詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
金沢を初めておとずれたのは吉田健一の小説『金沢』への憧憬がきっかけだった。ちょっとまとまった原稿料がはいるとそれを懐に東京駅から格安夜行バスにとびのり、車内でウィスキーの小瓶をちびちび呑りまどろみながら薄明の富山をすぎ早朝には雪の金沢に着く。
寺町の〈つば甚〉というわけにはいかなかったけれど、当時、浅野川のほとりにあった元置屋の旅籠で寝起きした。昼は泥鰌の蒲焼で〈菊水〉を呑み、宵は茶屋街の晩菜屋で呑み、それ以外は街をひたすら遊歩する……。
けれども、いつしか、ぼくにとっての金沢は室生犀星の詩とともにあった。犀川べりの「犀星のみち」を散策しながら大正七年(一九一八年)に感情詩社から上梓された詩集『抒情小曲集』を繙き、にし茶屋街の小暗い路地をさまよい犀星さんの小説世界に浸る……。
今回の金沢への旅は、若いころのようにはゆかず、自宅の最寄駅から新幹線で。二〇一五年に北陸新幹線の高崎駅−金沢駅間が開通してからは、金沢への距離がぐっとちぢまった。最寄駅から直通、片道二時間弱でゆけるようになったのである。以前は、上越新幹線で富山駅経由だったから、金沢駅へは片道四時間ちかくかかった。
金沢市街の東へも西へもアクセスしやすい金沢城公園そばの高層階ホテルにチェックインすると、さっそくタクシーでひがし茶屋街へ。北大路魯山人も讃じた料亭宿〈山乃尾〉で昼食。鰻の朴葉包蒸で旅のはじまりを祝い盃をあげる。きもちよく酔ったら、ガス灯の燈った大正ロマン漂う美しい眼鏡橋、浅野川大橋をわたって泉鏡花記念館へ詣で、骨董屋をひやかしつつ、柳宗理デザイン研究所で金沢のモノづくりを観覧。つぎは本多町の鈴木大拙館へ。谷口吉生の建築空間を愉しみつつ静かな思索の時を味わう。禅室のベンチではノートに詩が生まれる。その流れで、吉生記念金沢建築館へ。日本の古今の諸芸術が合流する金沢は大人の遊園地だ。
それから、ようやくタクシーで百万石通りから南大路を下り、犀川大橋へ。中川除町で降車し、犀星のみちを三年ぶりであるきだした。
温暖化のフェーン現象で靄ってはいたけれど、起伏に富んだ河の上流には白山連峰のシルエットもみえる。河と古街を吹き過ぎる風が槐の葉をここち好くゆすり、ササゴイが浅瀬にゆうゆうと飛来して魚を漁っていた。
大正八年(一九一九年)八月「中央公論」誌に掲載された最初の小説「幼年時代」の冒頭で、室生犀星は全国の読者に、北陸を流れる犀川を愛おしげに紹介した。
犀川は水の美しい、東京の隅田川ほどの幅のある川であった。私はよく磧へ出て行って、鮎釣りなどをしたものであった。毎年六月の若葉がやや暗みを帯び、山々の姿が草木の繁茂するにしたがってどことなく茫々として膨れてくるころ、近くの村落から胡瓜売りのやってくるころには、小さな瀬や、砂利でひたした瀬がしらに、背中に黒いほくろのある若鮎が上ってきた。
実際の犀川は隅田川ほどの大川ではない。でも、このくだりは、東京千駄木で小説を書きはじめた犀星さんにとって、犀川のおおきな存在感を物語るようで印象深い。
ぼくは犀星のみちのベンチにすわり、すりきれた文庫本をポケットからとりだす。ぼくの金沢旅行の儀式。『抒情小曲集』の頁をひらいて、詩篇「犀川」を早瀬の音楽にのせて口遊んだ。
犀川
うつくしき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に坐りて
こまやけき本のなさけと愛を知りぬ
いまもその川ながれ
美しき美風ととも
蒼き波たたへたり
この詩をちいさく声にだし、その言葉を瞳でおって想う。犀星さんにとっての犀川はかけがえのないパラディッソだった。
詩師北原白秋、生涯の詩友萩原朔太郎がともに讃えた詩集の自序に、犀星さんは「少年の日の交じり気ないあどけない真心[まごころ]」と記した。後述するけれど、詩人室生犀星の楽園とは「再び私にやつて来るものでもない」、少年の日に宿した幼い「真心」そのものであった。
文学少年だった犀星さんは犀川の水辺に独りすわり、白秋の『邪宗門』や注文購読していた文芸誌「スバル」に読み耽ったという。そこで「こまやけき本のなさけと愛を知りぬ」と書く犀星さんだが、書物からは読みとれる愛情を養家からはえられなかったようだ。
全員が血のつながらない義兄妹たち。労力と養育費を目当に孤児たちを迎えたという義母ハツ……。
小畠弥左衛門吉種という名ばかり仰々しい、おそらくは下級武士の末裔の実父が亡くなると、犀星さんは幼くして寺町にある雨宝院住職室生真乗の家に養子にだされた。犀星さんは、生母も知らずに生涯を終えたという。
学校と教師になじめず十三歳で金沢高等小学校を退学した犀星さんは、義母に強いられ金沢地方裁判所に給仕として勤めるが、敬愛する友もできず、仕事への情熱もない。犀星さんには犀川の風光と言葉の河だけが、安住の家であり愛すべき家族であり友だったのではないか。
私の心はまるで新鮮な
浄らかな力にみちて来て
みるみる故郷の滋味に帰つてゐた
私は医王山や戸室や
又は大日や富士写が岳やのの
その峯の上にある空気まで
自分の肺に取り入れるやうな
深い永い呼吸を試みてゐた
そして家にある楽しい父母のところに
子供のやうに あたたかな炉を求めて
快活な美しい心になって帰つて行くのであった
(「犀川の岸辺」部分、『愛の詩集』より)
言葉の宇宙に、いや、ポエジーとしてのみ、幸福な父母や「あたたかな炉」が実存しうることを、若き詩人室犀星は痛みとともに悟ったのであろう。
そして犀星さんにとって詩を綴る行為は、文学的野心が書く〝作品〟ではなくて、人が人らしく生きてゆくために必須な「浄らかな力」、詩という言葉の高みに漲る清浄な大気を「自分の肺に取り入れるやうな/深い永い呼吸」を試みる、切実な瞑想だった。
犀川の音まで澄みきったせせらぎを耳にしながら詩を声にだすと、その言葉がふるさとの水音に里帰りするかのよう。日本語の詩歌が韻律の定型をもつのは、歌の歴史によって鍛錬されたためばかりでなく、日本語の韻律自体がもつ詩、その秘めやかな音楽が散文化からはずれて保存されつづけてきたから、ともいえよう。
室生犀星の文筆家修行は句作からはじまった。けだし、そのこととはべつに、詩人の奏でる日本語の音楽が、口語体で書かれた自由詩でありながらつねに古歌の音影を宿しているのはこのためではなかろうか。日本語の河のせせらぎを聴きつづけた犀星さんだからこそ、たっぷり文語を汲んだ口語が、詩にも小説にもペン先から滴りつづけたのである。
また、青年らしく自暴自棄な反抗よりも清廉な力を欣求するあたり。「うつくしき川」のごとく浄らかなしらべに伏流する、犀星さんの絶望の深みを聴きとるべきだ。だから犀星さんを国民詩人にした、
ふるさとは遠きにありて思ふもの
という「小景異情 その二」の名高いフレーズを誤解してはなるまい。詩人室生犀星にとって、温かな感情でふりかえることのできる「ふるさと」は端から存在していない。それは手を浸せば指が千切れるように冷たく雪(すす)ぐ犀川の瀬のごとき「ふるさと」だったろう。ナイーヴな望郷ができる生い立ちではないのだ。
肉親の愛を知らぬ犀星さんは、日本語に潜む手ざわりと温度、息、音片、韻律を必死に積みかさねることで自分本来の生地と家族を紙のうえに構築しようとした。そこは「帰るところにあるまじや」。「遠きにありて思ふ」ポエジーによってのみ、犀星さんの「ふるさと」は望見しうる。
犀星さんの描く堀武三郎はもとより、泉鏡花も記すがごとく、かつての加賀藩には河師という役職もあった。川魚漁師のことだが、帯刀も許されてい、名の知れて清らかな淵や瀞を泳ぎ捜っては、目の下一尺以上の鮎、山女魚、川鱒を漁り献上したそうな。海から川を上り、身からほどよく潮気のぬけた鱒は藩内でも珍重され、笹で美しくつつまれた〈ます鮨〉は現在も金沢の特産である。犀星さんも詩や小説で、犀川の清水で醸す酒〈菊水〉にいいおよび、犀川で汲む閼伽水で茶をたてる。
鏡花文学においても清水の湧く池や淵は妖と人の境界が消失し、両者がまみえる澄んだトポスであった。『天守物語』の妖「亀姫」なぞ、犀川や手取川に潜むという人取(ひととり)亀伝承を想わせよう。それほどまでに、古の「犀川は水の美しい」河川であり、その清らかな流れに金沢文士の詩想は培われてきたのであった。
犀川は犀星さんに、言葉の河をあたえるのと同時に、じつの父母にかわって、水という生命の根源を注ぎこんだ。そんな水の想像力を文学とともにはぐくむことで、詩人室生犀星は誕生し、人として生きる力をえたのではないだろうか。
犀川から十分ほど下がったところが、金沢寺町。寺町の一劃をなすいまの千日町に、犀星さんの暮らした真言宗雨宝院がある。
金沢における寺町は「忍者寺」としても知られる妙立寺を中心に、加賀藩三代目藩主前田利常が、金沢城の守りを固めるため、兵舎がわりに造成した寺院群だとか。
だからか、寺町はぎくしゃくと入り組んだ細路地をお寺と下級武士や足軽の屋敷が高塀で囲み、隣近所が容易に見渡せないようになっていた。線香が漂い、念仏が聴こえて落ち着きはあるけれど、どこかしら昏く息のつまる界隈。そこで幼少の犀星さんは貧乏藩士の子孫らと遊びまわり、感性の土台を築いた。小説「幼年時代」にも、
私どもの市街の裏町のどんな小さな家々の庭にも、果実のならない木とてはなかった。〔中略〕塀のそとへ枝垂れ出したのや、青いけれど甘みのある林檎、雪国特有のすもも、毛桃などが実った。私どもはほとんど公然とそれらの果実を石をもって叩き落としたり、〔中略〕そうした優しい果実を掠奪してあるくための七八ずつ隊を組んで裏町へでかけるのであった。それを「ガリマ」と言っていた。
という遊び心も活々とした描写があり、ぼくもわくわくしながら犀星さんのちいさなギャング団「ガリマ隊」の幻をおいかけ寺町の路地を折れてゆくのであった。
関東では耳にしたことのない毛桃という優しい果実、ガリマ…犀星さんの小説の言葉は童心のうたに聴こえる。塀の上空に毛桃をさがしながら、こんどは室生犀星記念館のある野町、にし茶屋街へとあるきだした。
(次回につづく)