【書評】岡敦さんに『道を歩けば、神話』をご書評いただきました。
文筆家の岡敦さんに、樫永真佐夫著『道を歩けば、神話 ベトナム・ラオス つながりの民族誌』の書評をいただきました。以下、全文お読みいただけます。
樫永さんの本『道を歩けば、神話』を読みました。
紀行文として楽しみながら、あらためて、いろいろなことを学びました。
そして読み終えると、まず、次のように思いました。
1
ベトナムからラオスへ、十日間800kmの道中記です。出立の動機は「染織の現場を見ること」ですから、もちろん、愉快で啓蒙的な旅の記録として楽しむこともできるでしょう。
しかし、訪れる史跡の背景を知り、語られるエピソードに耳を傾けているうち、しだいに、それぞれの土地の歴史が見えてきて、かつてそこに生き、また死んでいった人々の声が聞こえてきます。そして、その声が語る内容は、気楽で幸福な事ばかりではない、ということも胸に染みるようにわかってきます。
たとえば、市街に立つ「像」や自然の中に置かれた「碑」。その多くが国や民族の戦いの記録であり、「国始め」の宣言です。国始めが「何回も」記録されている……つまりこの国は、他国や他民族に繰り返し蹂躙され奪われてきたということ。そしてそのたびに立ち上がり、戦い、取り戻してきたということです。
政治的な圧迫を逃れて、移住せざるをえなかった少数民族も紹介されます。生存の基盤であった環境を離れてでも、「自分たちは、自分たちとして生きる」と決めたということでしょう。
また、かつて著者が出会った老人たちの姿も描かれます。老人たちの経歴は、戦争や共産党の政策と無縁ではありえません。やはり、「私」や「私たち」を大きな力に奪われないように、あがき、戦い、耐え忍んだり身をかわしたりしてきたのでした。
主たる民族も少数民族も、個人個人も……ベトナムの人々は、かくも粘り強く戦い、自分たちが自分たちであることを守り抜いてきました。
「私が私であるために、どれだけの悲しみをくぐり抜けなければならないのだろう。私たちが私たちであるために、どれだけの血を流さなければならないのだろうか……」
頁の中から、そんな声が聞こえるようでした。
そして私たち読者は問われるのです。
「おまえにも、われわれと同じように振る舞う覚悟はあるのか。こうやって守りとおさなければならない『自分』を、そもそも、おまえは持っているのか」と。
2
本書冒頭で語られる小松みゆきさんのエピソードも、上に書いたことと同じ意味を持っていました。
小松さんは、自分の住むベトナムに老母を迎えて介護しながら暮らしました。また、ベトナム残留日本兵とその家族の苦難を発信して事態の改善を図りました。どちらの仕事も、「家族」という「自分たちが自分たちとして生きる共同体」を作り、保ち、守るためでしょう。それは、本書で語られるベトナムの人々の意志や願いと違いはありません。
導入部に小松さんの話が置かれていたのは、「日本人読者にとって身近な話題を通じて、本の主題に近づきやすくするため」だった……読書の後半に入った頃、私はそのことにようやく気づいたのでした。
3
この本には、現地の人々の現在進行中の現実も描かれます。
21世紀に入り電気が届きテレビが置かれスマートフォンが広まると、地方や山中で暮らす人々は、地元を捨てて都市へ向かうようになりました。自文化を捨ててグローバルで平板な文化に呑み込まれていくのです。
「私が私であるために」「私たちが私たちであるために」あれほどの血と涙を流してきたというのに。それほど大切に守ってきたものを自ら捨ててしまう、それも、「あっさりと」というより、むしろ「喜々として」……。
この状況は、決して他人事ではありません。
4
私が私であるために……私たちが私たちであるために……私は、私たちは、何をしなければいけないのでしょうか。本を閉じた後、私たち読者は考えさせられます。
必要なときは戦うこと、戦い続けること。
たとえ負けてもやり直すこと、奪われても奪還すること、何度でも。
勇気をもって移動すること。再建すること、再建めざして力を合わせること。
さらに、自分たちが今喜々として進んでいるこの道の、その先に何があるのかを、自分の頭でしっかり考えること。
もしも、このような問題意識をしっかり共有するならば、私たちはあらためて「つながる」ことができるのかもしれない。
そして、その「つながり」の先に、新しい時代と新しい世界が「はじまる」のかもしれない。
私が私として生きること、私たちが私たちとして生きること、そのための「つながり」を、私たちは「はじめる」ことができるのかもしれない。
この本には、そう示唆され、また励まされているように思います。
岡敦
心のこもったご書評、ありがとうございました!