島崎藤村の湯河原──老いずの夢にたとふべき

島崎藤村の湯河原──老いずの夢にたとふべき

詩への旅

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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。

島崎藤村の湯河原──老いずの夢にたとふべき

石田瑞穂

詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。


 湯河原駅までは東京駅から上野東京ラインで乗り換えなしで一時間十三分。真鶴駅を通過すると相模の海が初夏の陽にきらめき、湯河原駅のホームで下車すると潮風と新緑のいりまじった香が鼻腔にふくらんだ。
 温泉観光地の駅から不動滝方面のバスにのり数分後「公園入口」バス停下車。千歳川のせせらぎを聴きながら萌黄の小高い山のほうへ国道七五号のゆるい坂をのぼる。すぐに、エメラルドグリーンの新芽に隠れ建つ木造旅館「伊藤屋」がみえた。湯河原の老舗旅館の風格をかんじさせる、広々と重厚な石の上がり框で旅の靴をぬぐ。中居さんに案内されながら玻璃硝子と木の廊下を歩くと中庭がみえた。一本の枝垂れ桜が筑波石の水へ静かに花びらを散らせている。初夏とともに山の遅い春がぼくを出迎えてくれた。



 明治二十一年創業の伊藤屋に島崎藤村は昭和三年(一九二八)から十四年ごろまで通ったという。藤村は晩年を飾る大作小説『夜明け前』を中央公論誌上で連載してい、年四回の〆切のあとには数日、伊藤屋で骨休めするのを慣いとした。湯河原での保養は、妻静子と医師の薦めもあったという。大正十二年(一九二三)に藤村は執筆の過労から脳溢血でたおれていた。
 襖を開けて客室にとおされると、島崎藤村が泊まったという部屋は田舎の祖父の家にタイムスリップしたかのよう。本間十畳、玻璃窓の間六畳、化粧間二畳半の和室は年古りた木の鴨居、柱、欄間、床間に軸がかかり、どっしりとした大座卓とふかふかの座布団。液晶テレビ以外は現代の物がみあたらぬ。迎えの煎茶と小梅堂の和菓子をいただき、ボストンバッグから島崎静子編『藤村 妻への手紙』(昭和四十三年、岩波書店刊)をとりだした。藤村の旅の高揚は「昭和三年十二月十二日」の葉書からも聴こえてきた。

昨夕がた馬車を雇ひて田舎を味ひつゝ湯河原に着。けふは暁に入浴を試みしに殊に好し。きのふの陽気に引きかへけふは晴れなれど寒し。終日静座且読書。明日は午後発夕景には帰宅。土産話はその節に。十一日。さすがにここはまだ紅葉が残つてゐます。
島崎 春樹


 ああ、「馬車を雇ひて田舎を味ひつゝ」なんて、とても好いなあ。明治四十三年(一九一〇)に人夫の曳く人車鉄道を改造した小型汽車一輌の軽便鉄道が開通したが、駅から温泉場までは馬車で往来していた。写真資料をみると、当時の湯河原温泉場は田畑と雑木林にかこまれた「田舎」で鄙びた風光がひろがる。箱根、熱海、小田原へゆくのも飛脚のはこぶ駕籠が唯一の交通手段であった。
 藤村の音信を読むぼくは羨望を禁じえない。明治期の本館はしんと静まり、夏に紅葉するという珍かな楓の葉叢で窓辺は国道から籠ってはいるが、時折、路線バスやハイブリッド車の騒音が侵入する。これが、ぱかぱか、という馬車のたてる小気味良いリズムであれば…。室内をみたす想像の蹄鉄音に耳を澄ますと、こんな昔の旅情からも藤村のポエジーは生まれたのではないか、と愉しくなる。

 夕景もちかづいたので、さっそく、湯を浴びにゆく。内湯は豪勢な岩風呂だった。伊藤屋の源泉は正面すぐの国道をはさんだ千歳川縁にあるという。泉質は塩化物・硫酸塩泉で無臭透明。源泉を外気で冷ましてはいる温泉で、ナトリウムとカルシウムを豊富にふくんでいるという。体の奥から息を吐き、「これが藤村の浸かった湯かあ」と呟きながら、ゆっくり心身を湯に沈めてゆく。清らな湯は絹のごとくやわらかく、肌にやさしい。温まり心地もゆっくりで血の巡りもじわじわよくなり、執筆のせいで凝った肩もかあるくなった。
 湧水で喉を潤し畳の休憩場で緑風に涼みつ、すりきれた岩波文庫版『自選藤村詩抄』を繙く。湯河原にあわせ「月光」を読む。

   さなぎだに露したゝるゝ
   深き樹蔭にたゝずめば
   老いずの夢にたとふべき
   夜の思に酔ふものを
   月の光のさし入りて
   林のさまぞ静かなる

 これほどの詩の諧調は夕餉の酒でも汲みながらでないと、読むのがもったいないゾ。新体詩の七五調にのって「さなぎだに」、ひとしお濁音と「ゝ」の露が「したゝるゝ」が、引用三行目「夜の思(おもい)」からふと文字と音の靄は晴れ、「月の光」の澄んだ声音がさし入ってくる。浄らなイメージと伴奏する日本語の音にも、そんな作曲の企みがなされている。
 日本語は音のストレスが微弱で、インド・ヨーロッパ語族のように音の強弱を活かした踏韻の叶わぬ言葉である。詩の近代化をおしすすめるにあたり、明治の詩人たちは詩と散文を異化するため、万葉歌や江戸俳諧など伝統詩の七五調を外在律として導入するほかなかった。外山正一や北村透谷らが西欧詩の近代的イメージ、引喩、象徴詩の技法をとりいれながら日本の伝統詩からの離脱を図したのにたいし、藤村は日本的抒情に深く根ざしたまま日本語詩に新たな変曲をくわえようとした、とぼくは推察する。



 客室にもどると中居さんが見計らったようにあらわれ夕餉の支度をしてくれた。風呂上がりの瓶ビールをごくごく呑みしとどに汗をかくぼくをみて、中居さんは「うちの温泉は汗をだしきって元気になるお湯なんですよ」という。玻璃戸をあけると、宵口の車道は静かで、千歳川のせせらぎと若葉の香がそよ風にのってはいってきた。
 宿の懐石料理には、地元の山と海の幸がふんだんにつかわれていた。ささ付には、こごみ豆富と田螺の煮つけなど。まずは地酒の「花さがみ」純米吟醸で、島崎藤村氏に献杯し、ぼくも頂戴した。藤村を偲んで、盃は南宋の砧盃を仕覆し持参。お造りは真鶴港揚がりの本鮪、真鯛、墨烏賊など。煮物に旬の若竹煮がでたのがうれしかった。ご飯と留め椀にも、竹の子ご飯と赤だし汁がでるという。強肴は藤村も食したという相模地鶏の「とり鍋」を事前に注文。鰹、こぶ、若鶏の出汁、地野菜、醤油、酒だけで炊かれた、澄んだスープの簡素な鍋料理。中華の技も感じつつ鶏の滋味を深々と吸う。旬菜の旨味と滋養をひきだした懐石料理は湯あがりの心身に善く、華美ではないが上品で、藤村の好みに適ったのではないか。
 伊藤屋には明治期からの宿張が遺されており、「島崎様」と墨字で題された頁には、藤村が注文した品々が記録されている。食物でいえば「にもの」、「とり鍋」、「おむれつ」など。そういえば、「簡素」とは、藤村が好んだ言葉だったと思い出した。
 のこった酒を口にはこび「月光」のつづきを読む。すると、中居さんと番頭さんがまた襖向にあらわれ「ご面倒ですが、今晩は雨がつよくふりそうなので、客室の雨戸を閉めさせてください」という。随分と丁寧なことだなとおもうと、なんと雨戸まで旧式の木の立戸であり、二人掛りでがたがたと戸袋を鳴らしながら設えはじめた。ぼくは内心、明治の木造旅館の情緒が味わえたことに歓んだ。

   緑を洗ふ白雨の
   すぎにしあとの梢には
   清みたる酒の香に通ふ
   雫流れてにほふらん

 たえまなく聴こえていたせせらぎにまじり、やわらかな雨音がしだした。その音が、地酒にも通い馥郁と香りだす。すると、今年初めて聴く、河鹿の聲がたった。詩的言語とはじつに不思議な存在だ。伊藤屋での時の流れとともに、藤村の詩の意味と影像、音とリズムがぼくのこころと理解のさらに深いところへと滴り着く。それは書斎で詩集のページをひらいているだけでは、とどかない理解ではなかろうか。まさに「雫流れてにほふらん」。そして、なぜか、詩の言葉は現実を予言し、いまに招き入れることがある。今宵の白雨の酒のように。学生時代に初めてこの文庫版詩集を手にしたときから、恰も今夜のいまこの瞬間が決定していたかのように。酔心で「月光」を読むうち、文庫本を手にしたまま夢に落ちていった。
 翌朝、ぼくは藤村に倣い「暁に入浴」をためしてみた。だれもいない半露天の石風呂には、湯煙と藍闇が漂っていた。朝一番の陽の輻がはしると小鳥たちが歌いだし、庭石のように巨い御影石が湯底できらきらと耀いだした。朝湯の熱さが肌に沁み、世界とともに五感もめざめるのがわかった。『藤村 妻への手紙』によれば、藤村は「毎日の日課としては午前は読書、これでは勉強に来てゐるのか保養に来てゐるのか分からぬほど。午後三時より散歩」(昭和十三年十一月十一日)という逗留だったようだ。たっぷりの朝食(残念ながら「おむれつ」はでなかった)をいただいたあと、往復一キロ半ほどの藤村の散歩コースを辿ってみた。



 千歳川の上流へ国道七五号をのぼり、夏目漱石の散歩路でもあった不動滝をめざす。新緑につつまれた川縁の遊歩道には太鼓橋が架かり紅が映えた。賑々しい温泉観光地ではなく山の閑静を湯河原は大切にしてきたようで、大型ホテルもほとんどない。木と粕壁の日本旅館が列ぶ路地を折れ歩く。そんな「相模の小京都」の風情を文人画家たちは好んだようだ。万葉公園への遊歩道にはいる。方々の藪で姿なき鶯らが競うように鳴いてい、青竹の道に漱石や藤村ら湯河原ゆかりの文人画家の碑が道祖神のごとく列んでいた。
 こんどは藤木川沿いに国道七五号をあがってゆく。廃れた木賃宿の列ぶ山道は狭い谷戸になりいつしか参道となり、石の鳥居をくぐって茶屋をすぎるとむせかえるような緑の奥処に滝の白糸がみえた。漱石が『明暗』で描写した不動滝が、いまもかわらずそこにあった。



 山の霊気に湿り苔むす石段を踏みしめのぼると竹、楓、欅、橅、櫟の若葉がかさなりあいずれながら、翠緑に透けた木漏れ陽をやわらかく掌にふらせた。樹々のステンドグラスは「光もいとゞ花やかに」。藤村の詩の月光は、湯河原の朝にも華ざやかにふりそそいだ。

   木下に夢を見よとてか
   林の夜の静けさは
   暗きに沈む樹々の葉の
   影の深きによればなり
   おぼつかなくも樹の蔭の
   闇の深きに沈めるは
   緑に煙る夜の月の
   深き木枝をもれいでて
   光もいとゞ花やかに
   さし入る影のあればなり

 この詩を書いた十七年後に島崎藤村は『平和の巴里』で、クロード・ドビュッシーその人による「月の光」のピアノ演奏を聴き「蘇生つたようになつた」と記す。ぼくは湯河原の樹々の教会堂が奏でる光の音楽と、藤村の言葉の音楽を胸に響かせ遊歩をつづける。
 島崎藤村が第三詩集『夏草』を自費出版したのは明治三十一年(一八九八)、二十六歳のとき。明治女学校教師時代の教え子にして恋人の佐藤輔子が遠く札幌で夭折し、詩友の北村透谷が自裁したのち、藤村は仙台へと単身赴任しこの詩集を草した。若き詩人は実家に近い木曾福島の高瀬家に寄寓して初稿を編んだが、仙台での海と山と陽光の日々は、藤村の暗い人生のなかでもめずらしく静かにあかるんでいた。翌年、藤村は小諸義塾に赴任し秦フユと結婚。三人の子に恵まれ、小説家を志し明治三十七年(一九〇四)に『破戒』を書き下ろして自費出版している。『破戒』は夏目漱石から激賞されるが、家族に強いた貧困により娘たちと妻フユが栄養不良のため死去。藤村は小説『芽生』でその様子を臆面もなく描出したが、志賀直哉からは怒りも顕に糾弾された。そして周知のように小説『新生』及び朝日新聞上で、藤村は姪こま子を妊娠させたことを世間に告白。日本でも初めてメディアと文学が戯れ演じたスキャンダル、所謂「新生事件」にふれた芥川龍之介は藤村を「老獪なる偽善者」と痛罵する。兄にしてこま子の父広助からも義絶され、藤村はまたも独り人目を忍んでパリへ渡航してゆくのである。
 そんな藤村にとり『夏草』は、藤村が青年であり詩人でいられた最後の詩集だろう。終生、藤村の意識は実際的な重荷でいっぱいだったが、無意識のこころには詩情が流れており、それは清浄を主調とするものだった。詩人という孤独な漂泊者を捨て、家長となり小説家の航路へ舵をきった藤村を、そうと浅く鑑て得心する識者もいる。もしくは草野心平のように、『破戒』以降も禁忌を次々破る藤村の小説とアクションをポエジーの別態として評価する詩人もいた。
 小説家島崎藤村は『夜明け前』の木曾旧家の封建的世界とそこで狂死した実父正樹の影から逃れるように、湯河原に通った。周囲の唾棄をすすんで啜り、自己と他者を試す生き方をつづけた。小説『春』の終章で岸本捨吉が「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい」と吐露したように。生とは無明のうちに過ちを犯しつづける業である。藤村はそのことを厭わず真実を「簡素」に欣求して書き、生きた。瑕疵なき人生がけして幸福ではないように。
 にしても、藤村はなぜ詩人を棄てたのだろう。小説執筆から解放され「木下の夢」のごとき湯河原に憩う老小説家は、そこで内なる若き詩人と密かに逢っていたかもしれない。その「老いずの夢に」。

(取材協力 伊藤屋)

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