【第29回】続・無影灯の下にさらされて 完結編その1

【第29回】続・無影灯の下にさらされて 完結編その1

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【第29回】続・無影灯の下にさらされて 完結編その1

重金敦之

 すっかりご無沙汰してしまった。1月から2月、3月と入退院を繰り返しているうちに、紫陽花(アジサイ)から向日葵(ヒマワリ)と季節は何の斟酌もなしに移っていく。大袈裟に言えば、昨年の9月から無影灯にさらされ続けていたことなる。腎臓から膀胱内に入って来る尿管の先端にガンが見つかり、尿管と腎臓を一くくりにして、摘出することになった。
 20数年前の前立腺がんから数えると4つ目ということになる。今の上皇が同じ前立腺の手術を受けた前の年で、最高裁の判事など多くの著名人が前立腺の手術を受けていた。
 私はまだ大学に勤務しており、「この際、この大学からも誰か前立腺がんの手術を受けないと時代に乗り遅れる」とジョークを飛ばして入院した。熊本の国立大学から来た同僚の先生が痛く気に入ってくれた。
 お腹に穴を3つだか4つ開ける腹腔鏡による手術で、まだ実施例はそんなに多くなく、健康保険の適用も認められたばかりの頃だ。私の手術が終わってから間もなく慈恵医大の青砥病院で、麻酔医の制止を振り切って手術を続行し、患者は死亡し医師が逮捕される事件があった。

5月某日 今回の手術は「腎盂尿管がん」の治療のために行うのだが、主管は泌尿器科。治療法として手術を強く推奨し、年齢や症状を勘案すると、「今回が最後のチャンス」だという。まず麻酔科医から全身麻酔についてのオリエンテーションを受ける。全身麻酔は、いままで2回ほど経験があるが、今回の腎臓、尿管摘出手術は比べものにならないほど大事(おおごと)で、入念な準備が必要だと予備知識を吹き込まれる。
 持病の心臓疾患を担当する循環器内科の主治医は、なんとか手術には耐えられるだろう、という診たて。麻酔科医は、データがもう少し欲しい、と慎重な姿勢だ。麻酔科というのは因果な任務で、常に裏方にあって手術を支援する立場にある。
 手術中もずっと立ち会って、データを監視しているのに、麻酔医の名前などは誰も覚えていない。主役はどうしても執刀医だ。うまくいって当たり前、なにかあると麻酔医の責任が問われる。

5月某日 手術予定日の5日前になって、急遽入院することになった。頸部からカテーテルを心臓まで挿入し、造影剤を入れて心臓内の血管の状態を確認するのだ。麻酔科からの強い要望があったようだ。頸部の針を刺す近くに部分麻酔をするだけなので、手術中の会話は聞こえてくる。1時間ちょっとで、無事に終わった。2泊3日で退院。
 結果は、手術に耐えられるという判定が下された。

5月某日 部屋は4人部屋。いずれもお年寄りばかり。高齢者施設ではないかと思う。一人元気な人がいて、やたらと看護師に話しかける。うるさいことこの上ない。聞かれてもいないのに、自分の家族についてしゃべっている。やや感情失禁の兆候も見られるようで、感極まってときどき泣き声になる。
 看護師から、「一人でトイレにもいけないのに!」と叱責されたらしい。これは、辛い一言(ひとこと)だ。一人でトイレに行けるのだが、病状によっては必ず看護師が同道する規則がある。これは高齢の男性にとっては沽券にかかわる問題だ。こんな些細で恥ずかしいことまで、若い女性の世話にならなければならいのか、という羞恥と矜持が複雑に交差したのだろう。

5月某日 ご存知の通り、腎臓は2つあるが、私の患部は右側だった。CT検査の画像を見ると、腎臓から膀胱内に延びてきた尿管の先端部にわずかな影がある。1月に摘出した膀胱内のがんのすぐ近くだ。腎盂尿管領域になり、抗がん剤や放射線治療では根治するのは難しく、手術が最良の選択なそうな。厄介なことにこのがんは多発する可能性が高い。
 特に尿管口と呼ばれる尿管が膀胱内につながる場所の周囲は術後に再発しやすい傾向があるらしい。そのため、腎臓から尿管、膀胱の一部をまとめて摘出するのが最近の治療法と、説明を受けた。がんの進行具合や場所によっても異なるが、開腹して摘出する方法と腹腔鏡を用いる2つがある。術後の痛みなどは腹腔鏡の方が軽く済むが、臓器摘出の操作は、開腹の方が楽だ。
 主治医は腹腔鏡手を選択、背中に近い腹部に穴をあけ炭酸ガスを注入して、お腹を膨らませ作業をしやすくする。腎臓と周囲につながっている臓器を切り離し、血管を縛って切断、遊離させる。次にへその下を10センチほど開腹して、尿道口周辺の膀胱の一部と、尿管、腎臓をまとめて摘出する。だいたい5時間ほどかかるらしい。間違えないように、右側にマジックペンで×印を付けて、中央手術室に入った。
 なにしろ全身麻酔だから、何一つ覚えていない。当たり前だ。

5月某日 この種の手術を受けるにあたっては、何通もの「同意書」を書かなくてはならない。まず麻酔関係では、麻酔の種類、方法などが説明され、想定される負の事態が縷々挙げられる。
 頻度はまれだが、生命に影響を及ぼす例として、高度のアレルギー、誤嚥性肺炎、急性肺血栓塞栓症(発生頻度は0.028%と高くはないが、死亡率は8.4%と高い)、気管支痙攣・咽頭痙攣、悪性高熱症などと、かなり脅かしてくれる。
 いずれも1万例に1回か2回、或いはそれ以下だが、万が一に起きた時に備えて、文書に記しておくのだ。時々起きるが生命に影響を及ぼさない例としては、吐き気、嘔吐、寒気、身体の震え、歯や咽頭の損傷、のどの痛み、とある。
 麻酔だけでなく、受ける手術ごとに、内容の説明を受ける。心臓カテーテル検査然り、腎臓摘出手術然り、全部で10件くらいの説明を受けた。輸血に関する件や身体抑制実施についても説明がある。場合によっては、身体や手足の一部、あるいは全部を、一時的に抑制することある、と書かれている。わかりやすく言えば、ベッドに括り付けることもありますよ、という「警告」だ。麻酔や鎮静薬などの影響を受け、自分の意思や理性では抑制できない身体の動きをすることがあるので、万やむを得ず、拘束、緊縛することもある、というのだ。
 自分がどこにいるのか、居場所がわからなくなり、錯乱状態になる。比較的入院当初に起きる「せん妄」という症状だ。何しろ点滴・栄養のチューブやドレーンと呼ばれる体内の滲出液を外に出すパイプ、心電図などの計測機器のコードなどで体はスパゲッティ状態。患者はスパゲッティの中に紛れ込んだウインナーソーセージの気分になる。そのコードやパイプを、意識がないままに引きちぎる人がいる。



 それらの事態と処置について説明文を読み、記されていない詳細は、口頭での説明を受け、危険性、治療法を理解納得し、手術を受けることに同意します、と署名する。一筆書くわけだ。万が一何事が出来したときに、病院側に手落ちがない、というエクスキューズとなる。
 今の医師は、説得の技術が無くては一人前とは言えない。多くの医師は、国語力に長けている。その実力には感嘆せざるを得ない。女性の場合、さらにワンランク上となり、文面の内容を、立て板に水のように、よどみなくしゃべる。官僚が用意した文面を一字一句間違えないように、たどたどしく読み上げるどこぞの国の大臣とは違う。あまり流麗にしゃべられても、どこまで患者が理解しているかどうかは、また別の問題ではあるけれども。

5月某日 手術は、何事もなく無事に終わった。後でわかったことだ。終わると病室に戻るのが、通例だがそのままICU(集中治療室)に入れられた。誰が考えても重篤の患者が入るところだ。一般病棟では、一人の看護師が数人の患者を担当するが、ICUでは、一人で二人程度の患者しか担当しない。
 麻酔の影響を早く取り除くために、顔には酸素マスク、両足には、血栓予防のバンド。わかりやすくいえば、いわゆるエコノミー症候群を心配して、自動的にマッサージを施しているようなもの。脇腹には、体内の滲出液を取り出すドレーンが2本飛び出たまま。心電図や血圧が自動的に画面に映しだされる。
 コードに取り囲まれ、スパゲッティのウインナーの周囲には多くの医師や看護師が集まって、画面を見ている。「血圧があがらない」とか「尿が出ない」とか言っているこえがとぎれとぎれに聞こえてきた。何やら不穏な空気だ。そのくらいは、夢うつつでも察知できる。
 そのうち、「上がってきた」、「出た」という声がしたと思ったら、潮が引くようにいなくなり、静かになった。深夜に輸血が行われたようだが、眠っている間のことで、何も記憶にない。
=この項続く(2023, 7, 5)

◇次回は2023年7月19日に更新の予定です。

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