男の愛
町田康
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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
詩人の入澤康夫さんが他界された。
氏の追悼記事の依頼で訃報に接したぼくは、ご命日の一月前に出雲と鳥取を妻と旅したばかり。出雲大社に参詣した折は、やはり、日本現代詩の記念碑的長篇詩『わが出雲 わが鎮魂』の地を再訪するのだと、胸が高鳴った。古事記に物語られた日本神話の地、出雲。一九六八年に刊行された第五詩集『わが出雲 わが鎮魂』(思潮社)で、入澤康夫は生地松江のある出雲地方を題材に長大な詩を書く。けだし、その長篇詩は、異様な反望郷詩だった。
新宿から夜行バスに飛びのって、約十二時間。早朝八時に出雲大社(いずもおおやしろ)の門前町、神門通りで下車する。冷たい篠突雨が降ってはいたものの、朝の参道の空気は凛と澄んでいた。神門通りの奥にそびえる一ノ鳥居、宇迦橋ノ大鳥居から、勢溜(せいだまり)、松ノ参道、出雲大社本殿までは一直線につながっているが、おもしろい構造になっている。
勢溜ノ大鳥居から参道入口の三ノ鳥居、本殿までは、ずっと石敷道の降りスロープになっている。勢溜ノ大鳥居のまえで一礼し石畳の参道を降りてゆく。それから、だいぶあるいたが、本殿はみえない。ここまでの道のりでさえ、森の奥深くへはいった感覚になる。
すると、白玉砂利の両脇に清々しい松が列ぶ松ノ参道がみえた。石のモノトーンの世界に、そこだけ青々と射した松葉の整列が美しく眼に映える。こころが雪がれる気分だ。松ノ参道を、窪地の底にそびえる本殿めざして歩けば、八百万の神々の集まる凹面鏡の奥底へ旅する感覚に陥る。本殿前、一番の低みにある銅ノ鳥居から、後方の勢溜ノ大鳥居をふり仰ぐと──石畳の参道の頂に建つ大鳥居を視界上限に、過ぎてきた街並も喧噪も消え失せ、空が鋭く光を放った。大鳥居は空の青に浮かんでみえる。視覚的トリック──と書けば罰当になる──が、神々の来し方を眩暈させた。
延享元年(一七七四年)造営、大国主大神を奉る大社造りの巨大木造本殿を参拝。出雲の作法にのっとり、参拝は二拝四拍手一拝で。つづいて、十九社、素鵞社、大社造りと切妻造りの折衷様式の拝殿へ。出雲大社のキーヴィジュアル、拝殿の巨大注連縄は、長さ六・五メートル、重さ一トンもある。出雲大社はすべてが巨大で荘厳だ。
すると、お隣から、「出雲大社は遷宮しないんですか?」と、観光客。「伊勢大社のようにはしませんね。お伊勢さんは二十年ごとに神殿をお毀しになって、敷地もお移りになって、一から神殿をお建てなさるでしょう。それから、ご神体をお遷しになる。常若の思想ちうやつですね。出雲大社は太古からのものを木釘一本おろそかにせず大切につかいます。そうやって、命を接ぎ木し、継承してきたんですね」と、地元民のボランティアガイドさん。そういえば、以前、青森で、地元の檜葉と翌檜の木が大社造営につかわれると聴いたことがあった。ヒバもアスナロも、枯死はしても腐らない木材だから。不分明な記憶の泡沫がぷくぷくと意識の水面にのぼりかけてきて、ぼくは、やっと、出雲大社と入澤の長編詩『わが出雲 わが鎮魂』がむすびうる関係性に思い至ったのだった。
やつめさす
出雲
よせあつめ 縫い合わされた国
出雲
つくられた神がたり
出雲
借りものの まがいものの
出雲よ
さみなしにあわれ
(『わが出雲 わが鎮魂』冒頭)
古事記中の須佐之男命と櫛名田比売の婚姻を言祝ぐ「八雲立つ」の歌謡に偽ているが、『わが出雲 わが鎮魂』はのっけから面妖な調べを運ぶ。記紀神話の地「出雲」は、「よせあつめ 縫い合わされた国」であり、「つくられた神がたり」だというのだ。
『わが出雲 わが鎮魂』は、そのページレイアウトによって読者の眼をひく。詩集の頁をひらけば、右に引いた通常の詩行の直下に、詩の本文を上回る膨大な自己注釈が纏綿と綴られているのだ。入澤の自註によると、詩本文が「わが出雲」であり、その下の自註が「わが鎮魂」というパートになっている。そうして詩集の頁をめくってゆくと、詩作品「わが出雲」が本文なのか、中性的な解説を装う自註「わが鎮魂」が本文なのか、判然としなくなる。地の文と注記、詩と散文の権力関係が入れ子構造のようにたえず置換されてゆくのだ。やがて、読者の暗中模索には、偽の詩とその詩への偽の自註が相照らすという、不可思議な光が射しはじめよう。本来なら、難解な詩を容易な理解へとみちびくはずの自己言及的な注解が、詩本文の解釈をより迷宮化することに貢献し、狂った万華鏡のように詩の意味を過剰に乱反射させ、実像を撓ませてしまうのだった。
さらに、『わが出雲 わが鎮魂』は古事記の原書といわれる古代文字で伝承されたホツマツタヱから日本書紀などの記紀神話、賀茂真淵と本居宣長が論争した古事記偽書説まで咥えこみながら、中原中也、三好達治、宮澤賢治などの詩を引用もしくは戯歌(擬態)化し、さはてはダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』やT・S・エリオットの長篇詩『荒地』、モーリス・ブランショ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスといった西欧詩も引きながら、『わが出雲 わが鎮魂』へと織りこんでゆく。日本詩の永い時間を遡りつつその遺伝子を西欧詩とも交差配列しリミックスしながら。出雲の分身、『わが出雲 わが鎮魂』を「よせあつめ 縫い合わされた国」としながら。その怪物的な言葉の接ぎ木が、原木の所在を行方不明にしながら。入澤にとっての郷土出雲地方が、日本と天皇制にとっての神話が、詩にとっての言葉という産土が、すべて引用の紛い物であり、偽の起源だというように…魂と肉体、言葉の故郷の「鎮魂」からはほど遠く。
参拝をすませたら、勢溜から西へ稲佐の浜をめざしてあるきだそう。京町屋のような、間口はせまく奥に深い造りの古民家が軒を連ねる小径は、神迎の道、とも呼ばれている。ぼくらが出雲をおとずれた旧暦の十月。出雲地方では「神無月」ではなく「神在月」と呼ぶ月は、全国の神々が稲佐の浜から上陸して、この神迎の道を東へおし通り、出雲大社本殿に集うという。旧暦十月十一日から十七日にかけて荘厳な神迎神事や神在祭が執り行われる小径ではあるが…昭和レトロな煙草屋にはサボテンやアロエの鉢がならび、ドラ猫がいかにものんびりお尻を舐めている。この生活臭と哀愁ただよう道が、神迎の道だというのが…なんとも、好もしい。
夜
入澤 康夫
彼女の住所は 四十番の一だった
所で僕は四十番の二へ出かけていったのだ
四十番の二には 片輪の猿がすんでいた
チューヴから押し出された絵具 そのままに
まっ黒に光る七つの河にそつて
僕は歩いた 星が降って
星が降って 足許で はじけた
所で僕がかかえていたのは
新聞紙につつんだ干物のにしんだった
干物のにしんだつた にしんだった
言葉は平易ながら、意味の空白部分も多く、入澤らしい不可解でヘンテコな恋愛詩、否、擬似物語詩。でも意味の欠如には不思議な魅力もあって、アレヤコレヤ想像をめぐらせてしまう。「彼女」のもとへ向かった少年が、なぜ、唐突に隣家の「片輪の猿」をおとずれるのか。そもそも、この猿はなんなのか。詩をしめくくる「新聞紙につつんだ干物のにしん」のリフレインに、いったい詩人はどんな詩情をこめたのか。
そういえば、詩人入澤康夫は、「詩は表現ではない」とさえ語った。それは、かつて、フランスの象徴派詩人ステファンヌ・マラルメが語った「詩は感受性が書くのではない…言葉が書くのだ」という詩的思想と響きあう。詩は、あるいは抒情詩は、一般に信じられているように、詩人の魂の告白や感情の吐露ではない。では、詩は、なにを書こうとするのか。入澤によれば、詩は「言葉関係」を主題とする。つまり、世界と人間の関係性そのものである言葉という存在、もしくは、言語行為そのものを考究する芸術なのだと。さすれば、『わが出雲 わが鎮魂』という書物が、悠久の時の流れのなかで、日本と日本人が連綿と織りあげてきた日本神話という「言葉関係」と対峙することを意図した書物でもあることも瞥見できよう。
入澤は出雲を「さみなしにあわれ」とうたった。折口信夫によれば、それは日本の「うつほ」(空穂)だけが滴らせうる情緒。出雲大社や式年遷宮が体現する、瑞穂=日本の中心を占める充実した空虚であり、その矛盾に引き裂かれた位相時空に存在する日本語のふるさとでもある。たしかに、入澤の詩的巡礼は、たどり着くことのない故郷の流す涙、その死出の河に首まで浸かっていよう。しかし、日本語の真柱をさぐりあてようとする痛切な足どりは、知らずうち、未知の故郷へ到来するための豊穣な無限彷徨に変貌している。ダンテの「天国篇」がそうだったように。一見、悲劇的にさみなしにあわれなさまよいが、いつしか新しい言葉の産土を開闢してゆく。
ややもすると、立派な庄屋造の二階家がみえて、「出雲そば 荒木屋」と、看板。ここで早めの昼餉をとろう。荒木屋さんは日本で最古の出雲そばやだとか。酒は、地元旭日酒造の「おろち」がある。古事記では須佐之男命が八岐大蛇を退治するのに、「強い酒」を呑ませて次々首を刎ねていったから、お燗で。お、酒のアテに「イカの麹漬け」を発見。日本海で獲れた新鮮なするめ烏賊と、甘辛醤油の麹がおたがいの旨味をひきたてる。麹のざらざらした食感が、なんとも珍味だ。濃い口の純米酒と口中であいまり出雲の風味を感じさせる。ぬる燗、おかわり。蕎麦は三段重ねの「割子そば」。地元の玄蕎麦を石臼でていねいに挽くそばは細麺だがコシがつよい。ざらりとした舌触りと独特の風味があって、水で麺を雪がないのも、蕎麦元来の香味を損なわないためだ。自家の井戸水をつかい潤目鰯から出汁をとる蕎麦つゆは、かなり甘め。きっと江戸風の辛口つゆでは、出雲の蕎麦はここまで濃く芳醇に香らないのだ。思いたって、女将さんに、「このへんでは、干物のにしんを食べますか?」と尋ねる。「食べんねえ。雲南のほうかもしれんね」という。出雲や松江を来訪するたび、「新聞紙につつんだ干物のにしん」のことが妙に気になり、尋ねているのだが。にしても、出雲の人たちは、この砂っぽくざらりとした食感が、お好きなのかしらん。
ほろ酔い気分で引戸を開けると、外は暮れがての空。ふたたび神迎の道を西方へ。妻と夕占(ゆうけ)をして歩く。舞い落ちてきた声は、「水曜日」、「自転車」という言の葉。潮風が吹きこむ坂を降りきると、橘色に発光する日本海。国譲譚の舞台となった、稲佐の浜にでた。砂が生む虹橋をわたってゆくと、青闇の底に岩塊がみえた。高さ一階半ほどの、潮と風に砥がれて険しい表情になった岩の頂には、ちいさな鳥居とお社が建立してある。これが、神迎神事をする弁天島。写真から想像するより、拍子抜けてしまうほど、小体だなあ。でも、仰々しくなくて、静かに凪いだ可愛らしい湾にぴったり。紫色から葵色へ刻々と暮れ染まる西の空と日本海。神々がきたる遥かな時空の光を、ぼくと妻は、いつまでも、瞳の底に溜めていた。
不意に、あの、入澤康夫だけが奏でた、悲喜劇交々のヒューモアと無人の笑いの詩のしらべがよみがえった。主体の死だのリミックスだの、いまやちっとも新しくないポストモダンな表殻を喰い破り、「干物のにしん」が、奥出雲の鄙語のリズムが黄泉から帰ってくる。
そろそろ、星の降りだした神迎の道をとってかえすとしよう。それから、四十番の一の住居前を通り過ぎてみようか。
四十番の二には、異形の神、片端の猿が在られるやもしれない。