【第1回】再開の弁 コロナ下で日本人を考える

【第1回】再開の弁 コロナ下で日本人を考える

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【第1回】再開の弁 コロナ下で日本人を考える

重金敦之

 コロナ禍もようやく沈静化の兆しが見えてきた。とはいうものの、第6波襲来の恐れが消えたわけではないので、手放しで安心はできない。飲食店の時短要請も解除され、居酒屋でも酒を飲めるごく当たり前の「日常」が戻りつつある。幾ばくかのゆとりが出てきた。蕎麦屋でもすし屋でも酒なしで席に座るのは、どうにも落ち着かない。お賽銭を上げずに、寺社へ参拝するような気がする。
 考えてみれば昨年の春から1年10カ月の間、ずっと落ち着かない日々を過ごしてきた。一年延期されたオリンピックとパラリンピックも、猛暑の中なんとか終わった。異例づくしのあわただしい衆議院議員選挙も結果が出た。自由民主と公明で過半数を制し、現政権が信任を得た。日本維新の会が現有勢力の4倍近い議席を獲得した一方で、立憲民主と共産は伸び悩み、立憲の枝野幸男代表は辞任した。岸田政権にとって、コロナ禍の好転が幸いしたのは間違いない。まだまだ諸課題は山積み、先行きは不透明だが、今回はひとまず措く。
 もう少し早くこのネッセイを再開するつもりだったが、かなり遅くなってしまった。年寄りの繰り言みたいな拙稿にも、待ってくれている奇特な人たちがいらっしゃる。ありがたいことだ。別にコロナ禍だけの所為にするわけではないが、なかなか世間が落ち着かず気ばかり焦りながら、鬱々悶々とした日々が無為に過ぎていった。
 タイトルを「鯉なき池のゲンゴロウ」から「マカロニの穴から豆腐の角(かど)を見る」に改めた。別に大した意味はなく、あれこれ詮索してみても始まらない。マカロニと豆腐が、突然に結びついた。昔から「葦(よし)の髄(ずい)から天井を覗く」(「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」と同義)という諺がある。だけども、あまり既存の「教え」にとらわれず、好き勝手に解釈していただければ、ありがたい。
 小学生時代、うっかりしたミスをしたときに、「そういうやつは、豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ」なる俗諺を恩師から教わった。「具眼の士」という言葉も教わった。教科の内容とは全く関係がない。雑談といえば、雑談、雑学といえば、雑学だ。現在の小学校では、こんなカリキュラムと関係無いことは教えないだろう。今の世の中だと、先生が生徒に向かって「死ね」とは何事か、と問題になるのかもしれない。


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 コロナ騒動で失った2年は、馬齢を重ねた身にとって、とてつもない損失だった。20代の若者の2年と80代の老人の2年では、その兎烏(うと)の重みが違う。
 重要火急な用事なんてものと縁遠い隠居生活だから、つい家に籠って書を開くか、テレビを見るかの2年だった。テレビ番組の多くは、やたらと騒々しいだけで、スポーツ中継かドキュメンタリーしか見るものがない。読書に耽ると未知なことが多く、時が経つのを忘れるのだが、同時に自分の勉強不足を痛切に感じ、ときには気が滅入ることもある。
 寺山修司が『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)を書いたのは1975年のことだが、今ならさしずめ「若者よ、スマホを捨てよ、書を読もう」と言うところだ。「書を読め」と言われても、「端(はな)から『書の世界』を知らない」のだから、話が通じない。「今どきの若い者は……」とは、なるべく口にしないように心がけている。しかし、水道の蛇口に手を出して、「水が出ない」という子どもを見たときは、びっくりした。バブルのネジを回すことを知らないのだ。蛇口に手をかざせば、センサーが感知して水が出るものと思いこんでいる。
 あれだけ猛威を振るった新型コロナウイルスの新規感染者の数は下降線をたどっているが、その理由がよくわからない。ちょっと気味が悪いくらいだ。一因として、ワクチンの接種が急激に進んだ点を挙げる人が多い。
 この感染者数の増減と内閣支持率は見事に連動している。もう少し早く回復傾向が見られたら、菅義偉内閣の手で総選挙が行われていたかもしれない。アメリカやイギリスの接種状況は、ある程度進んだところで「頭打ち」のカーブを描いている。日本ではひたすら右肩上がりで、ほぼ直線的に上昇している。他の国のように、ワクチンやマスクを拒否する動きが少ない。もちろん強制ではないし、副反応が予想されるため、打ちたくても打てない人がいるのは承知しているが、それにしても接種率は高い。
 理由の一つに、日本人の「従順」な国民性が考えられる。「和を以(もつ)て貴(とうと)しと為(な)す」の精神だ。「人並み」を重視する。悪く言えば、「付和雷同」「長いものにはまかれろ」的な、仲間外れを極端に嫌う性向がある。封建時代から引きずっている「泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ」の精神が今なお、続いているようだ。
 行きつけの理髪店に、「飛沫感染の恐れがありますので、『黙髪』にご協力ください」と張り紙があった。黙読、黙想などの用法から「黙食」とか「黙浴」なることばが用いられるようになったが、「黙髪」というのには初めて出会った。伝統文化の一つである「床屋政談」や「床屋談義」の否定だが、店長が櫛と鋏を動かしながら、こんなことを話しかけてきた。
「駅前にある横断歩道の信号が赤だったんですね。車が来ないので、渡る気になれば渡れたのですが、青になるのを待っていた時です。後から来た外国の人が、『あなたたちはなぜ車が来ないのに止まっているのですか? あなた、バカね』と言って、すたすたと渡ってしまったんですよ。思わず私たちバカなのかしら、と友達と笑ってしまいました」
「黙髪」はお客だけでなく、店の人にも協力してもらわないと意味がない。無視してもいいのだけれども、ちょっと面白いテーマだったので、次のような話で応じた。
 もう20年以上も前のことになるが、サッカーの日本チームの監督はフランス人のフィリップ・トルシエだった。彼も日本人の交通信号をかたくなに順守する姿勢が気になったらしい。選手たちに「赤信号を無視しても渡らなければいけない状況もある」と教えたそうだ。「マニュアルにばかり頼っていては、いけない」と言いたかったのだろう。
 自己責任とはそういう時に使うのだろうが、やはり日本人は勇気がないのか、周囲の人が自分をどんな目で見ているかが気になって、ひたすら信号が青に変わるまで渡らない。
 車の少ない深夜、勤務を終えて帰る時、赤信号をじっと待っていると、タクシーの運転手が「こんな時は、人間性が否定されたようなみじめな気分になることがあります」とぼやいていたのを思い出した。自動車の運転は法規に基づいて行われないと、破綻をきたす。法規に忠実な日本人の特性がある。日本人はおっとりして、外国人はせっかち、という問題でもない。
 こんな話を聞いたことがある。エレベーターに乗って、ドアが閉まらないと、「閉」の ボタンを押す人がいる。わずか1秒か2秒のことだろう。たまたま乗り合わせた外人から「あなたは、機械を信用しないのですか」といわれという。
 うーん、これも難しい。自分一人なら、自動的に閉まるのを待てるとしても、たまたまボタンの前に居たときなど、奥にいる他の人から、「閉」のボタンを早く押せという無言の圧力を感じ取るのも日本人の特性なのだ。中には自分さえ乗れれば後は知らない、とばかりに後ろから続く人を確認もせず、すぐボタンを押す気が利かない人もたまにはいるけれども。
 今年のノーベル物理学賞受賞者で、文化勲章にも輝いた真鍋淑郎さんは米国籍の人だが、「日本人は他人の迷惑にならないことばかり気にしている」と記者会見で述べた。日本人の特性をよく把握している。「他人に迷惑を掛けない」というのは日本人に染み付いた美風であろう。電車の中では、見事に全員がマスクをつけている。西欧でのマスクは一種の仮面だから、「気持ち悪い」と思う人がいるかもしれない。やはり文化の違いなのだ。
 しかしワクチン接種と並んで、このような衛生観念が功を奏したともいえる。「他人に迷惑を掛けない」精神が世界中に普及すれば、地球の住み心地も変わってくるだろう。もちろん、各地方によって気質は違う。何事にも例外はあるし、多くの人の品性を十把(じっぱ)一絡(から)げに論じるつもりはない。
 3年前にはワイン仲間とヨーロッパに遊んだが、まだ当分は外国にいけそうにはない。外国へ行くと、自分の国のことがよくわかる、というが、日本に居ても、地球的規模の厄災に見舞われると、どうしても自国のことが気にかかる。
 今回のコロナ騒動で、今まで経験したことがない日本の意外な実像を数多く学んだような気がする。つい外国と比べてしまうのだ。日本人が他人の目を気にするように、外国からの評価にはとりわけ敏感だ。「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」と自虐的に嗤(わら)った明治初期の欧化主義がトラウマになっているのかもしれない。

◇次回の更新は11月17日を予定しています。

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