詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
新宿副都心が、燃えていた。超高層ビル群の氷山に巨大な火炎玉になった夕陽を捕囚するガラスの街──悲傷の詩人、吉原幸子は新宿で生まれ、新宿で書き、新宿で死んだ。戦前から戦後へ、激変する戦後日本を、もっとも凄まじく表出したメトロポリスで。
一九三二年(昭和七年)、詩人吉原幸子は新宿区四谷本塩町に生まれた。裕福な銀行家の父とモダンで教養ある母に愛されて育ち、何不自由のない幼年期をすごした。ぼくは、吉原幸子の生家から数分の界隈に仮寓していたことがある。新宿は、ガラスと鉄筋コンクリートの非時のひろがりを、江戸時代からつづく由緒ある下町が蚕食している。下町は都市のエアポケットのよう。無機質なビルやタワーマンションの建つ喧騒の大通りから一本裏の路地にはいればおどろくほど閑静で、頬白の飛来する日本家屋の植木庭や大正期の洋館にでくわしたり、コロッケの香りただよう商店街があらわれた。
麹町や紀尾井町にちかい「四ツ谷」も、内藤新宿の各街道が結節する四谷大木戸から発展した谷地だ。四谷といえば、「東海道四谷怪談」。お岩さん所縁の須賀神社、於岩稲荷田宮神社や運陽寺、「番町皿屋敷」の番町がある。そして、内藤町からうつった職人たちの活計が町名にのこっている。ぼくの暮らした坂町界隈にも現役の足袋屋さんや煙管屋さんがあった。吉原の生家のあった本塩町でも、昭和の中頃まで、朝から職人が半地下で麹や塩を炊いたという。
そんな庶民的で伝統的な下町からすこし東進すると、街は表情をがらりとかえる。東西にのびる新宿通りと南北にのびる外堀通りの四谷見附交差点付近には、現代の交通要所JR四ツ谷駅があり、上智大学と聖イグナチオ教会のカテドラルが聳えたつ。外堀通りを南に遊歩すれば、プラタナス並木の美しい大通りに学習院初等科と迎賓館があり、ゆるやかな坂をくだれば赤坂プリンスの庭園へ。
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じつは、四谷は教会の街だ。ぼくが住んだ小径にも、ちいさな教会がふたつもあった。日曜の朝には鐘やミサの歌声が閑とした路地を響伝し室内までこだましたものだ。四谷は起伏に富んだ地勢で、坂と崖と階段がそちこちにある。紀州、尾張、井伊御三家の大名屋敷は町人町で囲繞され、防衛上のためか、いまだに、住宅と古アパートの狭間を細い細い稲妻形の小径が複雑に入り組む迷路になっている。日中も翳ったままの路地は、ストリートキャットらにとって格好の通い径。彷徨えば、東京の迷宮歩きが愉しめよう。ちいさな階段には、大抵、半畳の余り地があって、町の住人が植えたのであろう、ヒヤシンスの白い花がひっそり咲きほころんでいた。
旧日本と新日本の風が混入して吹く、風通しのいい谷地だから、四谷の下町は人にとって住みやすい。じつのところ、吉原幸子の詩そのものが、この四谷という土地に似ている。絶妙な構築美につらぬかれたモダニズム詩の鏡面と、悲喜交交の情念がゆたかに漣つ抒情詩の鏡面。このふたつの言葉の鏡があわせ鏡になった谷間に、吉原詩の発光はあるのだ。一九六四年(昭和三十九年)に刊行された第一詩集『幼年連禱』には「Ⅳ 夢遊病」という詩篇がある。
眠ってゐた
夢のない眠りだった
ふりだした小雨が わたしをさました
電車みちを横切って一丁
魔のようにタクシーが吹き過ぎる
暗い 大通り
見まはすと
わたしはどこにもゐなかった
わたしはまっただなかにいた
こはかった
吉原はこの幼年期の記憶がじぶんを詩人にしたと自作解説で書く。「電車みち」という表現は、旧国鉄中央東線四ツ谷駅ではなく、一九七〇年まで外苑東通りから新宿通り、外堀通り付近を疾走していた通称、都電。東京都電車(旧東京市電車)角筈線、つまり路面電車の「みち」だろう。坂町坂をあがると吉原の生家のあった本塩町で、いまはYMCAなどがたつ。そこから、幼女は、路面電車線路が敷設されていた現在の三栄通りを横切り新宿通りへと夢遊してしまった。その夢遊歩は、幼い吉原を自分自身の業へ、魂の暗夜の「まっただなか」へとつれだし、覚醒させてしまう。
連作詩集『幼年連禱』は、吉原が詩によって幼年時代を再構築すし、記憶のなかの幼女を鎮魂するセンチメンタルジャーニーである。「平和で幸福な家庭であったが、しかしその背後には、子供の眼に見えない密かな物語があったらしい」(『吉原幸子全詩集Ⅰ』)と、聡明な幼女はこころの奥底で日常の亀裂を感知していた。戦前の日本。大人たちは家庭内はおろか、社会的におおきな嘘をつきつづけた。エリートの父は優等生だった娘に暗号を用いて日記を筆すよう薦める。それは、帝国軍部が各銀行に課した業務命令でもあった。「大人のウソ」は、少女のこころを傷つけるだけではなく、深く、蝕んだ。「見まはすと/わたしはどこにもゐなかった」という詩行は、記憶のなかの幼女にとって、あまりに悲痛な叫びだろう。
家庭と学校で「演技」を強いられつづけた四谷の優等生は、東京大学に入学。現代フランス文学を学びながら、J・P・サルトルやJ・アヌイの演劇に傾倒してゆく。卒業後は宝塚に入団。演劇仲間との恋愛、結婚をくりかえすが、ことごとく失敗する。その原因は、恋人や夫の些細な隠事や嘘もみすごせない「嘘アレルギー」だった。「純粋病」の吉原は、他者に愛をもとめながらも、みずからの精神の純潔を護るために孤立し、傷つき、愛を喪ってしまう。そんな吉原は「個人的な人間関係(愛)」を演劇ととらえ、『オンディーヌ』や『昼顔』以降も、演劇構造を詩集の母型とした。一九四四年(昭和十九年)、吉原はいちどだけ新宿をはなれた。長兄は出征。父を四谷にのこし、母娘は山形市七日町へ集団疎開したのだ。同年三月十日、東京大空襲。「人が死ぬのに/空は あんなに美してもよかったのだろうか/燃えてゐた 雲までが 炎あげて」(「Ⅸ 空襲」)。翌年、父死去。幼い詩人は日記に、燃える四谷を「壮観」と記す。
そろそろ、詩人が半生をすごした新宿百人町に足をのばすべきだろう。吉原幸子旧邸はいまもその一廓にある。百人町から、新川和江と企画編集した女性による女性のための会員詩誌『ラ・メール』が出発し、若い女性詩人たちを輩出した「ラ・メール新人賞」の選考やイベントがおこなわれた。一九八〇年代から九〇年代にかけ、大量消費社会日本の時流にのせ、女性詩を一躍隆盛させた功績は多大といえる。しかし関東最大のエスニックタウンへと変貌した現在の百人町をあるいても、吉原幸子を感じさせるものはあまりない。
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だから……四谷の老舗ジャズ喫茶「いーぐる」に寄り道しよう。
新宿通りに面した雑居ビルの地下一階。階段壁は正面にソニー・クラークの名盤「ストローリン」が掲げられ、マイルス・デイヴィス、ハービー・ハンコックといった名プレイヤーのポスターにおおわれている。店のドアをスイングすると、ベニー・グッドマンのクラリネットが大音響で聴こえた。店内の左壁面には年季のいった巨大スピーカーと真空管アンプが嵌めてある。ガラス張りのレコードルームには、ジャズを中心にLPレコードがぎっしりつまった棚とターンテーブルが二台。店内は、ジャズ以外、完全なる沈黙。夕方六時まで会話禁止なのだった。客は瞑目し一心に聴きいっている。傍のブックエンドには、「いーぐる」のマスターであり、ジャズ&オーディオ評論家の後藤雅洋氏の著書がならんでいた。吉原幸子は演劇のみならずジャズもよく聴いた。日本で最初にジャズバンドをバックに詩の朗読をはじめたのは、吉原幸子だったという説もある。彼女のパフォーマー/演出家としての才気が詩とジャズをおなじ譜面に載せたのだ。以来、西脇順三郎、田村隆一、三好豊一郎、石原吉郎も参加した高崎の喫茶「あすなろ」での伝説的なポエトリー・リーディングや、白石かずこ、吉増剛造、諏訪優、梅津和時(as)といった当時の若手詩人とジャズマンらがセッションした画期的な「詩の朗読とジャズ」など、文学界では異端視されていた朗読の地平をジャイアント・ステップさせた。ぼくにもLPリクエストがまわってくる。ウィスキー党の詩人吉原幸子を偲んでセロニアス・モンクの名盤「ストレイト・ノーチェイサー」をたのんだ。ぼくもストレイトのメーカーズマークをノーチェイサーで呑みつづける。吉原さんと呑むと、「グラスが空いてるわね」と、こちらがビールや日本酒を呑んでいても、すぐさまウィスキーを注いでしまったらしい。革ジャン姿でバイクに跨り新宿の夜を疾駆した詩人はよい耳をおもちだった。言葉のブルーノートを奏でる耳を。ぼくは、コートのポケットからくしゃくしゃになった一片の詩をとりだし、つぶやくように黙読したあと、ライターで火を着ける。
日没
雲が沈む
そばにゐてほしい
鳥が燃える
そばにゐてほしい
海が逃げる
そばにゐてほしい
もうぢき
何もかもがひとつになる
指がなぞる
匂はない時間のなかで
死がふるへる
蟻が眠る
そばにゐてほしい
風がつまづく
そばにゐてほしい
もうぢき
夢が終わる
何もかもが
黙る