詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
めのまえに、憧憬の、瀬戸内の海。
凪いだ内海は静まりかえり、おだやかな潮騒が鼓膜をかすかに撼わすばかりで、波はほとんどめにつかない。跳ねた魚がぽちゃんとたてる水音さえおおきく響く。
海はただきらきらと光をかえし、ひたすら平らかにひろがっていた。ぽつりぽつり遠近に浮かぶ島々も山容というべきものはなく、コバルトから紫陽花色にかわる水面に、ふうわり羽衣をおいたというほどの隆起である。
島々も海も微光も時の琥珀に溶けこんで固まる。
すると、雨。
鞆の浦に到着したときは、まだ午後で、気温は摂氏三十六度。内海の視界はうだるように靄をあげ暑く霞んでいた。近年、吉備路をくるしめる地球温暖化の悪夢を冷ますように、慈雨がふる。
ぼくは、安東次男の詩をおもわず口遊んでいた。
夕立
八月というのは
享けつがれた果物だ
新鮮で
爽やかである
だが要するに
誰がくれたか
誰にやるのか
覚えてはいない
受取人のいない
手紙のようなものだ
配達夫が帰ってゆくと
人はたれかが(たしかに多くの人が)
不在であることを思い出す
そのとき雨の中で
もう一つの雨が成熟する
瀬戸内の島々
とある晩夏。ぼくは安東次男の詩を慕って旅をした。
詩人生誕の地、岡山県。児島を経由して瀬戸大橋の架かる下津井で一泊。翌朝は鞆の浦温泉へ。鞆の浦は広島県福山市ではないか、とのお叱りもあろう。鞆の浦も吉備路であり、かつて井伏鱒二が定宿にした海辺の老舗温泉宿〈籠藤〉、いまは〈汀亭 遠音近音〉があって、ぜひとも投宿したかったのである。
三泊四日の旅の途中、ぼくは、しばしばこの「夕立」を口遊んだ。家から遠くはなれ、わざわざ吉備路の瀬戸内海で、八月という果物を享けつごうとするかのように。
すると、この旅の時空とぼく自身が、詩の言葉とかさなりあい「受取人のいない/手紙」になってゆくのだった。
安東次男は大正八年(一九一九)、岡山市から車で北へ一時間ほどの苫田郡東苫田村大字沼で生まれた。いまの津山市沼で、津山盆地の北東端にあたる。中国山地の裾野、豪雪の地である。現代の沼は宅地化のすすむ稲田だが、詩人は幼少のころから、この千メートル級の山波がつらなる音を背にし聴き育った。
蜩といふ名の裏山をいつも持つ
安東次男の句集『裏山』の一句である。けれども、安東を山地の詩人とよんでしまうのには違和感がある。
それというのも、著作家として四つもの顔をもつ安東は、深みとともに稀有なひろがりをもつ詩人だから。
戦後、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアールといったフランス象徴派詩人から近代詩人までを翻訳研究しながら、詩集『六月のみどりの夜わ』(一九五〇年、コスモス社刊)と『蘭』(一九五一年、月曜書房刊)を上梓した、現代詩人としての顔。パリコミューンに倣うように、安東は安保学生闘争を擁護する「抵抗詩人」として「戦後史に独自の達成を築いた」(中村稔)と評価される。
与謝蕪村を論じた『澱河歌の周辺』をはじめ、松尾芭蕉を論じた『風狂始末』など、江戸俳諧や万葉集などの果敢な新釈をこころみ大成させた、古典評釈者の顔。
その豊富な古典知識と詩人の独創的な鑑賞眼で綴る『古董流轉』や『拾遺亦楽』などの古美術随想家の顔。
そして、若き日に俳人加藤楸邨に師事して以来、古典俳諧に沈潜しつつ流火草堂の号で句作しつづけた、現代俳人としての顔。
その異貌の仕事たちは、それぞれがおなじ海に浮かぶ孤島のようで、外部や相互をむすぶ航通にたいし閉ざされると同時に開いてもいる。安東はその群島性のポエジーにより、生涯をかけておなじ〈詩〉という海を問いつづけたのだと、ぼくは想う。安東次男こそは、戦後世代の詩人にはめずらしい、山人の詩心のうちに海の道のひろがりを秘めた詩人ではなかろうか。
吉備路文学館で展示を観覧したあと、安東次男の生原稿や遺稿を調査。その足で、瀬戸内へとむかった。
期せずして、地元浦和とゆかりあるヤナセタカシ氏原画の特別アンパンマン列車「南風十五号」にのりあわせる。二輌きりのディーゼル列車で田園風景を児島へ。
児島港からこんどはタクシーにのりかえる。鷲羽山へと登ると、山頂から瀬戸大橋が一望できた。コバルトブルーの内海に浮かぶ塩飽諸島の五島を縫いでいる大橋。そのまま、タクシーは下津井港へと降りていった。
実体化した虹のように巨大な瀬戸大橋を見上げる下津井吹上漁港は〝鄙びた〟という風辞のふさわしいちいさな港町。明治までは内海を渡航するための「風待ち・潮待ち」の要港として栄え、最盛期には潮待ちをする六十隻もの北前船が停泊していたという。
時の流れのなかでほとんどの備讃の港町は変貌したが、下津井はかわらない。
東の観音寺、西の祇園神社との間合に木造と海鼠壁の古民家が迷路のように密集している。
熱気に煽られた海水で視界には靄の膜がかかり、光が蜜色にかんじられる。一時間と外にいられない酷暑だったが、体力のもつかぎり、漁村の小径の宇宙を彷徨った。箱型の漁師家は強烈な太陽と潮で黒く灼けた杉板に瓦屋根というミニマルな造り。大小の船問屋は、重厚な軒や外柱に渦潮や蛸唐草の化粧彫がほどこしてあり、塩飽大工の技の高さがしられる。
下津井の漁村
下津井に投宿したのはほかにも理由がある。
それは、蛸、だ。
岡山や瀬戸内でも、下津井揚がりの真蛸は至宝で、関東では滅多に食せない。
なかでも、作家の司馬遼太郎や山口瞳が讃じた蛸料理の老舗〈保乃家〉で昼酒をと、密かに懸想していたのだ。
「元祖たこ料理」の暖簾をくぐると、年季のいった一枚板のカウンターへとおされる。大生簀の硝子ごしに音に聴きし下津井蛸の実物を眺めながら、倉敷の銘酒〈燦然〉純米大吟醸を、まずは一献。暑さで朧になった視界が晴れる、ネーミングどおりの華やいだ味である。はやく、つまみが欲しい…。
そこへ、大将がいま捌いた蛸を丸一匹、大皿に盛ってみせてくれた。瑞々しく紅く輝く脚、吸盤、頭のほか、白々ふるえる内臓、体軀のわりにおおきい脳、そして蒸したての饅頭のようにつややかにふくらんだ白子。大将曰く「ここらじゃ蛸の白子は〈真子〉といいやす。なかには三十万からの卵がはいってるね。夏の蛸は産卵期で痩せているけど、下津井の蛸は値があがる。なによりこの太った真子が美味いんだ」。これらを、ぜんぶ余すところなく、手を品をかえ料理してくれるというのだ。
まずは、その真子しんじょう。酒が加速する。たたいて刻んだ蛸団子で舌先をととのえたあとは、お待ちかね、吸盤と白子もはいった蛸刺身がとうとうきた。
関東で食す蛸は噛み応えと弾力がある。しかし、下津井で水揚げしたての蛸の吸盤は、水瓜のようにしゃきしゃきしてい、それほどつよく噛まずとも、なんともいえぬ磯の滋味と香が口中に甘やかにひろがる。白子もこのうえなく新鮮で、ねっとりと艶かしい味だが、とろとろに甘い。鱈や河豚の白子にはない、つぶつぶした卵感もめずらしく、酒がすすむ。蛸漁師たちは、白子を丼ぶり飯にしてかっ喰らう、とか。「八月の果物、とは、下津井の蛸のことか…」などと勝手に独り言ちる。
雲丹の食感と甘味に似通う蛸の脳みそや臓の天ぷら、そうして、〆は蛸飯…こんなにも蛸が濃厚に香る炊き込みご飯は、初めて。おもわず、二回、おかわり。
金子光晴とはちがい、安東次男に蛸を詩材にした現代詩や句はみあたらない。
けれど、下津井蛸を賞味しながらぼくが連想したのは、駒井哲郎の銅版画だった。あの独特な超現実世界、こころの深海のような暗く静謐な駒井版画の宇宙からは、それこそ、蛸とも宇宙人ともみてとれる形象が漂流してくることがあるのだ。
下津井の蛸
ぼくが安東次男の詩と出逢ったのは、安東と駒井による詩画集『人それを呼んで反歌という』を、東京神楽坂のちいさな画廊で入手したことがきっかけだった。
幼いころ、母に連れられ、近所の埼玉県立美術館によくいった。当時の一般展示室は入室無料で、そこに架けられた駒井哲郎の不思議な銅版画世界に、小学生のころから、ぼくは魅せられていた。成人して、じぶんで稼げるようになると、ぼくはなんとか金策し、僅少な駒井哲郎の銅版画を一点ずつ蒐めようとしてきたのだ。
昭和三十三年(一九五八)、詩人安東次男と画家駒井哲郎は出逢う。ふたりは共同制作による詩画集を計画。翌年には『からんどりえ』限定三十七部を詩書の出版社である書肆ユリイカから刊行。この本は、日本でも最初期の本格的詩画集となった。つづいて、昭和四十一年(一九六六)、安東と駒井はふたたび共同制作を開始。詩画集『人それを呼んで反歌という』を、限定六十六部で、エスパース画廊より上梓。
一詩人の見解だが、いまもって、安東と駒井の詩画集に比肩しうる、詩とアートのコラボレーションは生まれていないとおもう。詩と銅版画、ふたりの世界観はまったき異他だが、言葉、線、色彩はそれぞれの個我を遊脱した閾にぴたりと息をかさね、妙なる〈詩〉の二重奏をかなであう。先に引いた安東の詩「夕立」には、駒井の「詩画集ナンバー Plate 8」が添えられてい、そのシュガーアクチントの銅版画は、みっつの花粉色の雲の形象の内部で、掠傷のごときエッチングの斜線が想起されてゆく。いっぽう、みずみずしてたわたわする、不定形な軟体生物ばかりが捌かれるシュールな板場を眺めながら、つい、ぼくが口にしてしまうのが、
厨房にて
透明な直立した触媒
水のリボンが
自然の奥の
もうひとつの自然の形に
つながっている
はじかれた水が凝っている暗部で
結晶しなかった一日が
無数の
ゼラチンの
星のようにはりついている
存在の白桃まで
ひさしく届かない
(『人それを呼んで反歌という』より)
であり、「無数の/ゼラチンの/星のようにはりついている」というフレーズから、読者諸氏は海星(ヒトデ)を連想するだろうけれど、ぼくはめのまえで捌かれる下津井蛸の、果実のようにしゃきしゃきした芳しき吸盤につい見入ってしまった。これが、旅と詩が溶けあう瞬間なのだな、と独り興に入り、お銚子を追加、盃をあげて。
そんな「存在の白桃」、わが八月を享けつがんとするぼくの旅も、いよいよ終盤を迎えつつあった。
翌早朝、ぼくはJR陽本線にのり福山駅から海岸線の道をシャトルバスで鞆の浦へ。夕刻ちかくになって、やっと老舗旅館〈遠音近音〉(おちこち)の暖簾をくぐることができた。大黒柱と呼ぶにふさわしい大人がもろ手でかかえるほど太く黒光りした大柱、大梁、漆喰の重厚さがかつての瀬戸内の富裕を物語る純和風旅館。
和服の中居さんに、永年磨きぬかれた、ふみ歩くときいきい鳴く鶯張りの廊をわたり部屋へ案内してもらう。「こんなコロナの時季にお泊まりくださるのだから、いい部屋をおつかいください」と、とおされた客室は──、
青松の盆栽と古いお軸のかかる床間と二十畳はあるだろう。そして、さっきから波音がそれこそ遠近に聴こえつづけている障子を開放つと、真正面に、ワインレッドに燃えあがる海と仙酔島の絶景が、自然物の屏風絵になってあらわれた。
その瞬間から、鞆の浦の静かに凪いだ内海のごとく時の潮流は止まりかけ、二泊三日の記憶は茫漠とつかみどころがない。
朝は波音の揺籠のなかでめざめ、手をのばせば紺碧の海にとどきそうな天然温泉の露天風呂につかる。二日間、頭をからっぽにして空と海と島々をただみつめつづけた。ひろびろとした客室に独りもどってからも、きらめく海原に浮かぶ仙酔島と対座し、仕覆から旅盃をとりだし酒をついで、空と海と島々の観想をつづける。日中は話さず、読まず、一文字も書かず、潮騒の言霊と韻律だけを耳にして、仙酔島を友に酒を酌みつづけた。
夕方になると、空と海に茜が射し、潮騒にまじって仙酔島の蝉時雨がとどきはじめる。すると、ぼくは寝酒や翌日の昼酒の肴をもとめて、着流しのまま船場へ下駄をむけた。常夜灯のそばでリヤカーをひく行商のおばあちゃんからいりこ、サヨリの干物などを買う。
海風に吹かれて港にたたなずみ、ちいさな櫓のような常夜灯から凪いだ夕潮を見晴るかす。陽の燠火が冷えはじめて紫から次縹、中縹へと青の底を深め、海が月夜を吸いはじめる。関東にも逢魔時はあるが、瀬戸内の薄暮をみて、海が静かな光とともに魔性を放つ生き物であることを知った。時の潮になめらかに鞣され、波打つようにうねる江戸時代の雁木が、夕闇にガウディの妖しさを湛えている。
袖に手でふらり散歩から帰ると、ふたたび湯につかり、旅盃に酒をつぐ。夕膳が用意されている。
鞆の浦の海宝、オコゼを薄造りにしていただいた。
雪色に透いたお刺身の隣に、オコゼのいかつい頭とぴんと扇をひらいた鰭が盛付られていた。虎魚、と書くだけにその顔は見事な醜女っぷり。身よりも頭のほうがおおきいくらいで、それにしても、骨張ったちいさな魚身をどうすればこんな芸術的な薄造りにおろせるのだろう、と舌を巻きながら、ひと口。その美味にあらためて舌を巻く。見目はぷりっとしているが、身はおどろくほどやわらかく、淡白な旨味と脂が舌の熱で口中にすうっとほどけ溶け散ってゆく。海にふる淡雪のごとし。
にしても、こんな痘痕面の魚から、どうすればこんな繊細な美味がうまれでてくるのだろうか。神仏の悪戯としかいいようがない。否。これほど醜い外見だからこそ、これほど美しい味がするのだ、と酔眼で独り合点する。
オコゼからたいせつな芸術論、人間論を教わりつつ−刺身は醤油は無論、ポン酢でさえ旨味を掻き消してしまいそうなので、伯方島の塩と煎り酒をかわるがわるつけて食す。鰭は唐揚げに、頭はよい出汁がとれるので翌朝の味噌汁にいれてもらった。
はたして、ぼくは、わが八月の果物を享けつぎ(しかし、いったい、だれから?)、だれかへと(あるいは、その不在へと…)手わたすことができただろうか。
仙酔島へとわたれそうな月の道がひとすじ闇洋に架けられていた。光と影の波長をともない、永遠に遠近をくりかえす水の羽音に耳を澄ませ、また酒を酌み、安東次男の詩を口遊んで。酒を呑む。
気づかぬうち、だれにともなく島のかたちに伏せられた手紙のように、まどろんでいた。