草野心平の磐城(その2)──雨に濡れて光る石がある

草野心平の磐城(その2)──雨に濡れて光る石がある

詩への旅

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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。

草野心平の磐城(その2)──雨に濡れて光る石がある

石田瑞穂

詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。


 〈いわき市立草野心平記念文学館〉のドアをくぐる。
 そこは詩人草野心平の世界を、読むだけではなく、そのまま体感できるかのインテリアになっていた。
 ドーム状の「ジグザググロード」には、年譜や若き心平さんが留学先の中国で手製した幻の第一詩集『廃園の喇叭』(大正12年、タイヤン社)から、生前刊行の最後の詩集『自問他問』(昭和61年、筑摩書房)までがそろえられている。
 国内だけで合計三十二回も転居をくりかえした心平さんだが、詩人たちからの膨大な書簡や葉書が届いている。そのほとんどが、高村光太郎が後援し宮澤賢治や中原中也を世におくりだした詩誌「銅鑼」、粟津則雄、宗左近、渋沢孝輔、吉原幸子、入沢康夫をはじめ現代詩の綺羅星が集結する「歴程」の詩人たちからの肉筆書簡。それらが記念館の「天」へとのびる九本の黒いスティール柱に吊られてゆく。孤独な詩人であると同時に、稀有なオルガナイザーでもあった心平さんを立体的に物語りながら。
 もちろん、原稿用紙に武張った墨字で浄書された『第百階級』などの草稿類、原稿用紙に換算して約一万三千枚におよぶという百十四冊の日誌ノート、少年時代は画家になりたかったという心平さんの絵画、書などの膨大な手仕事。草野心平研究の第一人者深澤忠孝氏の資料展など、一日ではとてもつぶさに観覧できないほどの豊穣な展示であった。



 所有をきらった心平さんが唯一蝟めた自然石のコレクションのそばに、ガラスケースに収められた根来風の盆があった。そのうえには、使いこまれ古びたエボナイト軸の万年筆とインク壺、サインペン、鉛筆、訂正用の赤鉛筆、鋏、眼鏡などがのっていた。心平さんの膨大な筆耕をささえた生前の愛用文房のまえにしばしたたなずむ。
 そして、つい眼を奪われた展示コーナーがあった。
 心平さんが生前に営んだ居酒屋〈火の車〉とバー〈学校〉のドアと始業ベルが、ほぼ原寸大で再現してあったのである。これには、度肝を抜かれた。
 銅鑼社や歴程社の運営、宮澤賢治全集編纂や連載があっても詩人の収入では家族を養えない。よって、心平さんは新宿で屋台をひいたり、麻布に焼鳥屋〈いわき〉を開店するも、長男誕生の際には産婆も雇えぬ貧窮ぶりだった。そんな心平さんが東大赤門ちかくの小石川に伝説の詩人居酒屋〈火の車〉をひらいたのが、昭和27年(1952)三月(ただし後述の『日記』には「四月十五日 金」とある)。心平さんが四十九歳のときであった。
 ぼくが二〇一七年に〈藤村記念歴程賞〉を授かった際に、賞金のほかに副賞として限定千部の『草野心平日記 全七巻』を贈られた。毎夜、グラスを傾けつつノート百十四冊分の日記を全巻通読したのだが…一番おもしろかったのが十一冊目のノート「火の車日記 1955」であった。「六月二日 木」の日記にはこうある。

 夜遅く河上徹太郎現はれる。
 大分よってゐた。店の外からもうろうと眺めてゐる。はいれよ、といふとぬうっと這入ってきて、いきなり「こら心平」といった。この晩も遅くなった。三時か四時。西常雄君のとどけてくれた「みみづく」を持って帰る。


翌日の日記には、

 珍しく井伏鱒二が現はれた。
 久しぶりなので三人〔中島健蔵〕で外へ出て、道草へゆく。横光利一読本の健蔵の日記のことが話に出て、日記のよさを話しあひ、これから日記をはじめようと約束する。


 心平さんの〈火の車〉には、作家の梅崎春生、中村真一郎、椎名麟三ら、詩人の高村光太郎、田村隆一、中桐雅夫、木原孝一、岡本潤、壺井繁治ら錚々たる文士が顔をだす。店では主も手酌で呑んで客をもてなし、文学、芸術、社会を談義する。閉店後も客と呑み歩いて「宿酔い」の日々。そうした心平さんの姿が文学好きの客たちをひきよせた。出版人たちもおおいに語りあい呑みながら原稿依頼や企画をもちこむ。
 そんな熱気が、レプリカである〈火の車〉にも、いまだ燻っているようだった。
 店名もさることながら、酒や料理のネーミングが、さすがは詩人、パンチがきいておもしろい。たとえば、特級酒は「天」、二級酒は「火の車」、焼酎は「鬼」。海苔で巻いたほうれん草のおひたしは「黒と緑」、豚の煮こごりは「冬」。カウンターのうえには品書きの木札もきちんと再現されていた。作家の檀一雄も『檀流クッキング』で、心平さんが新宿でひらいていたバー〈学校〉の「白夜」を「心平ガユ」として紹介している。白菜、鶏皮、冷飯を牛乳で煮込み胡椒をふったカンタンだが滋味深いチャウダーで、ぼくも、そこにコンソメと浅蜊をくわえ、呑んだあとや「宿酔い」の昼に愛食している。
 ぼくはカウンターと小机だけの狭い店内に身をおき、レプリカとはいえその空気を心から愉しんだ。幻の心平さんが錫のちろりを温めているカウンターに肘をつき、止まり木してみる。ほんものの酒がでてこないのが、痛恨の極み、ではあったが。

 心平さんの文学館をあとに、タクシーで同市内郷高野町にある〈入の元湯 神泉亭〉へとむかった。  高萩から車で五十分、さらに深い山峡の里。道中の錦秋もいよいよ燃え煌をますころに、神泉亭の合掌造の三角屋根がみえてきた。



 神泉亭は晩年の草野心平愛用の山宿だ。到着すると、元気な女将さんが笑顔で出迎えてくれた。高級旅館の見栄えだが、良心的な湯治宿である。今代の女将さんによれば、心平さんは秘書を介さず「ぼくの二階の部屋あいてる?」と直に電話してきたという。毎回、五、六泊の骨休めにこられたそうだ。磐城湯本の高級旅館が無料で誘っても、心平さんは首を縦にふらなかったが、神泉亭を「先生あつかしなくていい」と気に入っていた。
 上げ膳据え膳のサーヴィスはない。ぼくが些少の心付をわたそうとすると、「うちはそういう宿ではありませんから」と固辞される。神泉亭のみなさんは素朴で温かく、実直で気骨ある方々であった。

 さて…陽もかたぶいたので、到着早々だが湯屋へ。
 神泉亭の岩風呂は「薬湯」とよばれている。高質アルカリ炭酸温泉で、肌の保湿、火傷や怪我にも効能がある。湯はかなり熱い。岩風呂には櫂のような長板がおかれてい、それで湯槽を搔くと湯加減がよくなる。その体験もなつかしかった。肩までつかると、ああ、ああ……、
 おもわず声が漏れでた。湯の質感は滑らかでとろりと肌に纏りつくようだ。三、四分もすると血行がみるみるよくなり、寒さ疲れした肌の血色もぽかぽかと蘇る。磐城湯本の湯は白濁し硫黄臭がするのにたいし、こちらは無臭透明。地元でも秘湯として名高い。岩風呂の竹筒からは山の清水が噴きでており、体が火照るたび冷たい湧き水を茶碗でごくごく飲んだ。清水は湯とおなじで舌触りがとろんと甘い。心身の内外から山の精気に癒されるようだ。ウヰスキーを割って呑んだら、ぜったい、旨いにちがいない。

 薬湯からあがると夕餉だという。合掌造の食事処は囲炉部屋であった。野太い梁と柱、重厚な造作の箪笥が、永年の煤を吸ってつやつやと黒光りしている。炉はすでに熾ってい、炭火の澄んだ香が高い天井までのぼっていた。囲炉裏枠のうえに、常盤ものの鮪と水烏賊の造り、糠漬け、山菜煮を盛った手びねりの皿がのせてある。青い杉葉で覆われた大鉢皿には山女魚、地野菜、しい茸、厚揚豆腐、若地鶏肉の串刺しが盛られていた。海の魚のほかは高野の里の田畑と渓流でとれたものだという。



 女将さんがきて食し方を説明してくれる。夕食は「お狩場焼き」だそうで、江戸時代に湯長谷藩のお殿様が入の元湯本家高萩織平と狩をしたときに興じた宴食だとか。
 まず、朝釣りの山女魚串に塩をふり、ここでしか食せない高野の若鶏串を秘伝の醤油壷につけ、炉端にさして炙る。地酒〈又兵衛〉は鴨徳利に注ぎ炭火でお燗。胸中、心平さんに連れてきていただいた旅に感謝し、詩人に献杯。古式の純米酒にはじんわり熱がとおり、燗酒のぴりぴりした刺激がない。水と米の自然な甘味がほどよく温まり舌に沁みわたる。炭火のお燗は新鮮でねっとりした烏賊にこよなくあった。ほどなくして玉葱、じゃがいも、しい茸の串を炉端にさして炙り、盃をあげる。愉しい。
 魚肉よりさきに野菜が焼けた。すこし土のついたじゃがいもの皮がこんがりと焼け、ぱりりと破けると、なかからほわっと湯気がたち瑞々しくほくほくである。バタをつけて頬張ると、これだけでもう一合呑めそうだ。
 女将さんが魚と鶏の様子をみにきてくれたとき、山辺から、ぴいぃぷういぃと篳篥を想わせる音が発った。「ノロジカかもしれんねえ」と、女将さん。夜闇のそちこちから聴こえる鹿の笛に心耳を傾け、熱々の山女魚に背からかぶりつく。純白の身は羽毛みたくふわふわで、湯気にのってかすかに青臭い川苔の香がした。魚は里の水のように甘くクセがない。そういえば、心平さんの詩にも「山魚」がよく登場する。子どものころの心平さんも、家族と囲炉裏をかこみこんな美味い山女魚を食べていたのかしらん。
 炉端の炭火はこれほどにも食物を美味くするのか。原始的な調理法だが暖もとれ、贅沢な気分で食事ができる。ぼくらはゆたかで安らかな食文化と暮らしを棄ててまで、危険極まりない原発に依存し味気ない飯を食って暮らす。

 みじかい逗留ではあったが、湯治のあいまに高野の集落を散策した。曲がりくねった山道にそって柿垣をめぐらした農家や材木場、地蔵堂が点々とあり、バス停名だけになった廃村を歩きめぐった。櫟、楓、橅が紅に黄に色づき、あいかわらず芒野がそよいでいた。いわき市唯一の国宝、白水阿弥陀堂にもたちよった。侘びつつもシャープな曲線がモダンで美しい阿弥陀堂の屋根に、心平さんも讃嘆したろうな、と想ったりした。
 そして…腑に落ちた。ここは小川郷の刻の針を巻き戻したような隠れ里だ。心平さんは、いまはもう戻れない上小川村の原風景を高野にかさねたのだ。



 宿を発つ日、女将さんが、心平さんの「ぼくの二階の部屋」をみせてくれた。いまはつかわれていない旧本館二階の和室だった。八畳ほどの和室で、見晴らしのいい窓辺にデスクがつけてある。そこから神泉亭の築山風の庭園がみおろせるのだった。無骨な自然石のあいまに楓の低木が植えてある。石が発火しているようにみえた。石庭のむこうには、阿武隈山系の尾根が遥かにつながる。女将さんによれば、高野の楓は秋から春にかけて、散らずに紅葉しつづけるのだという。満開の桜と楓の火花ともにみられる、じつに珍かな風趣なのである。
 ある日のこと。心平さんは当時娘さんだった女将さんに、麓の町で絵筆と絵具を買ってきてほしいとたのんだ。「それから、心平さんはお酒をちびちび呑りながら、絵筆と黒絵具でつぎつぎ色紙と扁額を書いてくださったんです」。そういって、女将さんは、合掌造りの母屋に飾られた草野心平書の色紙と扁額をみせてくれた。
 絵筆で揮毫した心平さんの書は色紙を中心に、庭を愛でての「雪」や「春ノ如四」(はるのごとし)など多数。筆は悠々として磊落な書だ。なかでも瞠目せざるをえなかったのが、欄間の扁額。そこには「石」という短詩が心平さんの字で揮毫され落款もおされていた。

     石

   雨にぬれて
   光る
   石が以る
   億年を
    藏して
   仁ぶい光の
   もやの中仁

 宿の格別なご好意でここに記載させていただく。詩集『絶景』に収められた作品「石」のようだ。未公表の貴重な書作品ではなかろうか。この扁額は詩の言葉のみならず、心平さんの書の身体性とともに深く味わうべき作品だろう。詩の言葉のなかに、心平さんの書心のうねりとしじまのなかに、高野の自然と里の暮らしが、神泉亭での時間が、記憶のなかの上小川村がにぶく光り輝いて蔵されている。億年の石のように。
 ぼくは、この詩と書に出逢うために、遠く旅してきたのだと悟った。

〔取材協力:いわき市立草野心平記念文学館、入の元湯神泉亭〕

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