【第12回】ウクライナ戦争と幼児の戦争体験(その三)

【第12回】ウクライナ戦争と幼児の戦争体験(その三)

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【第12回】ウクライナ戦争と幼児の戦争体験(その三)

重金敦之

 東京ではB29の空襲が相変わらず続いているというのに、疎開した先の福井県三方郡耳村の暮らしは、のんびりとゆったりしたものだった。近くの大きな都市といえば敦賀市だが、20キロも離れている。敦賀は母の里で姉妹も多かったが、そちらに行くことはほとんどなかった。
 父の生家の周囲はほとんどが水田で、散在している農家が多く、仮に爆弾が落ちてきても大きな火事になる心配はない。大人の男は戦争にかり出されたのか、老人と女性だけが目に付いた。人の往来もなく、子供たちの姿も少なかった。
 その頃の私は4月生まれということもあり、すでに小学校2年生くらいの体格だったので目立ったとは思うが、誰も声を掛けてくるわけではないし、遊ぶ友達もいない。しかし村の人たちには、疎開してきた「奥兵衛」の東京のお嬢さんと坊ちゃんであることは、知れわたっていた。
 家の中へ入ると土間に大きな竈(かまど)があるが、もちろん「へっつい」という言葉は知らなかった。土間から上がったところに大きな囲炉裏があり、自在鉤があったが、自在鉤なる言葉も当然知らない。大きな鉄瓶がぶら下がっていた。いつも火が熾(おこ)っていて、囲炉裏を囲んで食事をする。鉄瓶が味噌汁の鍋に代わることもある。天井の梁や柱は、黒く煤(すす)けていた。黒いふわふわした煤(すす)が上からゆらゆらと落ちてくることもある。
 小浜(おばま)線は3両か4両編成で、40分に1本くらいの間隔で走っていた。汽車が来ると、「あ、展望車、展望車」と、勝手なことを言ってふざけていた。家にあった兄か姉の古い絵本で見た「ツバメ」か「ハト」の展望車の絵を思い出していた。小浜線を展望車が通るなんて考えられないのだが、普段東京ではあまり見ることがない蒸気機関車を間近に見るだけでも、心が躍ったのだ。
 夜になっても空襲警報が聞こえるわけではない。一度東京で見たのと同じように東の敦賀の方角が薄紅色に染まった光景を見たことがあった。東京で見た薄紅色の空よりも高く上に昇っていた。周囲に建物が無かったからかもしれない。大人たちは「福井市の方だな」とつぶやいていたが、福井は敦賀よりもはるかに東へ離れていたので、切実感は全くなかった。
 家の前の水田で田植えがあり、どこからともなく手伝いの小母さん達が集まってきた。今のような自動の農機具があるわけではないし、格子のマス目を付ける糸車の親方みたいな木製の枠を転がして苗を植える地点を決める。小さな苗を1本、1本かがんで、手で植えていく。田に入ってごらん、と言われて裸足で入ったらぬるぬるとした感触だった。苗代(苗床)から苗の束を運んだり、田の奥の方へ苗をまとめて運ぶのを手伝った。
 平(へい)叔父さんは、アユ釣りに連れていってくれた。いつも大事そうに釣り竿と毛針(けばり)を手入れしていた。店は敦賀に通じる広い道の脇にあったが、裏には小さな用水の流れがあり、設えた生け簀に釣ってきたアユが泳いでいた。その細い用水は、本家の前を通って海の方に流れていく。祖父はときどき竹で編んだ笊(ざる)を持ちだして、ドジョウを掬っていた。
 足が少し不自由な平さんと耳川を上流に向かって歩いていった。さらに遡っていくと、滋賀県近くの新庄(しんじょ)という村に至る。毛ばりを転がしてアユを釣る。ウグイも釣れたが、相手にしなかった。アユよりは大きいのだが、美味しくはないということだった。釣りは生まれて初めての体験だった。
 姉たちと一度だけ海水浴に行ったことがあった。水泳パンツだったか、フンドシだったかは覚えていない。30分くらい歩けば、和田浜の海水浴場に着く。砂浜ではなかったが、入り江なので波はそれほど高くない。ニシという小さな巻貝を岩場で拾い集め、帰ってから茹で、楊枝を使って身をほじくり出す。
 8月15日のお昼に兵隊さんが20人ほど家の庭に集まってきた。暑い日だった。庭といっても大きな樫の木があるだけで、守り神の赤い蛇がいるといわれていたので、あまり一人では寄り付かなかった。北側のせいか、いつも薄暗くあまり気持ちの良いところではない。樫の木のおかげで庭は日が当たらず涼しかった。縁側に持ち出したラジオの前できちんと並んで、放送を聞いていた。
 見てはいけないといわれていたが、私は遠くの柱の陰から、じっと庭の様子を覗いていた。ラジオの放送は雑音が多く、蝉の鳴き声も大きかったので、あまりはっきりとは聞こえなかったのではないかと思う。中には涙を流している人もいた。泣いている兵隊さんを見たのは初めてだった。ラジオの放送が終わると、大人たちは「日本は戦争に負けたらしい」といっていたが、詳しくその内容と意味がわかったわけではない。
 田舎に来てすぐに植えた水田の稲は鮮やかな緑色を増していた。田んぼの脇のあぜ道や広い道の脇の砂地に、赤と黄色の派手な色の花が地面に這うように咲いていた。アメリカ草と教えられた。マツバボタン(松葉牡丹)という人もいた。本当はアメリカ草などといってはいけないのだろうが、多くの人がアメリカ草と呼んでいた。百日草(ひゃくにちそう)の黄色を帯びた赤い花も覚えた。どこの家でも畑の空いているところに仏花が植えられていた。私にとっての夏の花は、アメリカ草と百日草だった。東京にいたときは家の周辺に花などはあまり見かけなかった。
 お盆が過ぎ、夜になると、だんだんと若い男の人たちが家にやってきた。私よりもかなり年上の従兄やその友人だった。別に戦地に赴いていたわけではないだろうが、国内の軍事施設や軍関係の工場などから徐々に出身地へ戻ってきたのかもしれない。これから先、どのような生活が待っているのか、誰も分かってはいなかった。敦賀でアメリカ兵を見たという人もいた。
 「男は、みんなキンタマを抜かれるらしい」と、まじめな顔をして、話す人がいた。正確に意味するところは分からなかったが、今でも記憶しているところから考えると、子供なりに普通ではないショックを感じたのだろう。大きな声ではなく、ひそひそとしゃべっていたのにも、真実味があった。
 「満州で武装解除になり、兵隊たちはそれぞれの鉄砲や軍刀を差し出して、積み上げていく。すると銃剣を逆手に持った一人の兵隊が敵の兵士に突っ込んでいって、殺された」
 といかにも、その場にいたような話も聞いた。戦地から帰ってきた人の話が次から次へと伝わり、尾ひれがついて広まっているのに違いなかった。
 いつ耳村から東京に戻ったのかは定かに覚えていないが、もう帰るという直前になって小浜の先の高浜まで水遊びに連れて行ってもらった。誰か知り合いがいたのだと思う。はるばる若狭まで来たのだから、景色の良いところでも、という親切心だったのだろう。静かな海で、手漕ぎのボートに乗った記憶がある。井戸で冷やしたスモモを食べすぎたせいか、珍しくお腹を壊した。大腸カタルと診断されたが、迎えに来た父と一緒に東京へ向かった。おそらく9月の初めだったのだろう。
 小浜線は河原市の駅を出るとすぐに奥兵衛の家の脇を通る。みんな家の前で汽車に向かって手を振ってくれた。東海道本線は混雑していた。引揚者というのか、大人の男の人が多かった。座席には座れず、かなり通路に座り込んでいたと思う。便所に行くのさえも、ままならない混みようだった。「病人の子供がいますから」と普段はおとなしく、あまり大きな声を出さない父が叫んでくれたのを覚えている。
 結局、福井県の耳村に疎開していたのは3カ月くらいだった。ようやく一家5人が無事にそろったことになる。帰ってくるとき、布袋に詰めたお米をリュックサックに入れてきた。米穀通帳による配給のお米と田舎から持って来た米とでは、比べ物にならないほど品質が違うのは、子供でもすぐにわかった。
 帰ってきて家で最初に食べたのは、薪(まき)を集めてきて炊いたさつま芋が入ったご飯だった。薪といっても、太い木を縦に割った立派なものではない。古い玩具や、枯れた木の枝や古板などを焼け跡から拾い集めてくるのだ。古い新聞紙を硬くねじって燃やすと薪一本分になると、いわれた。風呂を沸かすのにも苦労した時代だった。庭にあったサルスベリ(百日紅)が赤い花を咲かせていた。大腸カタルはすぐに治った。やはり家族の顔を見たら安心したのだろう。もちろん、水の違いもあっただろう。
 3か月ぶりに戻ってきた東京は空襲による焼け跡がところどころに残っていた。東横線の「第一師範」駅の西側は、ほとんど焼けてなかった。東側の線路沿いの地区はその後も10数年焼けたままになっていた。
 強制疎開で壊された駅前はバラック建ての「闇市」や露店が並び活況を呈していた。食料品や衣料品、日用品などの店が並ぶようになり、今まで見たこともない和菓子やおもちゃを売っている店もあった。
 私は翌年の21年4月から、小学校に入る。今と違って入学準備のための勉強をするなどの余裕はない。世の中のあらゆる規範や価値観が変わったから、どんな教育が行われるのかもわからない時代だった。
 入った時は国民小学校だったが、すぐに小学校に改められた。新制の第1期で、一年生からGHQの指令を受けた「民主主義教育」を受けることになる。
=次回完結(2022.4.27)


◇次回の更新は5月11日を予定しています。

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