詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
飛行機の窓から眺めた済州島
咽いっぱいに浸透るさわやかな「にんご」を食べたくなって、飛行機にとびのり、韓国の済州島へ渡った。〆切の電話をすりぬけて、一泊二日の弾丸旅行。
にんご、なんて食物、あっただろうか。そう思われた読者諸氏がいても、ふしぎではない。それは、詩の山野に自生する果実だから。
にんご
りんごの果肉をかじる
したたる血の
なんと透明なこと。
りんごをにんご
と 言う母の
ナムアミダプツ
南無
なむあみだぷつ
咽いっぱいに浸透る経
余韻を舌にまどみつ絡めつ
こぶしに充たぬ胃袋に
溶け堕ちる日本語のうまみ
芥の煮たぎる河に沿う
腸の煮たぎる街のなか
庇の下の物売りの母
うずくまる胸が
りんご
ひとやま 百円
こうてんか
(宗秋月「にんご」全篇)
そう。「にんご」は、大阪の猪飼野に生まれ育った在日韓国女性詩人、宗秋月(チョン・チュオル)の詩に登場する果物のこと。付記には「りんごは沙果(サグワ)、林檎(ヌングン)と呼ぶ」と書かれている。韓国語のサグワは果物屋のりんごだが、ヌングンは「山野に自生の小粒のりんご」であり、在日韓国人一世の親たちが日本語で「にんご」と発音した果実。「りんごはにんごなのだ。/ら行のりんごではなく。/な行、なにぬねの、にんごである」。
この詩に感銘をうけたぼくは、ヌングンとりんごのはざまに実る果物を味わってみたいと望むようになった。日本では実らず、詩人自身さえ、「二世である私は、朝鮮の山野に自生する小粒の林檎(ヌングン)の、酸っぱさも甘さも喉元を通った記憶が、まるで、無いのだ」と書く、紅い果を。宗はそれを「海を渡ってきた朝鮮人の、透明な、もう肉体を濾過した後の透明な、激情の味」と詩想した。
韓国随一のリゾートアイランド、済州島は、火山島ならではの荒々しい自然の景観が世界遺産に登録されている。済州市のビル街をタクシーではなれると、松や杉の森林が雄大な山裾になだらかにひろがった。この森のどこかに、ヌングンはなっているだろうか。
上手に日本語を話す運転手さんが、「シャチョサン、島のまんなかのおっきな山が漢拏山。牧場もあって、古くから馬が多いんです」。
「へえ。運転手さん、ぼく、社長じゃない。詩人だよ」
「へえ。シュジン? じゃ、シャチョサンだ」
だれかの詩で読んだような噺である。窓から北海道を彷彿とさせるのんびりした自然を眺望しながら、ハルラサン、と聴いて、ぼくは済州島出の詩人金水善(キム・スソン)の詩を思い出していた。
「この腰はネ/四・三蜂起の時/漢拏山に立て籠もって闘っている兄に/食べ物を運んで見つかり/拷問でこわれてしまっただよ」(「済州島の女」より)。ある時代の韓国詩は「恨」(ハン)の詩ともよばれた。第二次大戦時中の日本軍侵攻をふくめ、「母なる済州島の山」は、苛烈な時間をずっとみてきたのだ。
♢
詩の傷を癒すように、薄青い光が瞳をおおいはじめた。
フロントグラスにゆったりと凪ぐ海があらわれる。前衛彫刻のような奇岩と断崖の道を疾走し、いくつものリゾートホテルが槲立する中文観光団地をすぎると、宿泊先の西帰浦(ソグィポ)。
ソグィポは韓国で人気の新婚旅行地だとか。いりくんだリアス式海岸の入江に拓けた漁村で、数々のテレビドラマのロケ地にもなっている。港を見下ろす丘に、古い観光ホテルがびっしり貝のようにはりついているさまは、かつての小田原や熱海をおもわせた。
琥珀に煙る初冬の弱光のなか、紅いオシロイバナや橙色のスカシユリ、千に万に花裂けた白いハマユウ、そして済州名産のミカンの花が咲き乱れ、ちょっぴりくすんだ港町に華をそえていた。
まだ、ヌングンはどこにもみあたらない。
二十隻ほどの漁船を抱く、おおきな防波堤と名も知らないちいさな島を、新しい白亜の大桟橋がつないでいた。カップルの集団が橋のうえで、巨大な落日をバックに自撮りにいそしんでいる。ぼくも、そこまでぶらぶら歩いてみた。さっきまでブランディ色に燃えていた海原は、いつのまにか紅紫に冷えて。薄闇と漂うウミヒバリについて西帰浦港にもどってきた。いれちがいに、イカ釣用のライトを灯した宇宙船のような漁船たちが、港から沖へつぎつぎでてゆく。
夜漁明けの船が停泊している波止場には、お誂向に港の食堂があった。窓をのぞくと、ちりちりパーマにエプロンの小母さん(アジュモニ)がでてきて、「よってちょーだい」。
「看板写真のヤリイカがうまそうだけど、ある?」
「ごめんねえ、海が荒れててね、漁にでられなかったのよ。今晩のおすすめはオクトムグイ(アマダイの焼魚)だね」
カッコ内は想像の会話、実際は身ぶり手ぶりでの対話である。韓国まできて焼魚もなあ。異邦で料理の見当がつかない場合、ぼくは瞑目してメニューを指さし、「これ」ということにしている。ジョン・ケージ直伝のチャンスオペレーション、というわけ。
港食堂のサバのチゲ鍋
でてきた子サバのチゲ鍋は、存外、旨かった。ぶつ切りにしただけの子サバ、葱、玉葱、ジャガイモ、大根などを辛味噌にぶっこんで煮た漁師料理。新鮮なサバ独特の青臭ささが甘辛いチゲとあいまり、すこぶる野卑な味だ。が、そこが、いい。真っ赤な鍋をつまみに、額に汗をかきかき、焼酎をカス・ビールで割って呑む。
「島の男たちはね、漁から帰ったあと、このサバのチゲ鍋を囲んで騒々しく語りあいながら、何杯も何杯も焼酎を呷るのさ」
そんなアジュモニの声が聴こえてきそうだ。凍夜の漁から帰港したあとの、この熱いチゲ鍋は、こたえられないだろう。
そして、このアジュモニのつくるキムチが、逸品だった。日本で売られるのは古漬けだが、やはり、キムチは歯ごたえのしゃっきりした香り高い新漬けがいい。宗秋月の詩が味わせてくれるような。
キムチ
かわらのうねりに
朝がくると
女は壺の中からキムチを出して
シャク シャク 刻む
むかし むかしの そのむかしから
変らぬ女の日々の仕草よ
土くれの野の
あおい匂い
にんにくの匂い
白い菜にとうがらしの染まった
まっかなキムチ
(宗秋月「キムチ」冒頭部分)
詩の了りに「包丁の先から/ふるさと刻んで」というフレーズがあって、印象的だ。詩からは、強いられた故郷と思慕する幻の故郷とに引き裂かれる、痛みと哀しみが静かに響く。でも、それだけじゃない。詩人自身を幽閉するアイデンティティを、言葉の包丁で刻む、さわやかな悦楽を味わうこともできるのだ。あのぴりりと辛くて爽快な酸味、歯ごたえ。オモニのキムチが奏でる、食のポエジー。
「アジュモニ、ヌングンはとれるの?」
「ヌングン、ヌングン……」
小母さんは、首を横にふりつづけた。
♢
翌朝は、ホテルのちかくの天地淵瀑布まで散策。中文川の清水ぞいに松の緑道を歩いて、護神トルバンや地の女神の石像たちと対面。
朝の珈琲が飲みたくなって、ダンキン・ドーナツに立寄る。ユニフォーム姿の店員ではなく、ちりちりパーマにエプロンをつけた、昨日の港食堂の小母さんがドーナツをならべていたことに、驚愕。
それから、タクシーで正房瀑布へ。苔むした石畳の小径をのぼり、道教的な棕櫚の森をぬけると、三十メートルの断崖から瀧がそのまま海原に墜ちており、大音声をあげている。壮観。
正房瀑布
結局、ヌングンはどんな藪にも小径にもみつからなかった。
では、ぼくは、どう食のポエジーをみたせばいいのか。
無論、呑むしか、ないだろう。
正午の漁港をあてもなくさまようと、ミカン色のブイや黒いウェットスーツが溶岩を積んだ壁に干してある、伝統的な済州家屋がみえてきた。ああ、ここが名物の海女食堂。全員がピンクのシャツをきて日焼けした海女の小母さんらが、つやつやの笑顔でむかえてくれた。メニューは一品らしい。ハングルが読めない、という顔をすると、ぼくの腕に黒い腕をやさしくからめて、「大丈夫、小母さんにまかせなさい」。ぼくは、日本人にはない、朝鮮の人々のちょっとしスキンシップの習慣が好きだ。言葉をこえて、温もりにみちた信頼を伝えあう習慣が、日本にはなぜないのだろう。
カス・ビールと焼酎がきて、三種の貝刺身の大皿が食卓にとどいた。島と海と詩人たちに献杯し、アワビ、を。かたくひきしまった海の幸を噛みしめると、ふわっと潮の香が泡だち口中ではじけた。くさみはない。初冬の光や波とおなじ、澄みきった味。別皿の生玉葱と青唐辛子を添え、赤唐辛子のたれにつけて食す。済州ではこの食し方がよい。サザエもホヤも強く健全な磯の味香で、日本の繊細な醤油では負けてしまうだろう。
窓からは異邦の強烈な光。無尽蔵の海を身体のすぐとなりに感じながら、冷えたビールに憩う。新鮮な貝を噛みしめ、味わい、ちょっと島の漁師を意識しつつ、ショットグラスの焼酎を一息に呷る。
永遠、という言葉が、じんわり腑に落ちてくる。
貝の刺身の盛り合わせ(海女食堂)
宗秋月は苦しい生活のなか、働く先の厠に隠れて詩を綴ったという。宗の猪飼野からはほど遠い現代版の天国で、それでも、ぼくの体の奥底には宗の詩の言葉が波打ちつづけた。ヌングンはないけど、せめて、アワビをすこし、詩人への捧げ物として皿にのこそう。
済州の海の淡いブルーが、目にみえない水平線の彼方でいつのまにか冬の空とつながっていた。