詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
冬の京都にきていた。二十年ちかくかよっている木屋町の旅籠屋に、一週間ほど滞在し、ただ、呑みあるく、だけのヴァカンス。ペンも原稿用紙も遠く置き去りにして。底冷えのする古都の夜更け。軒に茶屋灯篭のならぶ先斗町の小径に、空の消印のような雪の華がとどいた。そのうちの一軒の暖簾をくぐる。
着物姿の若女将から、晩菜鉢の鯛かぶらをとりわけてもらい、熱燗。懐中から、古びた岩波文庫。酒が温るあいだ、那珂太郎編『中原中也詩集』をひらく。格子戸のむこうから、からあん、からあん、舞妓さんたちの西摺の下駄音が、凍夜の石畳に響いて、溶けた。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
(「汚れつちまつた悲しみに…」冒頭)
お銚子五本呑んだ酔眼で、活字の歌を聴いていると、ひさしぶりに、中也さんの詩に逢いたくなった。
翌々日、ぼくと合流した自称エドガー・アラン・ポーの眷属、黒猫嬢は下加茂にきていた。「市内中筋道今出川下ル」。大正一四年二月(一九二五年)、政岡忠三郎に宛てた転居挨拶とおなじ場所に、中原中也と長谷川泰子が同棲した家がいまもある。
すこし、おさらいしよう。山口中学を落第した中也は、故郷から遁走するように京都の立命館中学校に転入学。地主の実家と軍医の父から十二分な仕送りをうけながら、中也は学校にゆかず、作家や詩人をめざす年上の不良学生や劇団員たちと酒を呑み放蕩していた。ほどなく、劇団表現座の女優の卵、長谷川泰子と出逢う。中也が一六歳、泰子が一九歳。が、劇団は解散。勘当同然で故郷広島をとびだし、行き場のなかった泰子に、中也が手をさしのべた。
出町と云う町に、北野天満宮の方から越しました。水道もなく、濁った古井戸のある二階を間借しました。二間あって、片方を勉強部屋にしていました。〔中略〕中原はその頃、おかっぱにして黒髪をフサフサとたらしていて、肩にギャザのある、なかなかいい布地で作ったマントを着、散歩に出てました。〔中略〕よく喧嘩もやったけど、詩を書くとすぐ見せて、どうだと、私も涙脆いので、すぐ涙をポロポロ出して読んだものです。富永さんは毎日来ていましたが、中原と私にとって、一番静かな生活を味わった時でした。
(長谷川泰子「思い出すこと」より)
ここは京都御所の東側にあたり、今出川通りからも寺町通りからも一本路地裏の静かな住宅街である。中原中也と長谷川泰子が暮らした当時の下宿は、木造二階建ての町家だったが、いまはベージュの塗装壁。けだし、建物の構造は旧町家造のままとみうけられた。
ふたりの下宿先のある南北の通りの奥には、本禅寺の山門があった。太閤豊臣秀吉の指図で寺院がまとめおかれた寺町にはお寺がおおい。学究的で閑静な環境をもとめて学生寮や下宿が蝟った。
「あの二階に、中原中也と長谷川泰子は暮らしていたんですね」と、黒猫。ぼくらは、黙祷するように、ふたりの住居跡をみあげていた。
「祇園や河原町へも歩けるね。中也は作家の大岡昇平が『お釜帽子』とよんだボーラーハットを長髪にかぶり、黒マントを着てカフエーにかよったんだ。不良少年中也が憧れた『ダダイスト新吉』の詩人、高橋新吉の近影写真のいでたちでね」
「泰子は『一番静かな生活を味わった時』と回想してますね」
「泰子は電球もかえられない家事オンチだったそうだから、井戸水は中也が汲んだのかしらん。その静穏は六歳年長の詩友富永太郎の来京によって霧散する。ふたりが京都で同棲したのは一年たらずだったけど、七月から十一月にかけて、富永は中原宅の至近に滞在しながら、中也とフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーや日本文学の未来について激論し、喧嘩するみたいに酒を呑んだ」
「中也は泰子と同棲したのか、富永太郎と同棲したのか、わかりませんね。翌年、東京に転地した中也と泰子は、富永の紹介で批評家小林秀雄と運命的に出逢い、泰子は小林のもとへはしる、と」
「まあ、中也伝説はもうお腹いっぱいかな。それより、もっと虚心に、中也さんの詩と京の地の語らいに耳を澄ませたいなあ」
ぼくらは河原町今出川の交差点まででた。長谷川泰子の回想録『ゆきてかへらぬ』を繙きふたりの散歩コースをたどってみることにする。北に下鴨神社、東はすぐ加茂大橋があって、鴨川、銀閣寺のある東山がみえる。南は祇園、先斗町、河原町などの商地や花街。
石壁や煉瓦造の洋館ものこる出町商店街もちかい。揚げ物、おかず屋さんも豊富だから、料理ができなくてもこまらなさそう。文具紙屋や古書店が四軒もある。出町座なんて趣きあるクラシック映画館が、木と珈琲の薫るブックカフェにもなっていて。中也のころの学生街の、自由な気風と人情が、変わらずのこっている気がした。
交差点の南西の角、加茂大橋の入口に青龍妙音弁財天の石門がある。ご本尊の如意輪観音に参じて合掌し、苔のうえに注連縄が巻かれた楠の樹のしたで休ませてもらう。冷たい風にのって、おおきなトンビが四、五羽も翔け、自慢の横笛を奏でた。橋をわたりながら東山の低い山並、流れに浮かぶ真鴨や鷭をながめ、鴨川に降りて遊歩道ををあるく。音は、街上の騒音から水流の竪琴につつまれた。
ゆきてかへらぬ
―京都にて−
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは日々赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく。歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* *
*
林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。
「ゆきてかへらぬ。越境者を想わせるよね。木橋は、往時の加茂大橋かな。街と川の境、現実と夢、この世とあの世、それと、中也の現在と記憶、京都と山口が、この世の果て、つまり鴨川の橋をトポスに重層化されていく。散文詩だけど、ワンフレーズ十二から十三音の音のつらなりをくりかえす韻文になっている」
「青龍の社は彼岸への入口でしたか。煙草のくだりは、微笑ましいですねえ。汚れちまっていない中也少年」と、黒猫。
「初々しいんだな、中也の詩にしては。でも、ふたりは、時も人も消えた街で、縁者もいず、言葉も解さない母国のなかの異邦人。この孤独で自由な心境が、中也と泰子の静かで不可解な生活なんだね」
「甘露な空気さえあればいい青春。家族も物欲も名誉欲も、目的も意味もいらない。ふたりはそんなものたちから逃げてきたのです」
「中也、小林、泰子の三角関係や、生前は詩集を上梓できず、ペンと酒に溺れ、愛児まで亡くしてしまった中原中也の伝記には興味あるよ。中也は詩を書くまえに詩人になった。でも、からっぽで透明な言葉の空を一心にみあげるのが、詩人の仕事だよ。詩本来の悲劇と希望を、中也の風信機は伝えてくれる。メロドラマではなく、その詩的通信にこそ、泰子さんは涙したんじゃないかな」
半刻ほどあるくと、黄昏の四条大橋がみえてきた。小憩することになり、河原町通りを下がったところにある、昭和九年(一九三四年)開業の喫茶店「フランソア」にはいった。欧州の旧市街にあるような石の館。店内は飾柱と漆喰壁の純横風でステンドグラスが鈍く輝き、ちいさな修道院か音楽堂を髣髴とさせる。
「京都の老舗珈琲店はクリームと砂糖をいれて飲む用に、香高く濃いドリップがおおいね。フランソアの先代のマスターはジャン・コクトーと懇意だった。コクトーは京都にくるとこちらの珈琲を喫したんだ。ぼくらがいま座っている二名席の壁には、長年、額装されたコクトー直筆の手紙が架けてあったんだよ」と、ぼく。
「いまはないですね…残念。フランソア、中也と康子にきてほしかったなあ。で、その後の長谷川泰子氏の人生は?」
「中也から小林にはしったあと、当時の泰子は経済的にも精神的にもパートナーにたよるほかない。その葛藤は周囲のすべてを汚らわしく感じる強迫性潔癖症になり、小林とも終わる。以後、そのくりかえしさ。演出家とのあいだに希わない子が生まれ、中也が茂樹と名づけて我が子のように可愛がった。昭和十二年(一九三七年)、戦争景気で富豪となった石炭商、中垣竹之助氏と結婚。翌年、中也は二十九歳で亡くなる。戦時中でも、泰子は田園調布の中垣邸からタクシーで千葉のゴルフコースにかよう日々。夫は仕事を理由に本宅に寄りつかない。泰子は潔癖症を再発、離婚。五十七歳でビル管理人の職をえた。泰子は自立して楽になったと語ったそうだよ」
「哀愁ハンパないけど…いますよね、そういうひと」と若い黒猫。
「泰子には一本だけ主演作品があったんだ。『眠れ蜜』という作品。監督は岩佐寿弥氏。七十歳代の泰子が黒服の老婆に扮し、じぶんへの愛をたしかめようと、小林秀雄をいかに精神的に翻弄しおいつめていったかを、一滴一滴、水をしたたらせるように静かで印象的な演技でモノローグするんだ。戦後、小林秀雄、大岡昇平、河上徹太郎らが頭角をあらわし、流行作家になることで、詩人中原中也の名も知られだした。七〇年代前半には泰子もさかんに回想を執筆。男をふりまわす悪女というのが、メディアが定着させた長谷川泰子像だね。でも、ぼくは、泰子さんが積極的に毒婦を演技した気もするんだ。『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーヴや『素敵な悪女』のブリジッド・バルドーしかり、悪女こそ〝新しい女〟だったから。泰子さんの強烈な個性と自意識、時代を感知するアンテナがなければ、あの恋愛劇は非凡ではなかったろうね」
「泰子さん、ノリノリだったかも…中原中也の恋愛詩だって、愛の血も肉も消え失せるまでふりまわされて、白骨みたいにきれいな恋心なんじゃないでしょうか」