【書評】佐伯誠さんに『道を歩けば、神話』をご書評いただきました。
文筆家の佐伯誠さんに、樫永真佐夫著『道を歩けば、神話 ベトナム・ラオス つながりの民族誌』の書評をいただきました。以下、全文お読みいただけます。
あのレンガ大の一冊『殴り合いの文化史』で、人々を震撼させた樫永真佐夫の新著だ。
今回は樫永の専門にしている黒タイのフィールドワークの収穫がどっさりつまった紀行文で、できれば、巻を措かずに一気に読んでほしい。ロードムーヴィーの趣のあるトラヴェローグを分断するのはあまりに惜しい。
あるいは、旅程にあわせて十日かけて旅するリズムで読むというのもたのしいかもしれない。
きっかけはS氏に請われてのハノイからルアンナムターまでの800キロの旅。
「ラオスへ連れてって」というS氏の単純明快なリクエストは、われわれ読者の気持ちを代弁してくれる。
ベテランのツアーコンダクターには、ゴチャゴチャいわずにすべてを任せるにかぎる。
だが、なんとしたことか、ハノイに着いたその夜、著者はいきなりの体調不良に陥ってしまって、ほうほうの態で帰国したのだという。その罪滅ぼしとして、現地で何を語りたかったかをおさらいするということで、考察はいっそう根掘り葉掘りになった。おかげで、知らなかった土地の風に吹かれながら、紙上でたっぷりレクチャーを聴講することができることになった!
著者は、淡々と飄々と心のおもむくままに語っているようだが、しかけをいくつかしのばせている。
まず、記述の構造を神話にならったという。
どういうことか?
近代の正史、稗史をほって、逸話や民話やホラまでひっくるめて、神話の古層までたどりつく。こうなったらエヴィデンスなんか問うものはいない。トラのような怪力男、百の卵を生んだ姫君、巨大なスッポン、ありとあらゆるものが「ひょうたん」からゾロゾロ出てくる。
ベトナムとラオスについて知ろうとするなら、「はじまり」へ遡るのが近道だと著者は道を指し示す。25年にもおよぶフィールドワークをしてみて、著者が会得した旅の極意だ。
謎の男S氏のことも、あとがきを読んでなるほどと思った。あるいは、砕けた語り口の国家論としても読んだって構わないだろう。「はじまり」が共同体を本質から支えているという卓見も、あまりに飄々と口にされるので聞き流してしまいそうだ。
しかし、筆者が論を構えたがらないのには、理由がある―
「黒タイの村の一つ一つは、地縁と血縁の「つながり」から成立する数百人程度の共同体だ」。
たくさんの魅力的な人物が登場して、それぞれが寸描された物語になっている。
小松みゆきさんは、単身、日本語教師としてハノイにやってきて、認知症になった実母を連れてきて、13年間同居して、最期をみとったという。それだけでなく、残留日本兵たちの残したベトナム人家族を取材、知られることのなかったその存在を知らせた。
そして、ハノイ在住25年の福田康男さん。この人は、ベトナムの達人だ。
そして、黒タイの村に染色の工房を構えていた谷由起子さん。
なにより、著者をマサオと呼んでかわいがってくれた故カム・チョン先生。親身になってくれた慈父のような先生への愛惜はかぎりなく深い。
時代は大きく変わろうとしていた。かつて著者が身も心も浸していた黒タイの人々の濃いつながりは、希薄になりつつある。その理由は、ひとつはSNSによるもの。もうひとつはコロナだ。
だから、「この旅は濃厚接触あってこその親密な前時代最後の思い出になった」という感慨はホロ苦い。
筆者そして旅の同行者たちは、自分たちがついに「よそもの」でしかないと知りながら、共同体内部の「つながり」は外部の視線にさらされ、新しく開かれ、あるいは強化されると信じようとする。それは、あまりに楽天的だろうか?
そうは思わない。
やすやすとペシミズムに沈みがちな時代だけれど、ボクサーでもある筆者の体幹はそうしない強さを持っている。
疑わしい戦場にいるものがどうすべきか、われがサミュエル・フラーが檄を飛ばしていた――「その重荷を、微笑みを浮かべ、楽天的姿勢を固守し、残された人生を最大限に活用しつつ運んで行こうではないか」
佐伯誠
力強いご書評、ありがとうございました!