加藤楸邨の粕壁──畦塗りて新しき野が息づけり

加藤楸邨の粕壁──畦塗りて新しき野が息づけり

詩への旅

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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。

加藤楸邨の粕壁──畦塗りて新しき野が息づけり

石田瑞穂

詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。


 埼玉県北部の春日部市は人口約二十三万人、高度成長期に東京のベッドタウンとして“発展”した街。
 アニメ「クレヨンしんちゃん」や「けいおん」の聖地としても知られ、東武野田線の春日部駅舎にはいまも女子高生服にレスポールのギターケースをかついだコスプレ巡礼者たちがあらわれる。
 駅前にはタワーマンションもすくなく、住宅街のむこうには国道と緑の田園地帯がひろがり、中高生の歩き方や自転車の漕ぎ方も、どことなくのんびりしている。たしかにアニメや漫画の舞台として最適な“ザ・郊外地”かもしれないし、そうした巡礼者たち以外には、足をとめる観光客もいないだろう。
 なぜか、ぼくはこの“なにもない”土地が気に入り、毎週のように通っている。理由としては…… 一、埼玉人の心象風景として重要な河畔の光景が健在であり、散歩道として最適である。二、良質な日帰り天然温泉、春日部元湯温泉がある。三、旧きよき街並みが保存されている。四、安くて旨い呑み処がある。
 この条件がそろえば、詩人の黄金の散歩コース、でまちがいない。
 そうして春日部に通うようになり気づいたのだが……この街に、現代俳句の巨匠、加藤楸邨が暮らしたのだ。

 最寄駅から東武野田線急行にのり、十五分ほどで春日部駅へ。のりかえて一ノ割駅で下車しよう。ちいさな駅舎から藤塚橋をめざす。十分ほどで滔々と流れる河川がみえた。
 大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)。
 ながいながい河川敷には桜並木と葦原がつづく。古くからの埼玉人にとっては、地平線まで田畑が整えられた無限の平野、やっと遠く望見される秩父連山が原風景である。そんな、眩暈する平滑な光景に、水のきらめきと流動をあたえる河川……海を知らない埼玉人にとって、川の存在はどれほど貴重だったか。そして、いまも宅地化とマンション建設が急速にすすむ埼玉では、昔ながらの河畔の風光は、こうしてわざわざ春日部にこなければ逢えないほど、減少してしまっている。



 ぼくは、葦や芒が風に吹かれ、オオヨシキリの鳴く桜トンネルを歩きだす。流れ去る水面とおなじリズムで歩き、腕をおおきくふって深呼吸しながらウォーキングする。鴨やオシドリが競って泳ぎやかましいが、元気にもしてくれる。アレチソウの薮のなかにコスモスや野生のリコリスをみつけて歩みを留める。しなだれた桜の奥座敷に、楸邨が教師として赴任した旧制粕壁中等学校(現・埼玉県立春日部高等学校)の学舎が覗いて、

   鵙鳴くやわれに背きし子のひとり
   秋風にまなこけはしく鵜は老いぬ
   曼珠沙華立ちどまるとき燃えにけり

 楸邨の「古利根川河畔吟」の句を想いうかべた。
 大落古利根川の大落は、大水をだす暴れ川、という字義らしい。群馬県大水上山から東京湾へと注ぐ大河川、利根川水系の源流とされる大落古利根川は、江戸時代初期から徳川吉宗江戸幕府による灌漑工事をへて、いまに残る。上流部は葛西用水路と直結。中流部は北南埼玉郡をつらぬき、青毛堀川中落川、備前前堀川、姫宮落川などをへて下流部で中川に合流している。
 かつての中川流域は吉宗が享保の大飢饉後に新田開発した大穀倉地帯であった。大落古利根川や元荒川がめぐらす川沼を活用し、江戸商人たちは舟運により、米、麦、野菜、味噌、蚕繭などを埼玉から江戸へはこびこんだ。春日部は、もとい、粕壁、と書く。その由来は大落古利根川に舟着場のある土蔵や河畔沿いの日光街道にミセ(店)の白壁がならんでいたからだ。つまり、古利根河畔は、江戸田園の風情をいまにのこしている。
 楸邨が春日部に流寓したのは偶々だが、この粕壁は俳句ともゆかり深い地。なぜなら「奥の細道」を歩いた俳諧師松尾芭蕉翁と門弟河合曾良が江戸深川を発ち、千住をすぎて、初晩に宿したのが日光街道粕壁宿だったから。芭蕉翁は、

   草臥れて宿かるころや藤の花

と詠み、以後、翁を偲ぶ俳人、詩人が粕壁と大落古利根川に去来するようになる。楸邨の句も蕪村の「寒声や古うた謳う誰が子ぞ」を踏まえたととれば、利根河畔の俳言論ともなろう。春日部駅にちかい藤の牛島に、名物の藤棚を見物しにきた詩人三好達治も「ゆく春のながき花ふさ/花のいろ揺れもうごかず/古利根の水になく鳥/行々子啼きやまずけり」(「牛島古藤談」より)と詩い帰った。「行々子」とは、ギョギョッシ、ギョギョッシと葦原で鳴くオオヨシキリのことである。
 にしても……達治の詩は華麗にすぎるな、楸邨句は古利根の穏やかな風景と異和する、が、他者たる自然の内側に厳しく我を観ていて、だからこそ情景に流されない……そんな句感を、こうして古利根河畔を歩きながら楸邨の句を口遊むことで、えることができた。書斎で本にむかっているだけでは、こうはならない。まさに「立ちどまるとき燃えにけり」。日々の時間の流れのなかを歩いているだけではみえない句の景色があるのだ。

 埼葛橋、春日橋を黙々と歩きすぎ、国道2号線と川が交差する古利根公園橋へと到着。橋上がアートのある公園になっていて、ブロンズ彫刻の少女たちが、一時間半におよぶ独歩のフィナーレを飾ってくれた。これから国道を東へ十分ほど歩き、待望の源泉かけ流し天然温泉でリバーウォーキングの汗を流すのである。



 温泉で極楽気分を味わったあとは、公園橋のうえで夕凪に吹かれつつ缶ビールをもう一本。茜色にさざ波だつ川面が美しい。温泉で火照った体が心地好く冷めてゆく。冬になると東京湾から鷗たちが飛んできて、橋桁に鈴生りに留まるのは、なぜだろう。
 河畔には舟運の河岸の跡があり、いまも数件の粕壁の土蔵と大店やミセ(二階建ての表店で商品を見せ売り、その奥に母屋や裏長屋がある)がのこる。
 加藤楸邨は昭和四年(一九二九)から昭和十二年までの八年間、中学校教師として粕壁に住んだ。楸邨が句作をはじめたきっかけも、同僚教師から強引に誘われた句会が縁であった。師事した俳人水原秋櫻子と出逢い「馬酔木」に参加したのも、秋櫻子が医師として往診していた粕壁医院(現在の安孫子医院)があったから。当時の粕壁は貧しき農村であり、楸邨は「麦を踏む子の悲しみを父は知らず」とも詠んでいる。
 中学校を辞し、文学的野心を胸に上京した楸邨は、昭和十五年に念願の第一句集『寒雷』を上梓。翌年十月には結社「寒雷」を旗揚げし、粕壁の種を見事に咲かせる。その「寒雷」からは「楸邨山脈」とよばれた金子兜太、安東次男、小檜山繁子ら錚々たる文人が巣立っていった。昭和十九年には改造社の招きで紀行文『砂漠の鶴』の元となったゴビ砂漠へ。また「奥の細道」を歩くなど旺盛に調査旅行や吟行にでた。



 しかし順風に映った上京後、太平洋戦争と東京大空襲が、楸邨の人生を一変させてしまう。
 第二句集『火の記憶』には同年の「午後九時四十分、警戒警報  灯を消して星におどろく火鉢かな」にはじまり、刻々と悪化する戦況が詠まれた。

   蟷螂の斧をあげつつ焼かれたり(一月九日)
   火いろさすときの木の芽に焦衣干す(三月十三日)
   火の奥に牡丹崩るるさまを見つ(五月二十三日)

 楸邨宅は稀少な近世俳諧古文書、蔵書、原稿もろともに全焼。翌日の五月二十四日には「一夜弟を負ひ(長女道子、三男明雄を求めて)火中彷徨  雲の峯八方焦土となりぬ」と、子らと離散する悲痛な句景があった。
 もし楸邨がおだやかな河畔の地に留まっていられたなら……爆撃された帝都下町から北へ三十キロ、旧南櫻井村(旧庄和町)の雑木林に十五万坪の疎開軍需工場をかかえた粕壁は、奇跡的に罹災を免れたが、暗夜を焦がす台東墨田の劫火は炫くみえたという。

 加藤楸邨は「人間探求派」ともよばれた。みずからもその俳句論に「自分の内に湛えられたありのままの真実によって人を動かす」と書く。芭蕉を「嘆きと笑いを一身の生涯を通して融合」しえた芸術家と讃え範とし「真実感合」の句を追求したのであった。

   わがこゑとなるまで蟬を聴きゐたる

 温暖化で中秋をすぎてなお盛んな蟬時雨を聴きつつ、真実感合とは、わかるようで、わからないような。
 老境の楸邨はシベリアから西トルキスタンへと旅した。その折、ウズベキスタンのオアシス都市ブハラに逗留する。そこには、かつて罪人を袋詰めにし頂からつき墜し処刑した「カリヤンの塔」があった。「みごとな塔の美に対して、無残な『死の塔』の名をもつ」塔をまえに、楸邨は「青空のなかにつき入るように聳えた塔の上から、きらめくような炎熱の地に落ちていった『命』というものは、人々に死を一層痛切に意識させたにちがいない」(『死の塔 西域俳句紀行』、一九七三年、毎日新聞社刊)と俳句手帖にメモしていた。
 この旅上の言葉を読んだとき、ぼくはまさに「背骨たつ」想いがした。畢竟、加藤楸邨とは「火の記憶」にとり憑かれた、炎の詩人だったのではないか。河畔の俳人ではなしに。この死の「光塔」こそ、楸邨句のαにしてωたる「寒雷」、白紙も命も焼き焦がし瞬時幻のように屹立する俳句だったのではないか。実際の「奥の細道」を旅し辿るうち、楸邨は芭蕉のみならず「自分の底からも駆りたてる」、「何かが生きて動いてくるような思いになれた」という。おなじみの春日部とはいえ、楸邨の幻影を歩くぼくにもおなじことがおこってきている。
 昭和三十七年(一九六二)、『老牛抄』の楸邨は、ついにこの句のような「火の記憶」にたどりついた。

   火の奥に炎あふるる木の芽見ゆ

 春日部駅ちかくの東町へ。いつものように〈麺や 豊〉の暖簾をくぐる。店主の豊さんは某有名中華店の元スーシェフで、殊に醤油らあ麺づくりへの情熱から、大落古利根川のほとりに店をひらいた。
 さっそく、生ビールと叉焼をたのむ。豊さんのつくるらあ麺や餃子はすべて完全無化調。澄んだ肉汁をうっすら浮かべた、やわらかくも瑞々しい叉焼は絶品で、ホテルのローストビーフより旨い。冷えた生ビールを一息に呷り、二杯目を注文。叉焼、地元農家の小松菜を肴に、加藤楸邨先生に献杯。
 春日部のある旧北埼玉群は麦の産地であり、家庭でも饅頭づくりや手打ちうどんが盛んだ。加須出身の豊さんも、お祖母さんが「ぶつ」(打つ)うどんを食べて育った。そんな豊さんが、美味しいらあ麺をつくらないはずがない。
 本日のご褒美、豊さんの「中華そば」がきた。
 スープは、国産若鶏の生ガラ、丸鶏、もみじと野菜を半日かけて炊き、宗田鰹や鯖節、干し烏賊、瀬戸内にぼし、釧路昆布などをくわえ、鯏などの貝出汁で仕上げたトリプルスープ。醤油は千葉醤油を使用。麺につかう小麦粉は春日部の「ハナマンテン」に幸手町の幻の小麦粉「黒鷲」を混ぜている。無論、手打ち麺だ。
 中華そば、と書いたが…呑んだあとの〆は、常連向けの裏メニュー、見目も麗しい「素らあ麺」である。



 豊さんのぶつ手打ちらあ麺を頬ばれば、豊穣な小麦粉の香がし、スープの鶏油とからむとツルツル、シコシコである。澄んだ醤油出汁スープは、深いコクとキレがあり、あっさりした油分が去ると、魚介出汁の旨味がきれいな余韻をひく。店主曰く、無化調のスープは濃い味ほどつくるのが容易で、淡麗な味ほどむつかしい、のだそうな。豊さんの中華そばは翌朝も胃にのこらない。昔の良質な支那そばを彷彿とさせるのだ。
 そしてなにを隠そう、この〈麺や 豊〉のある古民家風の貸店舗こそ、加藤楸邨の旧居跡らしいのである。
 ジャズが流れる店内を見廻せば、古色をおびた梁も柱も立派なものだ。店舗のうしろには、蔵のある母屋がいまも建ち、どうやら、楸邨はこの旧商家のミセを借家としていたらしい。それからミセは酒屋となり、一九七八年にはテナント化して、炭火焼珈琲ブームの火付け役として関東では有名な〈珈琲館〉第一号店がはいっていたという。加藤楸邨旧居跡の標には「畦塗りて新しき野が息づけり」の句も掲げられている。
 〆のらあ麺のあとも、炙ってもらった浅草海苔と五杯目の生ビールで、カウンターに座りつづける。そして、ぼくがいまいるこの空間で、かつて加藤楸邨が句作に励み、句会をひらいたのかもしれない……と考え密かに興奮する。にしても、自分が仮寓した家が、後年、珈琲店やらあ麺やさんになっているとは……楸邨さんなら、どんな俳味をおぼえ可笑しがったことだろう。
 ちかくの河岸で水鳥が鳴いている。おもわず、小林一茶の句を口遊んだ。

   古利根や鴨の鳴く夜の酒の味

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