その3 半世紀前のニューヨーク大停電とコロナ禍の「不要不急」

×月×日 相変わらず新型コロナウイルスの感染拡大は収まりそうにない。今なお「不要不急の外出は控えるべき」といわれ続け、もはや社会通念となりつつある。
 私が朝日新聞社に入社したのは、先の東京オリンピックの年だから1964年になる。翌65年の11月、突如ニューヨークで大停電が発生した。現地時間9日の午後5時半ごろだった。地下鉄などの交通機関が止まり、エンパイアステートビルの24階でエレベーターに13人が閉じ込められた。道路の交通信号が機能しないので、バスはのろのろ運転となり、病院には血液保存のために大量のドライアイスが配られた。停電の原因はわからないまま、13時間半後に解決した。
 ニューヨークのワーグナー市長は市民に対し、「自分が社会に役立っているという意識を捨てるのは大変つらいことだ。自分の仕事は『余人をもって代えがたい』と思いがちだが、今はその誇りを捨てて、明日は思い切って会社を休んでほしい」と訴えた。
 私は翌日の編集会議で「この演説をもとに日米のサラリーマン意識の比較を分析したら、面白い記事になるのではないか」と提案した。多数決ではないが、大方の賛同を得て企画が通った。デスクがニューヨーク支局に原稿を依頼したが、掲載された原稿は単なる新聞記事の「雑感」に過ぎず、面白くもおかしくもなかった。無能なデスクの頼み方が良くなかったのだろう。その上ニューヨーク支局からセンスのない原稿が送られてきた。「雑誌の原稿なんてこれで充分だろう」と考えたらしく、少しも熱がこもっていなかった。

 老齢だから社会に貢献できるのは、外出を控えることくらいしかできない身にとって、半世紀も前の遠い国の出来事が今思い起こされるのは、両者の間に通底するものがあるからだ。もちろん片や一過性の停電事故(その後、2、3度起こったけれども……)で、現在の世界的な命にかかわる伝染病とは規模、危険度が格段に異なる。テレワークやリモートといった現代のテクノロジーの発達など、およびもつかない時代だった。
「自分の仕事には代わる人がいない」という意識は英語でどう表現するのか、興味があったので調べたら、「エッセンシャルピープル」とあった。掲載された記事にはエッセンシャルのエの字もなかった。
 これぞ、今でいう「不要不急、自粛」の精神にほかならない。現代ではエッセンシャルワーカー、あるいはキーワーカー、クリティカルワーカーと呼ぶ。医療従事者や交通機関、流通販売関係(スーパー、宅配便)、清掃事業などの社会の根幹を支える人たちの給料が妥当かどうかの議論があり、一方で派遣、下請けといった日本固有の複雑な事情もある。ただ印鑑を捺(お)すためだけに出勤する人の是非が問われもした。
 ピープル(人びと)からワーカー(労働者)への変化を考えただけでも、広くて深い社会問題が横たわっている。キリスト教を背景に発展した西欧型民主主義は利益の分配には実に有効に機能する。しかし今回のような「非常事態」ともなれば、肥大化した組織の危機管理の現場では、対応に齟齬(そご)と限界が生じてくるのも事実なのだ。また組織のトップに立つ者の言語による説得力についても大いに考えさせられた。

×月×日 前衛短歌として知られた歌人の岡井隆が7月10日に亡くなった。すぐに永田和宏の追悼文が14日の朝日新聞朝刊に掲載された。「<私>の解放 前衛短歌で」と4段の見出しがあり、「岡井さんを悼む」と白抜きの凸版の下に「歌人・細胞生物学者 永田和宏」と筆者名がある。在りし日の故人の写真が大きく(2段)載っている。明らかに署名原稿とわかる。
 気になるのは、永田和宏の名前の下にやや小さな活字で(寄稿)とあることだ。この「寄稿」の文字が最近やたらと目に付く。特に朝日新聞の文化面に多い。文化面だけといってもいい。
 原稿の前に8行ほどのリード(前文)が付いている。
<……歌人で脳生物学者の永田和宏さん(73)が追悼の言葉を寄せた。>
 2行の間隔があって、「岡井隆さんが亡くなった。……」と永田の本文が始まる。
 寄稿というのは、あくまでも執筆者側の動作の言葉である。「寄稿する」はいうまでもなく自動詞だ。『広辞苑』にも「原稿を新聞・雑誌などに載せるように送ること。また、その原稿。」とある。
「言葉を寄せた」とあるので、きわめて意地悪く勘ぐれば、永田が「追悼文を載せてほしい」といって、勝手に持ち込んできた原稿かもしれない、とも受け取れる。そんなことはないだろうが、「寄稿」とあるだけにあらぬ疑いが生じる。編集部(新聞)サイドが依頼したのならば「……追悼の言葉をお願いした」とはっきり書くべきだ。永田を起用し、原稿を依頼した編集部の姿勢と主体性が全く見えてこない。
 21日の夕刊3面「美の道標」欄でも、明治学院大教授の山下裕二(日本美術史)が「謎の水墨画と強烈な出会い」という原稿を書いている。山下の顔写真の下には略歴もある。ここでも署名の脇に小さく(寄稿)と添えられてある。
 いつもは編集局の記者が書く連載企画なのに、社外の人に執筆を依頼したからだろうか。どういう事情があったにせよ、そんなことは読者には全く関係がない。
 論点が分かれる原稿を載せた場合に当事者の一方が、反論を寄せる場合がある。読者の反論なら「投稿」として投書欄で扱うのが一般的だ。当事者で、しかも社会的に名のある人からの反論ともなると「投稿欄」では失礼に当たる。こういう場合に「寄稿」と断ったうえで誌面の一部を割く、という事例は新聞に限らず、雑誌にもよく見受けられた。「寄稿」とあると、ついこの種の原稿を想像してしまうのだ。
 新聞の原稿は古来記者がすべて執筆するものだった。政局の動きや事件の報道だけならそれでもいい。最近はページ数が増え、速報という特性がテレビやネットに取って代わられ、紙面の内容が変わった。報道の枠を超えて守備範囲が広くなり、新聞記者だけでは手に負えなくなった。要員も足らないのだろうが、社外の作家や学者、評論家などに記事を依頼する機会が増えた。作家やライターが小説だけでなく、ルポルタージュや時評、社会観察などの分野でも、個人の主観を前面に出して独自の視点から執筆するようになった。新聞が読み物化し、雑誌化したのだ。
 寄稿とわざわざ書くのは、「記者が書いたものではない」と区別したいからだ。「記者は新聞社を代表して意見を述べ、事件を客観的に報道する」という昔の時代の残滓(ざんし)を引きずっているように思える。

 社員ではないカメラマンが撮った写真を誌面に載せる際に「◯◯△△氏撮影」と名前に敬称を付けるのも同根だ。音楽や舞台、美術、料理、ファッションなど、事件を撮る新聞の写真記者には苦手の分野が増えてきた。これも雑誌化の一つの現象だが、昔は写真部員以外の写真を掲載するのは、一流の写真家が撮った写真だった。写真機を持っているのは限られた人しかいない時代で、敬称を付けて当然と考えたのだろう。今のように誰でも写真機(スマホ)を携帯して、撮影できる時代ではなかった。フリーのカメラマンに敬称をつけても、読者へのサービスには関係がない。
 ならばイラストレーションや簡単なカットの類もクレジット(署名)はすべて「氏」をつけなくてはおかしい、という理屈にもなる。亡霊のような「新聞至上信仰」がまだ生き残っている。頑迷固陋(がんめいころう)な因習にとらわれ、前例の踏襲を続けていると、新聞の未来はますます暗くなるばかりだ。

×月×日 [ノムさんのこと]
 1954年4月に野村克也は南海ホークスに入団した。テスト生。給料は年俸84,000円。最初は月給かと思ったが、12回に分けて支給されるという。月7,000円だった。
 前年の10月に大阪球場で実技テストが行われた。遠投試験では規定のラインまでどうしても届かなかった。横にいる係の人の「前、前」と小さな声が聞こえた。少し踏み越えて前から投げろ」と言っているのだ。おかげで、遠投力はパスした。
 その日、昼食のカレーライスがおいしくて3杯お代わりした、という「伝説」が残っている。この食べっぷりが監督の鶴岡一人の目に留まって採用された、ともいわれるが、実は採用がすでに決まっていた、という説もある。となると「前、前」の声も納得がいく。月7000円から寮費として4000円が消えた。ミットとバット2本が球団から支給されるだけ。郷里の母親の許に1000円仕送りした。テスト生以外の同期に、宅和本司、皆川睦雄、戸川一郎などがいた。
 ご飯を腹一杯食べることができただけでも、嬉しかった。まだ戦後の食糧難は解消していない。合宿では、おハチ一杯のご飯を漬け物だけで食べているのを見てびっくりした、と同期の戸川一郎(現プロゴルファー)が証言している。
 同期の宅和本司は54年の入団一年目で26勝、翌年は24勝と2年間で50勝を挙げた。宅和は一躍大エースとなったから給料が違う。晩飯となると合宿所の連中は宅和の後についていった。パチンコの玉も宅和のオゴリだった。野村は「早く終わらないかな」と店の前でじっと待っていた。野球以外にはまったく興味がないのだ。
 宅和の投球を駒沢球場のネット裏で観たことがある。右打者がのけぞってよけると、ボールは真ん真ん中に構えたミットに大きな音を立てて収まった。3年目に9勝を挙げると、そのまま鳴かず飛ばずに消えてしまったけれども。
 野村は1年目に9試合登場し、11打数ノーヒット、5三振だった。シーズン終了後、解雇の通知を受けた。「このままでは、網野の母親には会えません。南海電車に飛び込んで死にます」と、言い張り、粘りに粘って首だけはまぬかれたものの、2年目の出場機会はなかった。
  バットの素振りの回数だけは誰にも負けなかった。掌はマメだらけ。2歳年上の森下整鎮はアキレス腱を3回切断したものの猛練習で復活したという努力の人だ。
「人がまだ寝ている間に練習していたが、まず野村がついてきた。キャンプでは、人より1時間早く起きてランニングを始めたが、野村はそれにもついてきた」
と森下は証言している。森下は三塁手だったが、やはり駒沢球場で、無死1、2塁からの三塁ゴロを5-4-3と送る珍しいトリプルプレーを見たことがある。
 宅和は「ひまさえあればバットを振っていた。食事がすんで、30分たたないうちに、素振りの用意をする。とにかく必死の男。努力とはこういうものかと内心びっくりし、必ず大成すると思った」と言っている。
 出場機会がなかった2年目のシーズンが終わり、冬に帰省した。宅和からウールのスーツをもらい、洋服屋で裏返しに仕立て直した。上着の左胸のポケットが右側に移っていたが、新品同様に見えた。当時は、ごく当たり前のことで、着るものも、まだ不自由な時代だった。
 3年目となる春のハワイキャンプに同行できた。普段の生活態度を見ていた2軍の関係者が推薦してくれたらしい。ここで野村のバッティングが鶴岡の目に留まった。「収穫は何もなかったけれど、野村に使える目途がついた」という帰国の談話にようやく安堵の気持ちが芽生えた。
 これらの証言は、長沼石根の『月見草の唄―野村克也物語』(朝日新聞社・1981年)に拠った。「アサヒグラフ」に連載したものをまとめた本だが、本人を初め幅広い関係者に取材した労作だ。その執拗で緻密な取材ぶりには、さすがの野村も舌を巻いていた。(この項続く)
=敬称略(2020,7,29)
◇次回の更新は8月26日の予定です

筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。秋に『落語の行間 日本語の了見』(仮題)を左右社から刊行予定。