失敗に終わったにせよ、「すべてに理由があるはず」を持論とした。「週刊朝日」で「野村克也の目」を連載していたから、自宅へ訪ねたことがあるし、京都の祇園のお茶屋で一緒したこともある。野球評論家として超一流だった。
 私は東京生まれだが、小学生のころから南海ホークスのファンだった。近畿日本グレートリングスといった時代からだから、自慢するわけではないが相当古い。
 昭和20年代には飯田徳治、木塚忠助、蔭山和夫、監督兼任の鶴岡一人の内野陣は「百万ドルの内野」といわれた。その後、野村克也、宅和本司、皆川睦雄、広瀬叔功、杉浦忠、らを擁し、全盛時代を迎えた。
 1958(昭和33)年4月、駒沢球場で行われた開幕第一戦の東映フライヤーズ戦に立教大から入団した新人の杉浦忠が先発した。この試合を私は見ている。家から駒沢球場には歩いていけた。内野は広瀬淑功、岡本伊三美,森下整鎮、外野に穴吹義雄らがいた。杉浦は2点取られたが、勝ち投手になった。この日、アンダースローでなく上から数球投げた記憶がある。当時の東映には土橋正幸、尾崎行雄という快速ピッチャーに捕手は暴れん坊の山本八郎。外野手の毒島(ぶすじま)章一は三塁打をやたら打つ選手だった。
 同じ日、後楽園では巨人の長嶋茂雄がデビューし、国鉄の金田正一投手から4三振を喫している。バットに球が当たったのは、よけたバットに球から当たった一球だけ。
 ノムさん、長嶋、杉浦は同学年だった。私は高校を卒業した年で、4学年下ということになる。ノムさんは父親を戦争で亡くし、母親の手で育てられた。家が貧乏だったので、小学生のころから新聞配達をして家計を助けていた。この今ではよっと想像もできないような辛酸をなめた暮らしがノムさんを育てたすべてといってもいい。貧乏をバネにして、一流の域にまで上り詰めた反骨と努力は松本清張に通じるところがある。
 ノムさんが結婚して間もない頃に、甲子園に近い自宅で、夫人にインタビューしたことがあった。親分と慕われた鶴岡一人が辞意を表明し、次期監督を承諾した4日後に急死した蔭山和夫、杉浦忠、ノムさんといった人たちに前夫人と沙知代夫人を加えた複雑な愛憎のドラマは、多くの謎が秘められたままだ。ほとんどの人が鬼籍に入り、これからも明らかになることはないだろう。(この項続く)
 ノムさんついてはこれからも少しずつ書き続けていきたい。(2020,7,15)
◇次回の更新は7月29日の予定です

筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。秋に『落語の行間 日本語の了見』(仮題)を左右社から刊行予定。