詩人石田瑞穂が一篇の詩を旅するように、国内外の詩人ゆかりの地を訪れ、土地と対話するように詩を読み、酒を呑み、また、呑む。読書と酒食に遊ぶ愉楽の紀行エッセイ。近現代の詩と詩人の魅力もわかりやすく紹介します。
岐阜県のほぼ中央にある、奥美濃の城下町郡上八幡。長良川上流の山紫水明の街であり、夏は鮎の友釣り、なにより、一月半にわたって毎夜おこなわれる郡上踊りでにぎわう古都でもある。
ぼくは、近年、京都や金沢よりも、この山峡の水郷を好む。
町の中心を吉田川が東西に流れ、南北を小駄良川、西縁にそって長良川が流れている。その三川の麗水をひいた用水路が、町のそちこちを迸る。用水路といっても、都会のそれとはくらべものにならぬほど浄く、鯉はもとより鮎、天魚、鮠なども泳いで町民や観光客の瞳をたのしませてくれるのだ。
だから、郡上八幡にはどこもかしこもさやさやときれいな水音が鳴りやまず、町全体がひとつの美しき水琴に聴こえるのである。
水はまさに町の生命線だ。古来、商業の町郡上八幡は水を中心に発展をとげてきた。水運問屋、鍛冶、染物、紙、林業、肴、酒、米雑穀味噌。いまも町の人々は家業と清水を守り、むかしとおなじ生活をつづけている。町内に新築西洋家屋はほとんどなく、本町、新町、職人町は古い木造の京町家がいならび、「いがわこみち」などの寛文年間に整備された用水で野菜を漱ぐ。永禄二年の東殿山の戦で遠藤盛数が山上に築き、稲葉、金森、青山氏と継がれてきた郡上八幡城をみあげ、蓮生寺や最勝寺の梵鐘をきいて時をからだに刻む。
ちょうど、ぼくが訪れた七月末の郡上八幡は、まさに鮎釣りの解禁期。長良川の清流に釣人らが一列になり、友釣用の長竿を垂直にたて、水平にかまえることをくりかえす夏の風物詩がみられた。
朝食後、水路のせせらぎの聴こえる町家のカフェでノートに詩を綴り、昼は山の温泉でこころとからだをほぐし、町内を散策。上田酒店の重厚な御店に腰かけ、極上の銘酒「郡上踊り」樽酒を呑みながら清水で冷やしたトマトやキュウリを齧る。夕刻は、吉田川の麗水で地ビールを醸す「郡上八幡麦酒こぼこぼ」でエールをひっかけ、老舗鰻や「魚寅」でまた一杯。こんな、天国な日乗がつづくなら、冷遇詩人でいるのも惜しくはない。
こうして、癒しの水郷には、おおくの文人、アーティストがおとずれ、居ついてしまうことになる。古くは松尾芭蕉、近代詩人なら野口雨情、作家の司馬遼太郎や立原正秋、現代では漫画家のさくらももこ氏。そんな文士のなかに、折口信夫も、いた。
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大著『古代研究』をはじめ特異な国文学と民俗学を展開した折口信夫は、釈迢空の号で歌や詩を綴り、小説『死者の書』を筆した。
釈迢空の詩歌の足跡が、じつは、ここ郡上八幡にもある。
川に岩崖がおちこんでできた狭所を、西日本ではホキとよぶことがおおい。吉田川右岸にある旧庁舎の明治洋館をすぎ、八幡橋をわたると、川と郡上八幡城、八幡神社、善光寺の建つ崖にはさまれた桜町と柳町のあいだにある細い崖下道、旧小坂歩岐にでる。山肌から湧く清水が一年中、した、した、した、とこぼれ濡れ蔭った奥処に、神農薬師、折口信夫歌碑、馬頭観音が祇られているのだった。
春夏秋冬乾くことがないという苔におおわれた黒石の歌碑には、釈迢空の流麗な草書体でつぎの一首が篆刻されていた。
焼け原の町のもなかを行く水の
せ々らぎ澄みて秋近づけり
つくつくほうしのふるカウンターに腰かけノートに書き写しているだけでも、和歌のこまやかなしらべと感受にのって情景がありありとこちらの心身に吹きわたってくる歌だ。この歌は「郡上八幡」と題されてい、釈迢空の代表的な詩歌集『海やまのあひだ』に、つぎの六首とともにおさめられている。
ゆくりなき旅のひと日に、見てあるけり。
家亡びたり山の町どころ
町びとは、いまだ愕くことやまず、
家建ていそげり。焼け原の土に
焼け原の町の庭木は、幹焦げて
立ちさびしもよ。山風吹くに
夕されば、丘根吹きくだる下風の
青葉散りわたる。焼け土の原
青山の山ふところにほこり立ち、
夕日かすめり。焼け原のうへ
山の際にほこりたなびき、うらがなし。
夕日あらはに、町どころ見ゆ。
枕に、「八月末、長良川の川上、郡上の町に入る。この十二日昼火事で、目抜きの街々、家、千弐百軒が焼けていた」とある。
大正九年(一九二〇年)七月に折口信夫は信州松本市教育会で講演。その後、中房温泉に逗留して美濃中津川へ出発。新野、遠江奥山、山住、京丸などをへて大井川から静岡を踏破している。山間の民間伝承を聴き書きする旅であった。旅行は、後年、「木地屋の家」、「供養塔」、「夜」などの作品へと結実する。その旅の途中、折口は郡上八幡をおとずれたのだった。
ところが、折口信夫が眼にしたのは、前年の大火によって変わりはてた郡上八幡北町のすがた…。
岐阜県有数の商い地として発展をとげた町家と水路の美しい町は、昔も今も、工芸はもとより、詩歌、書道も盛んで、看板の篆刻などはどれも美事である。そんな町の象徴が「宗祇水」(そうぎすい)だ。
木戸をくぐり、石畳の坂をくだって右手、古い柳の木のたもとに清冽な水をたたえる石造りの水場とちいさな祠がある。ここに金森頼錦が建立した石碑があり、「千載白雲水 長流自冽清 歌成如有意 即是古今在」と漢詩が刻まれている。宗祇水には、頼山陽や江村北海はじめ、文人墨客が訪れて詩歌を遺していった。その歌仙をまく際、かつてはこの宗祇水で筆を雪いだという。いわずもがな、折口信夫こと釈迢空もそのひとりだったのだ。
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折口信夫の詩歌のおおくは、民話・民謡採集のフィールドワークから生まれた。それは、母校國學院大学の卒業論文『言語情緒論』ですでに記していたように「言語に現れた日本人の心の本質の追求」であり、詩歌への深い学問的興味、実践とわかちがたいものであった。そして、折口の詩心は、周知のように、国文学と民俗学における「貴種流離」、「まれびと」(稀人、客人)、「妣ヶ国」といった鍵概念をみいだした。
ぼくにとって、折口信夫の詩歌の魅力は、詩人が旅先で出逢った対象にひきずりこまれるようにして紡ぐ言葉のしらべが、旅情となってこちらを瑞々しく襲う感覚である。折口にとって旅は、たんに空間的な移動ではない。古錆びた祠や道祖神や物語にふれえたときに遥かな太古から「日本人の心の本質」がよびさまされてくる、「行きとどまらむ旅」の時間的な移動でもあった。
郡上八幡を訪れた折口信夫は「山のまれびと」として、歓待されただろう。しかし、大火に見舞われたばかりの郡上の町人は、歓待を枯らしていてもおかしくはなかった。それでも、歓待しようとする郡上八幡に、折口はまれびとをもてなす「日本人の心」の蘇りを幻視したのではないか。それが、郡上大火への鎮魂の歌となって横溢し、歌集にも零れ溜まった。折口作品中でも異色な鎮魂歌は、淡々と写生的ですらある。けれども、この七首を通じ味わう者は、郡上八幡を流れめぐる水のようなかそけきあはれに、心をゆさぶられずにはいまい。歌は、まれびとたる折口信夫も郡上八幡も、ひとしく「行きとどまらむ旅」を経巡る存在だと報せている。
吉田川の紺碧の水面にそってぶらぶら歩きつつ、そんな詩想に囚われていった。健やかに日焼けした郡上の童たちが、岩のうえからつぎつぎ瀞に跳ねこんで飛沫と歓声をあげていた。
気づけば今町まで歩いてい、郡上で三代つづく鰻や「魚寅」のまえにいた。岐阜を講演旅行した美食作家立原正秋も讃えた店だ。
瀟洒な造りの、鰻の香油で飴色に艶う木机におちつくと、若社長がご挨拶してくださる。「きょうはいい鮎がはいりましたよ。和良の天然鮎です」。
和良の鮎は稀少な天然鮎のなかでも、幻の鮎、である。
郡上市西部を流れる和良川でとれる鮎は、毎年、日本各地から約千尾がエントリーされる鮎コンテストで三冠に輝いたとか。
塩をふりじっくり煽られた和良鮎は、堂々とした背鰭を完璧な扇形にひらいてい、胸鰭のうしろの黄斑もあざやかで美しく、未だその鮮度を映している。鮎は、香魚、とも書く。和良の鮎はこぶりのしまった軀にほどよく脂がゆきわたり、ほっこりした身を口にふくむと、山瓜のような青い香がした。和良川の清流を元気に泳ぎ旺盛な食欲で藻を食べていた、一尾の若い鮎のすがたがうかぶ。
郡上の清水で醸す辛口純米酒で呑めば、こたえられない。
頭からかぶりつき喰らいつくした鮎の余韻にひたっていると、さきにたのんでいた鰻の「志ら焼き」がとどく。こちらの鰻は関西風。天然鰻を郡上の井戸水に二日間泳がせて泥をぬき、脂のノリを一定にする。その鰻を腹からさいて最高級備長炭でじっくり焼く。関東風は焼くまえに蒸すが、関西風は直火焼き。白焼きには仄かに炭がうつり、身の表はぱりっと香ばしく焼きあがっているが内はふっくらと瑞々しい。若大将は、炭の香が鰻を仕上げるのだという。
さいごは、鰻重で〆。タレと志ら焼き両方がのった贅沢な「あか白重」もあるが、ぼくは「うな重」を。創業以来八十年、毎日つぎ足しながらつかう本タレと新タレをまぜた辛口のタレで焼く鰻は、つやつやと炎のような赤銅色をして黄金に輝く。ぱりっと焼きあがった鰻は米と噛むほど香も旨味もます。やはり鰻は火の料理だな…と一人合点しかけ、郡上の麗水あっての魚寅の鰻、水の料理でもある…と呑みながら自問。なぜか、鰻は料理の総合格闘技などと勝手な自答におちつく。
店内は静かだ。客のだれもが鰻の旨さに沈思黙考している。ただ、木の箸が、かつかつと重箱をつつく音がただよう。
ぼくはこれを鰻重の音楽とよぶ。
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魚寅をでて、誰彼刻の吉田川ぞいに散歩しながら旧庁舎広場へ。今宵は郡上踊りの番外編「こども踊り」をやっているという。
薄闇が漂いはじめた広場の宙空には、五芒星形に五色旗という郡上雪洞が吊られ、山車のうえで着物を粋にきこんだ中学生くらいの少年少女が三味線や笛太鼓を鳴らして音頭をとっている。曲は「春駒」。
ア 七両三分の春駒 春駒
(ホイ)郡上は 馬どころ(ホイ) あの磨黒の
名馬(ホイ)出したも ササ気良の里
こども踊り、とはいえ、浴衣に郡上てぬぐい、郡上下駄といういでたちの大人で、踊りの輪は幾重にもかさなり波紋をえがく。
老いも若きも、かえしの唄う「は〜るこま、は〜るこまあ」にあわせて、こぶしをあげ、下駄で地を蹴る所作をくりかえす。
七月中旬から九月初旬にかけ三十三夜おこなわれる郡上踊りは、盂蘭盆中の四夜にわたる「徹夜踊り」が最高潮。「古詞かわさき」をはじめ、郡上節の十曲を踊りあかすが、威勢のよい手足の所作は全国の盆踊りでもめずらしい。反閇とおぼしき、日本の神道、仏教、古武藝、陰陽道にもつうずる所作だ。地をふみ鳴らして邪気を鎮め、豊穣を祈る。この足運びの呪法は、いまも、相撲のシコや歌舞伎の六法にうかがえる。実際、「郡上甚句」の下駄さばきは、右手右足、左手左足を同時にくりだす相撲甚句のナンバを想わせた。
さきの調査旅行により、山のまれびとの旅を実感した折口信夫は「翁の発生」や「日本文学の唱導的発生」といった国文学と民俗学の交叉路にある重要な文学論を展開してゆく。
かつて諸国遍歴をした遊行僧は聖とよばれ、まれびととして歓待され、訪問先に伝わる踊りや歌や物語によってもてなされた。それが、聖たちを介して遠地に伝播してゆく。しだいに、村外から訪れる客人は神仏格化され、まれびとをもてなすために祭りがおこなれるようになった。
宗教儀式としての念仏踊りは盆踊りや個人の風流踊りとなり、田舎神楽や旅の藝能者の発生をうながす。まれびとをもてなす歌謡や物語は、永い時をへて、言語芸術としての詩歌へと転生してゆく。
いみじくも、折口信夫は「自身の内部に良き魂を招じ入れることが鎮魂」と綴った。七月末の郡上八幡で、ぼくは、山のまれびとにして鎮魂者の折口信夫の風姿と、古来変わらぬ日本のもてなしを伝える郡上びとの輪とに、めぐり逢えた気がした。
ぼくもまたひとりの、まれびと、として。