詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
東京駅を発つ。
それだけでも日常からの解放は始動する。
プラットフォームからみえるのは、辰野金吾と葛西萬司設計の煉瓦造りの東京駅舎と醜悪な威圧感で圧倒する新丸ビルなどのオフィス街。そして、詩人石垣りんが四十年も勤めた日本興業銀行ビルがある。つい、りんさんの「定年」という詩が頭をよぎった。
ある日
会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」
人間は黙っていた。
人間には人間のことばしかなかったから。
会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから。
(「定年」冒頭部分、詩集『略歴』より)
そんな東京をふりきって、ぼくは伊豆へ旅しようと、下田行き特急踊り子号がくるのをまっていた。ボストンバッグにウヰスキーのはいったスキットルと古い岩波文庫『石垣りん詩集』をつめて。伊豆はりんさんと彼女の詩のほんとうの「ふるさと」だから。
踊り子号は疾風のように東京駅から伊豆熱川駅へ。灰色の郊外をぬけると、車窓にも色彩があふれだす。
河川、原っぱ、田畑、そして沼津アルプスの山々。
スキットル片手に、そんな車窓の旅景色がくりかえされると、電車は速度をおとして山のトンネルをくねくね曲がり登ってゆく。濃緑のあいまから、一瞬、きらっと海が青く煌めいて闇に吸われる。伊豆がちかい。
ぼくは文庫をひらき、石垣りんの詩を読みはじめた。
シジミ
夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。
「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクツテヤル」
鬼ババの笑いを
私は笑った。
それから先は
うつすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかった。
昭和四十三年(一九六八)に刊行された第二詩集『表札など』に収められたこの詩篇を、教科書などで読まれた方はおおいとおもう。言葉は簡明ながら奥深い名詩。こうした詩を、現代の詩人は男も女も書かなくなった。編集者たちも載せなくなった。
石垣りんの詩は、等身大の詩語でだれもが共有する日常を詩うのだが、ではその日常をいったいひとはなぜ生きるのか、というリアルも密かに問いかける。りんさんの詩のモティーフはフェミニズムではなく、男も女もない「生きること」にある。とくに人間の生の根幹にある「食うこと」には独自のこだわりがあった。「台所」をはじめ、食事、食材、調理を題材にした詩をこれほど書いた詩人もめずらしい。寝る、寝具の喩もおおい。
石垣りんは大正九年(一九二〇)に父仁、母すみの長女として東京赤坂に誕生した。家業は代々の薪炭商。ところが関東大震災で実母すみは重傷をおい、四歳のりんを遺して逝ってしまう。再婚をくりかえす仁の家庭でそだったりんは赤坂高等小学校を卒業、十四歳で日本勧業銀行に事務見習いとして就職し、五十五歳まで勤めた。
りんは四人の母親をもった。母親とはいえない絆の浅い父の再婚相手もいた。太平洋戦争が勃発し、東京大空襲により赤坂の実家は全焼。板橋での長屋暮らしがはじまるが、戦後高度成長期のエネルギー転換により薪炭商は没落。商才どころか働く意欲も喪った父親と復員後もまともな職に就けない弟たち。養子にだされ離散した妹たちも戦禍で亡くなっていた。
でも、りんさんは、逃げださなかった。そんな一家を、家事のみならず経済的にもささえつづけた。
そうこうするうち踊り子号は伊豆熱川駅に到着。今回の詩への旅は、りんさんの実母すみさんの故郷、南伊豆町を訪ねることが目的だ。そこにはりんさんのお墓と「石垣りん文学記念室」がある。とはいえ南伊豆はさらに遠方なので、途中下車し、りんさんも湯治をしたという北川(ほっかわ)温泉で一泊しようとおもいたった。
宿につくなり、ぼくはさっそく浴衣に着がえ、堤防沿いの散策道を歩いて公共浴場〈黒根岩風呂〉へむかう。秋の潮風が肌にここちよい。五分ほど歩くと、波打ち際に、男湯と女湯の暖簾のかかる掘っ建て小屋がみえた。引退した漁師さんだろう、寡黙なおじいさんが番台に座っている。掘っ建て小屋の板塀のうしろで浴衣をぬぎ、露天の岩場にふみだした。
めのまえは広大な相模の海原。迫力ある波しぶきに恐々としながら、熱い温泉にそろそろと身を沈めてゆく。北川の湯は海とおなじ無色透明で、ほんのり塩からい。湯槽につかるぼくの視座からは、温泉の水面と相模の海面が青く煌めきながらひとつにつながり、溶けあった。
ああ、絶景。ああ、熱い湯が身も世もほぐし、生きてるっていいなあと溜息が漏れでる。手をのばせばコバルトの海も水平線もつかめてしまいそう。空と海の果てには伊豆大島のおおきなシルエットが、ぼくといっしょにぷかぷか浮かんで。無限にひろがる地球の青にくるまれて、ぼくは宇宙の巨きさを感じた。そのあたたかく巨きな青が、ぼくのちぢこまった心の襞をふたたびおしひろげ、雪(すす)いでくれるようだった。
なにより、たえまなくさんざめく潮騒が、耳の奥までマッサージして、湯につかった心身に染み透る。ときおり、裏山から伊豆の小鳥、アカコッコが翔け降りてきては、キョルルルッチーと愛嬌ある声で歌ってくれた。
ハイカーや温泉宿の男性客もはいってきた。ぼくは湯をゆずり、天然の岩礁に腰かける。海からの潮風が火照った体を気持ちよく冷ました。ぼくは石垣りん晩年の詩を思い出し、その言葉の実質にふれようとする。
墓
いつか裸になって
骨だけになって
あの家族風呂のようなところへ。
みんなが露天風呂はいいと言う
たしかに先祖代々
屋根のないところへ入っていった。
あたたかいに違いない。
(詩集『レモンとねずみ』より)
りんさんの詩と出逢い、伊豆にきたからこそ、このポエジーを実感できた。そして、ぼくはおもわずひとりごちる。この伊豆の湯も、りんさんのいう、海のふとんにちがいない、と。
翌朝、ぼくは伊豆熱川駅から伊豆急下田駅へ、南伊豆町へとむかった。車内で詩集『表札など』の初版をひらく。「海辺」という詩には、
ふるさとは
海を布団のように着ていた。
波打ち際から顔を出して
女と男が寝ていた。
〔中略〕
小高い山に登ると
海の裾は入江の外にひろがり
またその向こうにつづき
巨大な一枚のふとんが
人の暮しをおし包んでいるのが見えた。
駅につくと半刻ほどバスにのり、南伊豆最西端の子浦へ。海の裾縁と松林の岩崖をへめぐりながら小湊をいくつかすぎ、りんさんとすみさんの「ふるさと」、子浦のバス停にやっとたどりついた。
山風と潮風がぶつかる青藍の交差点でトンビが悠々と滑空している。その翼のしたには細やかな「入江」があり、船着場から山際にかけて漁村がみえた。すこし周辺を散策してみよう。小型漁船が二艘停まり、その周囲に二十戸ほどの民家がならんでいた。
だれもいない空地には屋内からもちだした椅子とテーブルが海にむかっておかれ、ゲートボール場の痕跡がある。そのまわりでハマボウフウの黄色い花が潮風にゆれ、野生化したアロエがうねって繁茂していた。ちかくの引戸がひらかれ、看板をもった小母さんがでてきた。食堂らしい。ちょうど昼餉時だったから、いいですか、と尋ねて小上がりにすわる。観光客はめったにこないので、定食かサザエの壺焼きしかない、と飾らない声で小母さんがいった。ぼくは、酒、イサキの味噌焼き定食、「今朝、海で突いたばかりの」サザエをもらう。
魚とサザエが焼けるにおいが漂いだすと、硝子戸のむこうで外待ちする猫がはげしくなきだした。
無銘の清酒で、イサキ定食。おおきくて肉厚の魚の脂がじゅわじゅわ爆ぜ、香ばしく焼けた味噌とじつによく相まう。山盛りの白飯も、炊きたての新米の香がふうわり鼻先をかすめて。噛めば瑞々しい甘みがじんわり口中にひろがる。酒を呑みながらも、香ばしい魚身を熱々の銀舎利のうえにのせ、かきこむ箸がとまらない。
十五分ほどして石焼サザエの登場。堂々と貝を巻くおおぶりのサザエはさすがに新鮮。貝肉はきれいな橘色をしている。こりっこりの歯応えがすばらしく、噛みしめるだに深い磯の香が鼻腔をみたす。海藻のつまったエメラルドグリーンのワタも蕩けるよう。これこそ母なる海の味、生命の根っこの味だ。もちろん、酒が加速する。
すみさんはこの紺碧の漁村で生まれ育ち、灰色の赤坂に嫁(か)したのであろう。海の「ふとんは静かに村の姿をつつみ」(「海辺」)と詩われたくらしから。
昼食をとったあと、ぼくはふたたびバスを乗り継ぎ、こんどは山側のきつい登坂路をこえてゆく。
石垣りん文学記念室は、山峡にいだかれた南伊豆町立図書館の一室に設えられていた。グリーンの屋根が山海の風景によく映えた、ちいさな白い洋館である。職員さん以外ほとんど人気のない、静穏な館内は、海の潮騒と裏山から聴こえる小鳥の歌声にみたされていた。
記念室には詩人の生原稿、生前刊行された四冊の初版詩集、ノート、スクラッチブック、色紙などがきちんと年代とテーマ別に整理され展示されていた。収集された展示品は六百五十点におよぶとか。「台所」や「表札」といった代表作品の直筆原稿もケースにおさめられていた。ルビなしの満寿屋謹製原稿用紙に、おおきく几帳面な楷書体できちきちと桝目をうめてある。石垣りんという詩人のまじめな人柄と声音がつたわる原稿だった。
東京から一日半かけてきたぼくは、初めてみるりんさんの遺稿のまえにたたなずみ、無言の対話をつづける。「村」と題された詩稿には、
伊豆の海辺に私の母はねむるが、
少女の日
村人の目を盗んで
母の墓を抱いた。
物心ついたとき
母はうごくことなくそこにいたから
母性というものが何であるか
おぼろげに感じとった。
という詩行が。ぼくは、子浦の海際にひっそりと建立された詩碑と、りんさん母子の眠るお墓を思い返す。詩人は実家の墓にはいらずに、幼いときに別れた母と永遠に眠ることをえらんだのだった。「海のながめ」の冒頭には、
海は青くない
青く見えるだけ。
私は真紅の海
海に見えないだけ。
という、石垣りんの詩の声音らしい、印象的なフレーズが細字の万年筆で書かれている。
りんさんの詩は散文的と論じられてきた。でも、ぼくの詩人の耳にはすこしちがって聴こえる。りんさんの詩語は、散文的記述というより、じつに即物的で、白骨を打ちあわせたような乾いた響きをたてているのだ。
なぜなら、その詩語の内奥には母の体温を永遠に知らない「少女」がいるから。つめたく硬い墓と、母を産みそだてたつめたい伊豆の海をいだくことで、もうここにはいない母のかすかな温もりを感じとろうとする少女が。身を切るようにひややかでいながら生命の根源をつつみこむ母なる海。言葉という、海のふとんをだきしめながら、母と母語への渇きをつのらせる幻の少女がいる。
記念室には、もうひとつ、印象的な展示があった。
それは、りんさんが生前愛用した紺色のベレー帽とウールコート。たいせつにつかわれ色褪せたベレとコートは、想像以上にちいさかった。平成生まれの女性の体格からすれば、それこそ少女のように小柄といっていい。そこには、詩人のみならず、戦前戦後を懸命に生きぬいたひとりの「女」、いや、「人間」のシルエットがあった。
こんなちいさな体から、りんさんの偉大な詩の言葉が生まれてきたのだとおもうと、ちょっぴり切ない気持ちになった。
りんさんは一個人の選択として、結婚も、母になることもえらばなかった。他人のかける表札を拒絶し、即物的なまでの「女」になろうと言葉で闘った。
そんなりんさんも、いまでは実母すみさんとともに、南伊豆の海と大地のふとんにくるまれ永眠されている。
生死の悲哀を沈黙のうちにおしつつんでは、巨きくあたたかく波寄せる母性を、ぼくらに詩いかけながら。