吉岡実のうまやはし──八月のある夕べがえらばれる

吉岡実のうまやはし──八月のある夕べがえらばれる

詩への旅

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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。

吉岡実のうまやはし──八月のある夕べがえらばれる

石田瑞穂

詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。


 夏の浅草へ。浅草寺に詣でて雷門から駒形橋、東京湾の潮風に吹かれながら隅田川遊歩道をのんびりと散策する。コンクリートの岸壁に沿って、新型コロナ禍以降、出番のすくなくなった屋形船たちが小波にまどろむ。
 江戸東京の観光シンボル雷門と五重塔、僅かな空を圧するように聳えたつ全長六三四メートルの東京スカイツリー、風情ある駒形どぜう本店のおとなりはバンダイ本社ビルのアニメキャラたち、幾重の橋をくぐり屋形船が散らす水鏡は黄金の雲型オブジェを冠するアサヒビールのポストモダン社屋…。二一世紀の厩橋から望むのは北斎の富士山ではなく、映画『ブレードランナー』のサイバーパンクな都市。下町情緒とクールジャポニズムが雄渾する浅草は、まさに〈引用〉のモザイクといえよう。




 現在の駒形橋から浅草橋にかけて、江戸のころより大川(いまの隅田川)水府の景観は有名だった。
 たゆたう大川と浅草田圃がひろがり、御蔵前のなまこ壁の蔵や商家がたちならんで水鏡に映りこむ。隅田川を品川へとのぼる舟からは、白い駒形堂(こまんどう)が水上を駆ける神馬にもみえる…美しき水景は大正から戦前まではかわらず、東京下町育ちの時代小説家池波正太郎は浅草界隈の水府を古都ヴェニスに喩えている。
 吉岡実は、大正八年(一九一九)、隅田川東縁の本所業平で生まれた。
おそらくドブ板のある路地の長屋であったろう。近くに大きな製氷工場があったときく。そこで関東大震災に遭遇した。火の海のなかで燃える氷の山。〔中略〕それから本所駒形で少年時代をすごした。塀のある二軒長屋。小さな庭で、母は小さな植木を丹精していた。
(『うまやはし日記』より)
 父は芥川龍之介が通学した江東尋常高等小学校から近い明徳尋常小学校の用務員。母、姉、兄の五人家族。家には一冊の本もない家庭だったが、「末子として両親に可愛がられ、浅草の宮戸座やオペラ館などに幼い頃から連れて行かれた」。
 昭和七年(一九三二)、関東大震災で住処を失った吉岡家は、東駒形の二軒長屋から隅田川対岸の厩橋の四軒長屋へと転居していた。長屋の階上に住む青年書家の佐藤樹光になついた十三歳の実少年は、佐藤春夫やゴーリキを読みかせてもらい、じぶんも「白秋の『桐の花』を模倣した短歌」をつくるようになる。
 将来の夢は画家か彫刻家になることだったが、昭和十六年(一九四一)に二十二歳で徴兵、満州へ。「遺書として」第一詩集『液体』をまとめた。昭和二十年(一九四五)、二十五歳のときに韓国済州島で終戦。戦禍で父母を亡くし、東京大空襲で「生まれ故郷本所という土地を失った」。

 厩橋をわたると墨田区。交通量のおおい本所一丁目交差点にでる。いまはガラスと鋼鉄のビジネスビル、タワーマンションに囲繞されているが、戦前は二軒長屋より手狭な四軒長屋も密集し、その名残はぼくが『うまやはし日記』を片手に散策した一九九〇年代末まであった。
 自転車一台がやっと通行できる小暗い路地にぎっしりと長屋の戸口が面し、風鈴や屋号を染めぬいた麻暖簾が涼しげにゆれる、開け放たれた引戸の奥からは野球中継や包丁の音が漏れ聴こえてきた。そのちいさな小径にみちるさまざまな音が、ぼくには下町の音楽に聴こえたものだ。モルタルの家もあったが、木造長屋もまだあった。借り物文化の長屋暮らしは醤油、味噌はおろか猫も共有財産のようで、野良か飼猫かわからない太い猫がうっそり顔をだし、路上にはみでて列ぶ朝顔、アロエ、カンナの鉢の林を器用に縫って蒸発した。
 東京生まれではないぼくには、下町の迷路は異界とも映る。そんな瞬間に、長屋路地のアウラのごとく、吉岡実『魚藍』の青春期の短歌がたちのぼるのだった。
 手紙かく少女の睫毛ふるふ夜
     壁に金魚の影しづかなり






 いまやその面影もアウラも立ち消えた、かつての長屋路地では、昭和初期建造とおもわれる最後の二軒長屋と木の路地塀が取壊されていた。ぼくは解体現場をとおりすぎつつ『うまやはし日記』の頁に瞳と耳を澄ませて行った。「昭和二十三年」の日記には、
二月二十九日 姉に弁当を貰って芝の行本晋介のところへゆき、一緒に浅草に出る。ロック座で全裸に近いメリー松原をみて驚嘆。おおバタフライ。シュークリームとココア。弁当分けて食う。

五月一日 博道と四ツ木の才一の家へ行く。彼の父はがんこな人だった。臨終の床で、才一に枕元にいないで仕事をしてろと云ったという。何か心うたれる。彼は新しい恋人が出来、悩んでいる。三人で浅草へ出る。軍隊時代を思い出す。新京へ外出の時、よく三人で遊んだり、満人料理を食ったり。たまには甘いもの屋の三吉野で食い逃げしたものだ。アンジェラスでコーヒー。
 浅草のモダン文化を象徴するものといえば珈琲店、バー、洋食屋だろう。酒を嗜まなかった吉岡実の日誌には旺盛な読書の傍らで珈琲店と飲食店への言及がおおい。
 ことに昭和二十一年に開店した、浅草屈指の老舗喫茶店〈アンヂェラス〉(この店名が正しい表記)には、生まれも育ちも浅草の北村太郎ほか文学的不良青年だった鮎川信夫、中桐雅夫、田村隆一らが戦後詩エオ代表する詩誌『荒地』の前身誌『LUNA』、『LE BAL』、『詩集』の会合をひらき、浅草文士の阿佐田哲也や半村良、漫画家の手塚治虫が通った店であることを読み知ってから、ぼくも浅草にくるとかならず寄った。
 黒光りする重厚な梁とヨーロッパ山部の教会を想わせる素朴な木彫の店内。アンヂェラス名物、ケーキのように甘いホイップクリームをのせたウィンナコーヒーや梅酒をくわえるアイスダッチコーヒーなど、どれも庶民的だが粋な工夫を凝らす、浅草文化の洒落た香がした。
 そのアンヂェラスも、二〇一九年三月、新型コロナ禍第一波のあおりをうけ、惜しまれつつ閉店。おなじく、翌年の六月には、吉岡実が愛した神田神保町の老舗餃子店〈スヰートポーヅ〉も閉店してしまった。
 二十歳代のぼくが吉岡実の日記文学を愛読し、浅草や本所を歩いたのも、この日録のどの行からも、詩人たちが弄しがちな忌まわしき観念がきれいに雪がれているからだろう。ぼくは、じぶんの祖父と同年齢の詩人の、即物的な日誌に「何か心うたれる」ものをかんじていた。



 吉岡実は双果の言葉をもつ詩人だ。彼岸には鄙俗な事物やエロティシズム、古今の文学やアートからの引喩が渾融するポストモダン形而上学詩『薬玉』。此岸には『うまやはし日記』のような燻銀の日記文学。吉岡実の遺した短歌や散文作品は、詩人生来の気質を反映する堅実な作風だった。しかし、吉岡実の言葉は、詩において飛翔する。
   聖家族

   美しい氷を刻み
   八月のある夕べがえらばれる
   由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく
   微笑する母親
   母親の典雅な肌と寝間着の幕間で
   一人の老いた男を絞めころす
   噛み合う黄色い歯の馬の放尿の終わり
   母親の心をひき裂く稲妻の下で
   むらがるぼうふらの水府より
   よみがえる老いた男
   うしろむきの夫
   大食の父親
   初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ
   庭のくろいひまわりの実の粒のなかに
   肉体の処女の痛みを注ぐ
   すべての家財と太陽が一つの夜をうらぎる日
   母親は海のそこで姦通し
   若い男のたこの頭を挟みにゆく
   しきりと股間に汗をながし
   父親は聖なる金冠歯の口をあけ
   砕けた氷山の突端をかじる
 この詩を収録した吉岡実の代表詩集『僧侶』は、詩人の少年時代と本所厩橋の記憶を匂濃く燻らせる一冊だ。「むらがるぼうふらの水府」、蚊が飛び交うドブ板長屋の盛夏の下町慕情は、詩人にとって原初的な風景であり時間だったのだろう。
 『うまやはし日記』とちがい、そこに暮らす「聖家族」のオイディプスコンプレックスは超現実的に、猥雑かつ滑稽に描写される。元来、〈聖家族〉はキリスト教芸術のモティーフだ。しかし、その聖なる言葉の身体は「母親の典雅な肌と寝間着の幕間で」という、じつに吉岡実らしい下町的エロティシズムとしての年増女の肌蹴た浴衣姿や、「初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ」といった童話「赤ずきん」のパスティーシュなどの〈引用〉によりブリコラージュされ、ロックでいえばリミックスされてしまう。このジョルジュ・バタイユ風詩的フランケンシュタインからは、個人の魂の叫びや内面の屈折は聴こえてこない。
 では、この詩をどう読めばいいのか。ぼくならこの詩を、青年吉岡実を一時期魅了したエリート文学者森鷗外、その家系文学のパロディ作とも読むだろう。
 この詩は「由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく」存在する「聖家族」のちいさな神話を詩う、という。東駒形、蔵前、本所の迷路のごとき水府を彷徨えば、いくつものちいさな社にでくわす。東石清水宮をはじめ水神を奉る墨田の土地神たちだ。ともあれ、神々の系譜をなぜこの一家が断つのかは、理由も意味も宙に浮いたまま。というより、散文で解説可能な意味が内包されていない。最終行の「父親」が「砕けた氷山の突端をかじる」あとは空白がたち顕れるだけだ。
 それでも、「聖家族」の特異な関係体を、視線はおもわずおってしまう。一幅のイコン画を愛でるように。
 この詩には人生劇もなければ深甚なメッセージもない。が、名もなき家系神話を到来さす詩的言語がパフォーマティブに機能する、その力と法則がなぜか読者を魅了し、詩的エニグマ(謎)のリアリティーで圧倒するのだ。
 モダニズムの形式主義を突破した吉岡詩には、いわば表面の効果しかない。而して表面に隠されているのは、ちいさな神話の微分的メカニズムであり、記号的思考の繊細なメカニズムである。神話の構造は無意識であり、社会の法的、政治的、宗教的、イデオロギー的関係に受肉して覆い隠される。フロイトはオイディプスコンプレックス、もしくは無意識をリビドーの力の葛藤や欲望の対立という仕方で認識したが、その視座は私的感情を源泉に湧水する抒情詩と似通うものだろう。
 たいして、吉岡実はポエジーを、私から発露せず、言語の欲望の水準、連合するイメージの水準として直覚してくる。いうなれば、乾いた、微分的無意識として。
 〈他者の言葉〉と〈引用〉によって微分され、織りなおされる典雅な詩の万華鏡…後期吉岡詩のミューズ、文化人類学者レヴィ=ストロースはこう述べた。無意識は欲望でも表象でもない。無意識は「いつでも空白」であり、無意識が欲望と表象に課す構造法則から成る、と。 詩篇の第一行「美しい氷を刻み」−そのイメージは、東京大空襲の最中で燃えあがる氷の火山にほかあるまい−は、吉岡実が夢見た彫刻家の手仕事であり、詩人は詩を書くより、日本語をマチエールに詩を彫琢することを宣言する。熱いエモーションの吐露ではなく、言葉という素材を冷徹にあつかうブリコラール=職人の手仕事として。日本民藝派の陶工河井寛次郎が喝したように、職人は自力ではなく、他力によって物を造りだすのだ。
 エス(無意識)がいわんとすることではなく、いかにエスが作動し機能しているかを詩が問うこと。超現実主義の意識/無意識の物語すらこえ、手指に宿る盲た欲望になりきり、燃えあがる母語を詩へと象ること……。
 吉岡実の詩とは、文字の無意識が詩う讃歌である。



 さて、吉岡実の詩を歩くぼくのエスも、そろそろ渇きを告げてきた。いつものように〈駒形どぜう本店〉の戸口をくぐってしまう。
 享和元年(一八〇一)開店、創業二百年余りのどじょうと鯨料理を供する老舗だ。本稿でもすでに何度もでてきた「駒形」という地名だが、駒形橋ができるまでは「コマカタ」と地元浅草ではよばれてきた。だから、本来は、コマカタドゼウ、なのかもしれない。
 柳のそよぐ、出桁造りの二階建て日本家屋の玄関表には暖簾がかかり、ただ「どぜう」とだけ、紺地に白字で染め抜かれている。どぜうをどじょうと読ませる表記は、江戸の昔も異例で、現在の埼玉県から浅草にでてどじょう飯屋をかまえた初代店主助七の発案だとか。
 駒形どぜう本店は、詩人たちにも愛されてきた。その筆頭が西脇順三郎だろう。昭和四十四年(一九六九)、筑摩書房専務だった吉岡実は、畏敬する西脇順三郎の長篇詩集『壌歌』を企画刊行した。土人祭を歌う二千行におよぶ長篇詩のなかには「キタベタの人たちが食うドゼウの/みそしる」、それは「生物の細胞の中に初めから先天的に/含まれた永遠の意識」という詩行もある。西脇と吉岡は、この永遠にドゼウに刻まれた詩を祝って、駒形どぜう本店をおとずれたやもしれない。
 昼さがりの、すこし空きはじめた、駒形どぜう本店の入込み桟敷に案内してもらう。簀をしいた床に、脚のない檜かなにかの厚い一枚板がわたされてい、客どうしはこの板をさしはさみ簀にぺたんと座して食事する。
 駒形どぜう独特の食卓は四代目助七が話題作りのために考案したのだとか。往時は、お給仕さんも秋田出身の女性、秋田美人のみ。これも話題作りのアイディア。
 これから夏を迎えるにあたり、鰻もいいが、どじょうも精がつく。そして、江戸風流な店の雰囲気もどじょうの奥深い味わいも酒徒にはたまらない。
 兎も角、着座し「鍋定食」と「ふり袖」のぬる燗をたのむ。定食は、どじょう鍋のほか、田楽、ご飯、どぜう汁‎がつく。どじょう鍋は、鍋といっても二、三センチの深さしかなく、鉄製の丸鍋にどじょうと出汁がはいり、それを備長炭の火鉢にのせて煮る。
 どじょう鍋にはマル、サキの二種類があるが、マルは、どじょうが丸身のままはいり、サキは身がひらいてある。座布団脇には、七味(江戸言葉では、なないろ、と読む)と山椒、おかわり自由の小口切り葱がたっぷりはいった薬味箱が据えてある。
 甘い白味噌と柚子風味の田楽をほおばり、ぬる燗で一杯やりつつ鍋が煮えるのをまつ。おっと、そのまえに、青葱をどじょうが隠れるまで、盛れるだけ盛ろう。‎
 葱がしんなりしてきたら、どじょうとともに箸で口にはこぶ。このとき、中皿ではなく小皿でちびちび食べるのが、いわゆる、江戸浅草のしみったれの美学なのだ。
 マル鍋は、無論、冬も旨いが、どじょうが一番美味しくなるのは梅雨から盛夏にかけて。とくに腹が乳白色の田捕れのどじょうは、それこそマルマル太り旨味と脂を蓄えている(現在は品質管理された養殖どじょう)。
 駒形どぜうの厳選されたどじょうは二日間清水で〝踊らせ〟てから、酒中にとじこめて泥を吐かせ、骨までやわらかくする。だから、まったく臭みはなく、口のなかでとろけるよう。ここまででお銚子が二本は空く。
 鍋を食べおえた時点で、お食事。ご飯と白味噌仕立てのどぜう汁をたのむ。あと、冷やの「たれ口」も一本。ここで身が消え出汁だけになった鍋に、やおら、のこりの葱を入れ盛る。葱がしんなりしてきたら、どじょうの栄養と旨味をたっぷりふくんだ出汁とよくまぜ、熱々の葱汁を白飯にかけて喰うのである。食が太い方は、おかわりもしよう。おかずは、どぜう汁の身で十分。なんと優雅な、しみったれの美学。
 とろりと照りかえるどぜう汁は濃厚で、味噌はこちらも老舗ちくま味噌の「江戸甘味噌」を使用。このどぜう汁、不思議なのは、いくら時がたっても味噌が椀底に沈まない。いつまでも、とろりと濃厚で、冷めても旨い。
 硝子窓を開け放った店内に風が吹きこみ、風鈴がちりんと雅やかに涼音をたてる。
 酔い空をみあげると、簾を飛影がかすめた。燕。そういえば、吉岡実の詩や短歌にもよく燕がでてきたが、芥川龍之介もコマカタは飛燕の地、と書いていたなあ。
 どぜう汁をすすり、葱飯を頬ばりながら、想う。
 八月のある夕べがえらばれる、という、単純明快ながらときあかせない謎を。

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