【第13回】ウクライナ戦争と幼児の戦争体験(最終回)

【第13回】ウクライナ戦争と幼児の戦争体験(最終回)

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【第13回】ウクライナ戦争と幼児の戦争体験(最終回)

重金敦之

 ウクライナとロシアの戦闘は2カ月以上経過したが、今なお終わりが見えない。そもそもの発端はロシアの一方的な軍事侵攻にあるのだから、当初はロシアを糾弾する論調が主流で、ウクライナを擁護する声が多かった。最近ではウクライナのゼレンスキー大統領が抱える問題も指摘され始め、単純な色分けが難しくなっている。もちろんロシアの蛮行を認めた上での話だ。西欧やアメリカが信奉するキリスト教的民主主義とロシア正教を背景にした専制独裁制度によるユーラシア主義といった対立軸が明確になってきた。
 地政学的に見ると中東のイスラム諸国は表向き静観しているが、底流にあるアメリカへの反発は根強い。詳しく述べる紙幅はないが、アメリカ一強の時代は終わり、彼の国の影響力が薄れたことだけは確かだ。国連の無力も実証された。民主主義に忠実であろうとすればするほど、時間が掛かる。どんな戦争にしても、その発端や原因が正確に解明されることはない。現下のコロナ禍と同じで、今回の戦争も長期戦になると考えられる。
 いつの世でも、戦争によって無辜(むこ)の民の命が奪われるのは悲しい。ウクライナの惨状を見るにつけ、あまり思い出したくない私の幼少時代を振り返ってしまった。すでに述べたように、私の場合は好運にも恵まれた。命を落とした同年代の人が多数存在したことを思うと、今なお心が痛む。
 私よりも4歳ほど下で、首の後ろに小さな火傷の跡が残っている友人がいる。大川端の新川で1945年3月の東京下町大空襲に遭い、母親の背中に負ぶさって避難する時にねんねこの間から火の粉が入ったのだろう。本人から聞いたわけではない、夫人から聞いた。おそらく彼は他人にあまり話したくはないのだろう。その気持ちはよくわかる。
 今回私が直接耳にした言葉は、すべて当時の記憶によるもので、書き残しておいたものではないから記憶違い、勘違いは多分にあるはずだ。正確に意味が分かっていたわけではないし、聞き間違えもあろう。若干の補足をしておく。
 東横線の線路わきで強制疎開を受けたミルクホールのモンブランは、戦後すぐに自由が丘に移転し再開した。1952年、旧店舗の近くに親戚筋のマッターホンが開業した。モンブランは東郷青児の包装紙を用い、マッターホンは鈴木信太郎の絵で両店とも繁盛し続けている。
 現在でも学芸大学駅西口前にある薮蕎麦は1933年の開業で、我が家が1935年に引っ越してきた際には、引っ越し蕎麦の「切手」を使った店だ。戦後すぐにそば屋が復活したが、最初は陶製の皿だった。竹細工のせいろが無かったのだ。父は皿の方が衛生的だと言っていたが、負け惜しみみたいなもので、どうしても皿に水が溜まってしまう。1915生まれの演劇評論家で作家の戸板康二も、後年同じようなことを述べていた。隣の品川区の旗の台に住んでいたはずだ。
 戦後すぐに駅西口前の菓子屋、金花堂が消え、1955年ごろまであった甘味処の三好野も今はない。東口にはすし屋の和可奈、本屋の恭文堂が現在も続いている。当時の私鉄の駅前には、鰻屋、鮨屋、そば屋が必須といわれた。鰻は少し離れた鷹番に宮川があったが、ごく最近廃業してマンションになった。
 隣は作家の結城信一の家だったが、私より5つほど下の兄妹がいた。兄の信孝はアンソロジーの編集やミステリー評論を書いている。小さい頃に私の家が大家だと思いこんでいたようだがそんなことはない。信孝と同年生まれの川本三郎から聞いた。同じ時期に同じ工務店が建てた家ではあったが、両家とも借地だった。
 45年5月26日の空襲で、焼夷弾が落ちる直前に近所の人たちが話していた「杉並の方向」は杉並ではなく中野だった。この日、東中野に住んでいた永井荷風も空襲に遭っている。3月10日の下町大空襲で六本木市兵衛町の自宅「偏奇館」を蔵書ともども焼け出され、知人と一緒に東中野に暮らしていた。さらに東中野から岡山へ疎開するが、7月には岡山大空襲に遭う。
 アユ釣りは、新聞社に入ってから先輩の釣りエッセイスト田中祐三に体験を話した。秋川に愚息を連れてアユ釣りに行ったときだ。「それはドブ釣りとかコロガシと言って、今では禁じられている漁法」と教わった。昆虫に似せた毛ばりを水面近くで、虫が飛び回るように動かすフライフィッシュングが一部の人に流行し始めたころだった。
 デパートに自動の有料体重計が置いてあった、と書いた。1970年に初めて海外の取材に赴いたが、ブルガリアの首都ソフィアで路上にヘルスメーターを置いて料金をいただく露店があった。まだ家庭には普及していなかったのだ。
 よく戦争とか大災害時には、とんでもないデマや噂が広まることがある。近代ではマスメディアの発達によって、ラジオが大きな影響を与えた東アフリカのルワンダの部族間対立(1990年)による大虐殺がよく知られている。戦争でなくても、関東大震災(1923年)やフランスの『オルレアンのうわさ』(1969年)のように、ごく当たり前の市民の間に流布されて社会問題となった例もある。私が体験した「駒沢のゴルフ場に逃げたら、火の海だ」というのも同類だ。マスメディア論を専攻した身には、貴重な体験だった。
 当時の小学生は学童疎開を経験している。1935年生まれの紀田順一郎は『横浜少年物語―歳月と読書』(文藝春秋)でその悲惨な体験を物語っている。
 向田邦子(1929年生まれ)は私より1学年上の妹、和子の学童疎開について、エッセー「字のない葉書」(『眠る盃』講談社文庫所収)で次のように述べている。
 父は表に自宅宛ての住所を記した葉書を何枚も小学校1年生の和子に渡し、裏面に丸を書いて投函しなさいと言って甲府に送り出した。最初は大きな丸が書かれていたが、そのうちだんだんと小さくなり、とうとう×が書かれた葉書が届く。1934年生まれの田原総一朗は「戦争を知る最後の世代」と自認しているが、そんな「線引き」は大した意味を持たない。
 戦争直後に生まれたベビーブーマー世代だって、実際の戦火は体験していないものの、「戦争に負けた」事実を体感している。生まれた時にはすでにアメリカ軍の兵士がそばにいたとはいえ、戦争による理不尽な悲運を感じたに違いないのだ。
 戦時中から戦後の話を書き始めたらきりがない。大岡昇平、徳川夢声、古川緑波、山田風太郎など、貴重な日記が刊行されている。最近、没後に発見されて刊行された田辺聖子の『田辺聖子十八歳の日の記録』(文藝春秋)は、当時の原文を尊重し、戦後に手を加えていない。それだけに貴重な記録といえる。
 日本の戦後の暮らしは大変だった。今の人たちには通じない「タケノコ生活」や「ニコヨン」などの言葉が生まれた。都会の人たちの多くは食糧を求めて、近くの農村に買い出しに行った。なにがしかの衣料や金目の物を持ってお米や芋と交換するのだ。母にどこまで行ったのか、と聞いたら桜上水といった。当時はすごく遠い場所と思っていたが、今では住宅が軒を接し、渋谷から30分足らずで行けるところだった。
 45年8月15日、若狭の疎開先の庭先で、ラジオを聞いて涙した日本兵士たちは、みなうなだれていた。しかし手を腰の後ろに回して組む人はいなかった。今や自衛隊でも野球やサッカーの選手でも、立って人の話を聞くときは必ずと言っていいほど手を後ろで組む。戦後の進駐軍の影響だ。

 それにしても、JR恵比寿駅の案内掲示板からロシア語の表記が消され、不適切な処置だったとJR東日本の幹部が謝罪したが、実におかしな出来事だった。いったい誰が最初にカバーをかけたのか。不愉快に思う人が意見をJRにいうのは、別に構わない。ごく当たり前の行動だ。ただ複数の人から意見が寄せられたからといって、ハイハイと応じていい事案とそうでない事案があるはずだ。
 11月3日の「文化の日」を「明治の日」に改称するという意見が自民党内から出ているらしい。これも気分が悪い。靖国神社の例大祭に参拝した政治家たちが、ロシアのウクライナ侵攻を取り上げ、「国民と領土と主権を守るために国策に殉じられた英霊」とか「國を守るために散華されたご英霊」とか、もっともらしい理由を付けて参拝する政治家が目に付いた。生年をうんぬんしたくはないが、1954年生まれの安倍晋三元首相や1961年生まれの高市早苗自民党政調会長が大きな顔をして、靖国神社に参拝する姿勢にはどこか胡乱な臭いを感じる。
 最近のウクライナの状況を見ていると、戦車が活躍する地上戦は、ますます激しくなりそうだ。いつ何時、核兵器が使用され、地球滅亡の道へ突き進んでいくかわからない。
 山崎雅弘の『第二次世界大戦秘史』(朝日新書)を読むと、20世紀になって第一次世界大戦の時代から、東ヨーロッパ、北欧、バルト地方、スラブ地方では戦争が繰り広げられ、主要な武器は戦車だったことがわかる。要するに領土の取り合いだ。
 戦争と戦車と言えば、どうしても司馬遼太郎の話に触れざるを得ない。1945年の初夏、栃木県佐野市の戦車大隊にいた司馬(当時は福田定一少尉)は80両ほどある戦車のうち4両を率いる小隊長だった。日本陸軍にすれば虎の子の戦車で、田舎に「疎開」させたのかもしれない。米軍が千葉県の九十九里海岸か茨城県の鹿島灘、あるいは静岡県の相模湾に上陸することを想定し、いずれにもすぐに対応できる作戦だった。もしも本土決戦となれば、戦車隊は旧日光街道を南下することになる。現在の国道4号線を見てもわかるように道幅は狭い。片道1車線がいいところだ。
 住民は敵の襲来に備え、大挙して都会から北へ向かって徒歩で避難するに違いない。戦車隊の将校の一人が大本営から来た幹部に、その際はどうするのか、と尋ねた。その幹部は「引き殺していけ」と命じた(『この国のかたち』文春文庫、『司馬遼太郎が考えたこと』新著文庫)。この一言を聞いた福田少尉は日本の陸軍に幻滅を感じ、後の「作家、司馬遼太郎」の誕生につながったといわれる。
 同じような惨劇が今現在スラブの地で繰り広げられている。よしんば停戦になったとしても、復興までには相当難儀な苦労が必要になる。あの破壊されたビルやインフラ施設を見ただけでも、気が滅入る。
 再び繰り返しになるが私の疎開生活などは、好運に恵まれたものだった。しかし今振り返っても実に貴重な体験で、後の人生にとって得難いものとなった。ここに記した内容は後世に残すというほど、大袈裟なものではない。「ネットの海の藻屑(もくず)」として消えるにせよ、一紙半銭の値(あたい)はあるかもしれない。
 ウクライナとポーランドの国境近くで、怒りと悲しみを込めて父のヘルメットをぶっていた幼児や一人で1000キロもの距離をスロバキアに汽車で避難した少年たちとその家族は無事なのだろうか。一日も早い停戦が訪れ、静穏なスラブの大地が復活するのを祈るばかりだ。

=敬称略(この項終わり2022.5,11)


◇次回の更新は5月25日を予定しています。

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