その4 コロナ禍に咲いた大輪、藤井聡太二冠奪取と八段昇段

×月×日 高校3年生のプロ棋士、藤井聡太が棋聖、王位の2冠に輝き、さらに八段昇進の最年少記録も更新した。これからは藤井2冠と尊称されるので、藤井八段と呼ばれることは当分ないだろうといわれる。
 将棋界のすべての人が、藤井の活躍を期待している状況なので、タイトル保持者は常に「アウェー」状態。戦いにくかったと思われる。それでも最年長で王位の座に就いた木村一基前王位は、失冠したものの「また一から出直します」とコメントしていたのは、清々しい。「中年の星」と慕われるだけのことはある。
 先輩騎士で、第4局の副立会人を務めた豊川孝弘7段の「同飛車(同志社)大学」とか、「両取り(オードリー)・ヘップバーン」などの駄洒落が話題になるのも、コロナ禍からの脱却が見えず、あまりにも世相が暗いからだ。いくら快挙とはいえ、平時だったら、ここまで騒がれることはないだろう。とはいっても藤井の快挙に傷がつくわけでないのは、言うまでもない。

×月×日 前回に触れたエッセンシャルワーカーだが、「一冊の本」(朝日新聞出版)の8月号で、オンライン階級という言葉があることを知った。彼らはコロナ感染のリスクにさらされることなく、家にいて業務が可能である。職業に階級を持ち出すことは、あまり好みではないが、どこの国でも「職業の格差」があるのが現実だ。「エッセンシャルワーカー」の数を減らせと、口でいうのは簡単だが、その解決策を得るのは難しい。
 自分の仕事に達成した満足感を得られない場合、その不満を解消してくれるのは報酬と名誉しかない。弱者の介護に携わっている人が十分な報酬を得ている、と考えている人はごく少数だろう。社会が彼らへの尊敬の念を十分に抱いているかどうかも疑問だ。IT化社会はその格差をますます拡大させているのも、また冷酷な現実であることに、気が付かないといけない。
 オンライン階級こそが、最上で最も優先されるべきとする「オンライン至上主義」がまかり通りそうな気配がある。オンラインも所詮は、「道具」にしか過ぎない。オンライン化の裏で人間の尊さ、男女平等といった「基礎感覚」が失われつつある傾向がみられるのではないか。心して、警戒する必要があると思う。

×月×日 さし絵画家の濱野彰親が亡くなった。松本清張、山崎豊子、川上宗薫などとのコンビが知られている。美術作品というより新聞や雑誌に掲載される画稿を制作する名工だった。
 大量に生産される新聞や週刊誌の印刷方式と紙質を考えて、いかに効果を上げるかを志向し続けた職人だった。墨一色という限られた世界で、「黒」の色調を効果的に表現するのに腐心した。濱野が考え付いたのは、画稿の黒の部分にはポスターカラーを使用することだった。原画を見ると、ポスターカラーの部分だけ黒が突出して映る。しかし印刷されたものは、鉛筆やクレパス、木炭などのタッチと馴染んで、実に豊かな黒の諧調を生み出していた。印刷されて初めて「作品」となる。
 松本清張と一緒に鳥取へ取材に行ったことがあった。羽田空港へ松本清張が遅刻し、予定していた飛行機に乗り遅れた。悠然と現れた松本が「飛行機は待ってくれなかったかね」と照れ笑いを浮かべた。「先生を待つのは編集者とさしえ画家だけですよ」と普段は温厚な濱野が、痛烈な一言を発したのも懐かしい情景だ。
 仕事が順調にいかず、人知れず悩んだ時代もあったのだろう。ハマノマサオの名前で漫画を発表したこともあった。木村壮八、岩田専太郎や田代素魁(光)などの先達の流れを汲む、最後のさし絵画家ともいえるだろう。
 囲碁が趣味で文壇の囲碁仲間、中野孝次、江崎誠致などと北京、上海へ囲碁の親善訪問に出かけたのも、楽しい思い出に違いない。
 日本出版美術家連盟の会長も務めた。享年94。合掌。

×月×日 [ノムさんのこと]③
 1956年春のハワイキャンプで鶴岡一人監督から実力を認められた野村は3年目のシーズン、129試合に出場し、7本の本塁打を打ったが打率は.252だった。翌年の57年には30本の本塁打を打って本塁打王に輝いた。打率も.309と初めて3割を超えた。入団4年目だった。
 鶴岡から面と向かって褒められたわけではない。新聞の談話で自分が褒められているのを知ったのだ。鶴岡は敵の選手を褒めても、味方はけちょんけちょんにけなした。そんな鶴岡が本塁打王になった時、ベンチの横ですれ違った際にぼそっと「お前、ようなったな」と声をかけてくれた。褒められたのはこの一回だけだったという。しかし、さりげない一言が野村に大きな自信とやる気を与えた。
 この鶴岡流の気配りを野村は、監督になってから、踏襲している。しかし、鶴岡の「根性野球」には、ずっと違和感を覚えてきた。鶴岡の打撃論は、単純明快で、「ボールをよう見て、しっかり打て。逃げるな」としかいわない「根性野球」だった。
 入団5年目の58年。同じ年の杉浦忠が立教大学を経て南海に入団してきた。開幕第1戦でバッテリーを組み、勝利したことは冒頭で触れた。高卒同期の宅和は、もうデビュー当時の球威はなかった。入れ代わるように同期の山形の米沢西高出身の皆川睦雄が台頭してきた。
 サイドスローで、実にコントロールが良かった。インコーナー低め、右打者のひざ元に沈むシンカーは空振りかせいぜい内野ゴロだった。また外側へ微妙に逃げる球にはバットに当てるのが精いっぱい。当時は、まだ言葉がなかったが、今でいう高速スライダーで、野村に言わせれば、「日本で最初に投げたカットボール」ということになる。
 杉浦が入団二年目、59年に念願の日本シリーズで巨人を破り悲願の日本一に輝いた。杉浦のシリーズ4連投、という誰も成し遂げなかった記録だ。「涙の御堂筋パレード」といまでも語り草になっている。
 杉浦の球を受けていても、捕手の野村には少しも面白くなかった。まっすぐとカーブだけで、打者は打てない。困ったら、まっすぐのサインを出せばよかった。空振りかせいぜい後ろへのファウルだった。勉強にもならず、「自分は単なる壁と一緒ではないか」と虚(むな)しささえ、覚えたという。
 鶴岡は、杉浦を可愛がり、「えらいのは杉浦だけだ」と公言した。野村にすれば、「このおっさん、野球をわかっているのかな」と疑念が湧いた。
「杉浦だけには低姿勢で、『スギ、悪いけど行ってくれるか?』と優しく声をかけるのに野村や皆川にはぞんざいに『ノム』、『ミナ』と話す調子が違った」(『野村克也からの手紙』(ベースボールマガジン社)
 野村には、なぜ自分が鶴岡に嫌われるのか、わからなかった。別に反旗を翻したわけでもない。その理由は、杉浦が大学卒業で、野村や皆川が高校卒だからか。逆境から生まれた反骨精神は、時として怨念となり、妬(ねた)みや嫉(そね)みと裏表の関係にある。その辺の執着は、松本清張と通底している。
 1965年、野村が戦後初めて三冠王(打率、本塁打、打点のすべてで1位)になった時、鶴岡は勇退を表明した。次期監督は誰もが認め、また期待していた蔭山和夫に決まった。しかし人の運命はわからない。蔭山が監督就任を受諾し発表してから、わずか四日後に自宅で急死した。蔭山の死は、後の野村の野球人生を大きく変えることになった。
 やがて野村は、鶴岡、杉浦の二人と袂を分かつことになる。(この項続く)
=敬称略(2020,8,26)
◇次回の更新は9月9日の予定です

筆者紹介
◎重金敦之(しげかね あつゆき)1939年東京生まれ。編集者、大学教授を経て文芸ジャーナリスト。著書に『ソムリエ日本一・田崎真也物語』『食彩の文学事典』『すし屋の常識・非常識』『作家の食と酒と』など多数。秋に『落語の行間 日本語の了見』(仮題)を左右社から刊行予定。