フランシス・ジャムのバスク──秋の風はオリーブのように苦いではないか

フランシス・ジャムのバスク──秋の風はオリーブのように苦いではないか

詩への旅

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詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。

フランシス・ジャムのバスク──秋の風はオリーブのように苦いではないか

石田瑞穂

詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。


   だがぼくは、ぼくの想いが思っていることを知らない。
   ぼくは夏休みのある静かな日に生まれてきたのだろう。
   木苺が従姉の白い花をつけていた頃だった。
                   フランシス・ジャム「第二の悲歌」より



 ペイ・バスク(Pays Basque)、その地名の響きは、切ない花の香をはこんでくる。苦いばかりのぼくの半生で、この旅の記憶だけは、かけねなしに幸福で、いまも夢の繭につつまれている。
 パリから遠くはなれたフランス南西部、ミディ・ピレネー地方。欧州の背骨のピレネー山脈西部、フランスとスペイン両国にまたがる一帯がバスク地邦である。おもわず、邦、と書いたけれど、バスクはフランスのなかの異邦ともいえる、独自の文化風習を守りつづける地域。フランスとスペインのはざまにあって両国から侵略をうけつづけた歴史は、ペイ・バスクに独立不覊の気風をはぐくんだ。
 たとえば、公用語のバスク語。ここでは現在も地名などの公共表示はバスク語とフランス語が併用される。バスク独立運動を支持したピカソやヘミングェイもかぶったバスクのベレー帽子、ベレ・バスク。日本の手裏剣を想わせるバスク十字架や赤唐菓子のチーズ。
 大西洋岸の広大な白砂のビーチとピレネー山岳地帯、海と山にめぐまれた風光明媚なこの南国は、美食も豊富で、ポエジーがぎっしりつまった旅心の宝箱だ。詩人北村太郎も訳したミステリ作家トレヴェニアンの傑作『バスク、真夏の死』は、バスクの日々をこうえがく。「くる日もくる日も、日中は抜けたような青空に白い雲がのどかに去来し、ラベンダー色の長い宵のおとずれとともに生き返るようにさわやかな風がそよいで、それからまた小鳥のさえずりと、斜めにさしかける黄金色の陽光で朝がはじまる…」(町田康子訳)。


 パリから車で四時間半、ナポレオンがひらいた大西洋岸最大の海辺の保養地バイヨンヌで一泊。翌朝、ぼくらはピレネー山中を車ではしり、スペイン国境ちかくの山村にたどりついた。
 バスクのちいさな村アイノア(Ainhoa)は、バスク民家の村として知られる。村のほとんどの住宅が14世紀から18世紀までの石造りの家で、純白の壁に真紅の窓枠、木骨、屋根というバスク地方固有の民家だ。黄緋に紅葉をしたたらせるウルシやプラタナスの樹々を縫って、石畳の道に白と赤の調和のとれた軒並みがつらなる村は、静謐な海に沈んだ星灯のようで、ほんとうに美しい。
 ぼくはブールジュのギヨー夫妻の家でひと月にわたり詩を執筆していた。滞在のあいまに、ベルナールとニコルがぼくと妻をバスクへの旅に招待してくれたのだった。「フランスにはきれいな中世の村がいくつもあるけれど、ここアイノアはまた格別だね」というと、バスク出身のニコルはうれしそうに、「秋のアイノアはフランスのルビーともよばれるの。あれ、なんだかわかる?」
 ニコルの指先を視線でたどると、どの家の海老茶色のバルコンにも、まっ赤に熟れた唐辛子の束が干されていた。ここでもバイヨンヌでも、赤唐辛子とバスク十字架の意匠の看板があたら目につく。「バスクの唐辛子は有名なのよ。暑い土地だから料理にもつかうけれど、ああして家の壁に赤唐辛子を吊るすのは魔物や悪い妖精を祓うため。あと、それから…赤唐辛子はバスク人の精神を表す象徴なのよ」
 物静かで非社交的、素朴で誠実なあまり不器用、それでいて、心の奥底に情念の炎を優美に燃やしている……。ニコルはそんなバスクの女性だ。ぼくは、彼女に似た詩の言葉を知っている。

   ぼくのことはもう気にしなくていい、気にしなくていいのだ
   「秋を思い出させる」一つのやさしい名前が昔あったが。
   おお、恋人よ、ぼくはおまえを愛している。でも訊いてはいけない……
   あの晴れやかなサフランとばら色の茸を見るがいい。
   澄みきった丸い露の粒が光る
   暁の苔の上を軽やかな足取りでいくがいい。




 羚羊よりも長い山男の髭、頭にはどんぐり傘のようなベレ・バスク。スマートなパリの詩人にくらべ、浅黒い肌とエキゾチックな顔だち。フランシス・ジャム(Francis Jammes)は、科学と近代精神の時代、一九世紀末のパリの夜空にマラルメ、ヴェルレーヌ、ランボーといったフランス象徴派詩人の綺羅星が輝くなか、ピレネーから一歩もでることはなかった。バスクの泉のように清新で渾々と湧く生命の水面そのままに、若きジャムの言葉の音楽はマラルメをも悦ばせたが、詩人が生涯で書いた詩題は、バスクの自然、神への信仰、村の人間模様、苦い恋愛、短い旅行のみともいえる。
 ジャムが牢固な地方主義詩人だというつもりは毛頭ない。日本では堀辰雄や立原道造といった文士がジャムをこよなく愛したけれど、ぼくも、堀口大学訳『月下の一群』を手に青梅や軽井沢の山をさまよったものだ。ジャムの詩とその韻律は、東京の情報と商品とテクノロジーのせまさから、ぼくをその外へと誘いつれ去ってくれるポエジーを秘めていた。「森の落葉の上に、舞いながらさらに降りつもる枯葉の/乾いて胸痛むやむことのない音を、初めて聞く気持ちで聞いてごらん」というように。

   ぼくがいま愛しているのはおまえだけなのだから。ほら、
   北の国から来たつぐみが赤い秋をついばむ音が聞こえるではないか。
   それに、秋の風はオリーブのように苦いではないか。

 クリスチャンではないぼくが、ジャムの信仰について語れることはあまりない。『桜草の喪』は、若き詩人が暮らしたテルオーズで恋に落ちた奔放な少女「マモール」との悲恋を詩う第二詩集だ。そして、その詩のもつ自然へのまなざしは、イメージ、象徴、脚韻、音階、音綴数にいたるまで、自然とマモールと神への平等な愛、崇拝、信仰に浸潤されている。自然と少女と神の三位一体は、野原に百合の花がえがく紋章や、ざりがにの薄い青灰色の鎧に、あまねくあらわれる。なぜ、「秋の風はオリーブのように苦い」のか。日本語の内には存在しえない四季を詩うこのフレーズは、幼少のころからピレネーの深山に暮らし、樹木や雪とともに遊び、バスクの生命を食べ、自然への知識と観察眼を研磨しつづけたから書きえた一行だろう。
 でも、それだけじゃない。

   ぼくはつつましく咲く唇に似た菫を眺めた。
   秋なのにまるで五月のようだ。
   きづたがぼくにほほえんでいる。

 ぼくがジャムの詩の言葉に惹かれる理由。それは、詩の言葉が自然や物たちのまえでひざまづいているから、だとおもう。
 たんに自然や物を写生する文学ではない。石壁の透き間に咲くちいさな紫の星や、荷車で朽ちかけた木靴や、われた瓶からおだやかに流れでる緑色の光、百合の蕚の香りのする胸のまえに、詩の言葉がひざまづいている。言葉は、自然や事物を初めてふれる奇跡のようにさわり、万物を幼い知性へ橋架けるよう注視し、嗅ぎ、形質をたしかめるうち、存在そのものなかに移り棲む。ひざまづくことが流離うことでもある言葉の力を秘めているから、だとおもう。
 その無にひとしい力こそ、自然のみならず、人をして歴史や社会を新たな力でためつすがめつさせ、さわらせる。世界を新生へ惹きこむ言葉の感触は、人をべつの彼方へいざなうこともあるだろう。秋風とオリーブのはざまに実る爽快な音符を初めて聞く気持ちで。



 「詩人は詩人に会わなくちゃね」
 ニコルにさそわれ、山肌に建つ古いバスク民家に招待された。重々しい胡桃のドアのまえで、銀髪がやさしげにほつれた小柄なマダムと、ベレ・バスクにサングラスをかけた長身のムシューがぼくらを迎えてくれる。
 サングラスの老詩人をここではX氏とよぼう。なぜなら、「彼はね、バスク独立運動の中核的な闘志だったの。だから、いまでも警察や過激派にめをつけられてる。命の危険さえあるわ」と、詩人の妻は語るから。無言でほほ笑む元闘志のサングラスの奥、彼の左眼のうえには深い楔形の傷があった。どうやら、左手も義手のようだ。
 マダムは煤けたように黒光る曲梁と漆喰壁の家を案内してくれ、何代も受け継がれてきたバスク家具の食卓や山毛欅細工の箪笥、野生馬の画かれたバスク織をみせてくれた。家と家具が重ねあわせる静穏が、小柄なマダムと元闘士の詩人のいまをささえている。
 そのテーブルで、焼きたての伝統菓子トゥーロンをごちそうになった。ガトー・バスクは、裏山に自生する桜桃からつくったジャムとカスタードをいれたもの。黒にちかい紅茶につぶした木苺を溶けこましながら、詩人に自作詩の朗読をたのんでみた。闘志はふたたびほほ笑んで、山鳩そっくりに、ゆったりと首をふる。



   もしおまえがありのままのぼくの心を受けとりたいなら
   緑濃い夕べ、菩提樹の下にそれを探しに来るがいい。
   雨の降りつづいた夏の夕べ、
   あの小さな村の牧場に眠る大水の
   水路を開けに行く人たちの列を、悲しくただ一人で、
   ぼくが窓から眺めていた月がまた戻ってくる。

 夕闇が麓へも薄く漂いはじめたころ、山をこえて飛ぶヒバリの群とともに、村のちいさな食堂「イチュリア」(Ithuria)へ車を飛ばした。店内には、すでに、ニコルの親戚たちが席について歓待してくれた。すると、ベルナールが解説してくれる。「バスクの伝統的なビストロにはテーブル席がないのさ。家族も恋人も赤の他人もひとつのおおきな食卓とベンチについて、おおいに呑み、しゃべりまくる。とっても、うるさいんだ!」。バスク十字架が描かれたボウルと林檎の蒸留酒サガルド(Sagardo)、地ワインのボトルがまわされると、大声で乾杯。店は藁と炭火のグリル料理が得意だそう。ぼくはアショア(Axoa)をたのんでみた。新鮮な魚介と玉ねぎをきざみたっぷりのにんにくと赤唐辛子でコンフィした伝統料理。それと、絶品、仔牛のハチノスの炭火焼。



 六五歳のニコルが注文したのは、なんと、1kgのピレネー産牛骨つきステーキ。皿のうえでじゅうじゅういう巨大な肉塊は、店の山男たちの足よりおおきかった。昨晩から黙りがちで、ほとんどなにも食べようとしないニコルを、ぼくらは心配していたのだが。「ニコルってば、これを食べるためだったんだね! 親戚たちと食べるステーキは、ニコルにとってふるさとの味。年一度の大切な儀式なのさ」と、あきれ顔で笑うベルナールと妻。
 バスクの女は、1kgのステーキを、じっくり一時間かけて完食したのだった。



注記:文中のジャムの詩作品「第二の悲歌」は、すべて、手塚伸一訳『フランシス・ジャム詩集』(岩波文庫)から引用しました。

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