男の愛
町田康
- 全
- 28
- 回
詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
この土地のぐるりは武家屋敷もおおく、里山の風情が江戸の大店や豪商のあいだで人気をとり、凝った農家ふうの隠居所や妾家、そうした上客めあての閑雅な料亭がたちはじめた。
ところが、巣鴨や入谷の縁日に参詣する客で繁盛しはじめ、植木市、茶屋と自然に寺社門仲の脇町をなしたのち、小料理屋、芸妓置屋、待合が犇くいわゆる三業地へと発展したらしい。明治の日清、日露戦争景気のときも、余所にはない庶民的な雰囲気がうけてあきないはふくれ、芸妓も五百人をこえた。さらに、大正の関東大震災で東京市中が焦土となったときも延焼をまぬかれ、ひとときは神楽坂と肩をはる東京一、二の盛り場にまでのぼっている。
大正九年九月、原ッパや雑木林、そして荷風の『日和下駄』に出てくる音無川が小石川の方にながれている。カワウソでも出そうな寂しい一角に、「鈴む良」という料理屋が一軒、ぽつんと開店したのである。〔中略〕(当時の大塚の花街は樹木にかこまれ、その中央を音無川がながれ、灯のついた赤い橋がいくつもかかっていて、夜目には、田舎の温泉場の雰囲気があったのだ)
(田村隆一『若い荒地』原文ママ)
田村隆一が回想する少年時代、大塚に祖父重太郎が創業した鳥料理屋鈴む良もあった。しかし、さしもの繁盛も、戦後は新宿や池袋にお株をうばわれてしまった。最盛期には百軒をこえた料亭、大塚芸者の置屋も、いまは二十三軒に減る。
入梅の午后、ぼくは、アシスタントの黒猫と田村隆一の幻影をもとめて大塚にデートにでかけた。まあ、そう妄想しているのぼくだけで、黒猫さんは文学取材のつもり。田村さんがエッセイで、貸本屋から銭湯へ、入浴後は中華料理屋で一杯という散歩道を「詩人の黄金コース」と書いていたから、と。
さくらトラム、なんて無粋に改名されてしまった旧都電荒川線の路面電車にのって大塚駅へ。黒猫は、赤と黄のおもちゃめいた二両車両が、都市の灰色の河をぬけ、車のわきを右に左にとゆれながら走る路面電車の光景に興奮。のんびりしたスピードとリズムにのって、ゆっくり土地を眺め坂のカーヴを味わう。薔薇の咲く電車路をとおって大塚駅をすぎ、「鬼子母神前」で下車。「鬼子母神て、どんな神社ですか?」と、黒猫。「田村さんの詩に訊くといいよ」。
わが母神
鬼子母神
子どもを喰べて喰べつくして聖母になった
インド渡来の女神
ぼくの生家の近くに雑司ヶ谷があって
祖父に連れて行かれた記憶があるが
祖父だって女神が怖かったのにちがいない
ぼくは女神が大好きで
女神のお尻ばかり追いかけてきたから
やっといま
鬼子母神さまの生産力 〈G・N・P〉と
消費量が分ってきて
安産と育児の女神
その子どもがやっと成長したと思ったら
母と子の闘争に入る
どっちが反体制だか ぼくには分らないが
とつぜん
鬼子母神に会いたくなった
雑司ヶ谷まで行ってみて
帰り途には
「江戸一」
という飲み屋で一杯ひっかけて
鬼子母神の土の境内では、「子授け銀杏」がエメラルドの火口をやわらかく煌めかせていた。子どものかわりに釈尊があてがった柘榴の樹は、ないみたい。昼も木蔭で黯い、ビル街の静かな狭い谷地は、鬼子母神の名にふさわしく異界に感じられる。お社のそばに、「創業一七八一年 上川口屋」と看板のある昔ながらの木造駄菓子屋さんがあった。とりどりの瓶に、よっちゃんイカ、揚げ柳、うまい棒なんかがはいって。現実の女性のみならず、生涯、詩のミューズをおいかけた田村さん。この詩は母子の関係になぞらえつつ、ポエジーと詩人の関係を悲喜交交うたっている。ぼくも、鬼子母神をミューズに見立て、いい詩が書きますようにと祈願した。
「田村さんも、子どものころはこのお店で、お祖父さんに駄菓子をおねだりしたのかな」と、蒲焼さん太郎を齧りながら黒猫女神。
緑のトンネルがここちよい欅並木の参道を歩く。おみやげ屋さんで名物「すすきみみずく」をさがしたのだが、売り切れかしらん。古民家を改装した硝子引戸のブティック、雑司ヶ谷霊園にお墓のある夏目漱石にちなんだ「ソレカラ」なんてカフェはあったけど。
レトロな商店街では八百屋さんが自家製バナナシェイクを売ったり、猫が豆腐屋さんの釣り銭籠のなかで店番をしている。落語家の娘さんが営むたい焼き屋で、ぼくは「子宝たい焼き」、黒猫は「うさぎの恋結び」を買った。古本屋も何軒かある。ブルー&ホワイトに塗られた絵本専門の「エホンハウス」。「ひぐらし文庫」というニューヨークの貸本屋みたいな古本屋もあった。お! ぼくはそこの棚で、昭和五〇年刊行のHAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKの一冊、アガサ・クリスティー著、田村隆一訳『ねじれた家』をみつけた。二百五十円也。奥付の訳者紹介には「大正12年生 昭和18年明治大学文芸科卒 詩人 英米文学翻訳家」とある。
「じゃ、田村さんの詩に登場した大塚の江戸一で呑もうか。そのまえに銭湯で一風呂浴びよう。ちょっと解明したい女湯の謎もあるんだ」。ぼくと黒猫は昭和レトロの銭湯「大塚記念湯」へ。浴場にはいり、うえをみあげて、度肝をぬかれた。天井に、満艦の星空と、人工衛星のペンキ絵。東京下町の銭湯はちがうなあ。
夜の花
花屋の花は好きじゃない
小鳥屋の小鳥だって好きじゃない
詩人の詩なんか大嫌い
そこで下町の銭湯に出かけて行った
湯の花くらいは咲いているかと思ったのに
女湯でプカプカ浮いているのは夜の花
むかし ぼくが子どものころ
祖母につれられて女湯に入ったら
黒い花が浮いていて
今じゃ金色銀色の花が浮いているだろう
木枯らしに吹かれて居酒屋まで
辛口一本飲んだら やっと新潟の梅の花が咲いてくれて
(詩集『花の町』収中)
女湯の謎とは、この「夜の花」。田村さんの注に「夜の花」は「陰毛のアデランス」とある。男性用は、ない(と思う)。ぼくが女湯にはいれた幼少期、銭湯に「夜の花」は咲いていなかった。やはり、東京の花街特有の花なのか。想像するだに、ぼくのこころにポエジーの花がざわざわ咲き乱れるのだ。
黒猫は待合室で牛乳片手にワイドショーをみていた。どうしても好奇心をおさえられず、この詩を本所育ちの黒猫に説明し…、
「で、さ、どうだった?」
「…浮いているわけ、ないじゃないですか。みたことないし」と、新月のように冷ややかに細まる瞳で罵られる始末…田村さん、これ、詩人一流のフィクションじゃないですよね?
「夜の花が咲くなんて、大塚、すごい町だったのだなあ」、「まだ、いってる」、「陰毛にもカツラとは、女心は魍魎ならぬ毛量」…と、田村さんが「東京一の居酒屋」と讃えた「江戸一」へ。
暖簾をくぐり店内に入った途端、しん、と空気が鎮まっている。
テレビとBGMがないのはともかく、お客連が、無言、なのだ。
居酒屋へは呑みにくるのであって、言葉はいらない、のだ。
清潔に浄められたコの字形の木のカウンターには、好い塩梅に枯れた酒徒どもがそろい座り、開店まもないというのに、各席にはもう四、五本の白銚子がならんでいる。「一晩で十本空く常連客もいるよ。酒は夏でも燗酒。独酌にくる妙齢の女性客もいるけど、だれもナンパも狎々しくもしない。ここは風雅な大人の社交場なんだ」。
白鷹のぬる燗を二本、肴はとりあえず石鰈のお造りと自家製厚揚げをたのむ。黒猫は、カウンターのそばで湯気をたてる錫のチロリをめずらしそうに観察していた。ここの白鷹は本物の灘の酒。ちゃんと清しい樽の香がする。さらに褒紋政宗を一本。ぼくは好物の穴子の骨を噛みながら、「田村さんが唯遺した詩論は垂直と水平という簡潔な構えだった。垂直とは、ポエジーの稲妻が世界と詩人を垂直に貫くことで、常識に埋没していた諸存在が断崖のごとく峙ち、その純粋個物の実相を隆起させてゆく詩的時間の可能性。水平とは、人間社会をふくむ森羅万象がなだらかに手をつなぐ詩的空間の可能性。田村さんにとって本物の都市は、人、犬、猫、小鳥、桜、雑木林、田畑が純粋な個を失わずに生垣の小径でつながる、江戸東京の路地裏の時空間だったのかもね」。
「お待ちどうさま」という大将の声とともに、鯛かぶら煮がおかれた。黒猫は瞳を細め、喉のかわりにお腹の虫を鳴らして箸をとる。目玉のまわりと頰のゼラチン質がほろっとほぐれ、さっぱりとした脂が口中にほどけた。煮つけた魚の香ばしいような独特の馨が鼻梁の奥にぷんととどいて華をひらく。味つけは、やや塩辛くも感じた。醤油、酒をしっかり効かせた、昔の江戸東京の味。
「そういえば、今風の減塩料理の魚は魚の香がしないんだ。たっぷりの醤油と酒が、魚の魚らしい香味をしっかりひきだすのだろうね。昔人の知恵だな」。いわずもがな、魚の煮付は辛口の酒によくあう。添えた炊牛蒡にも鯛の香ばしさがよく移って。
田村さんの育った大塚という街は、煮魚の味と香にも垂直と水平があった。田村流にいうなら、垂直は醤油で、水平は酒だろうか。
ぼくらのまえにも、十本、白銚子がならぶと、
暖簾の外に雷光、それから、驟雨。