第167回の芥川賞と直木賞が決まった。芥川賞は候補となった五作すべての作者が女性だった。直木賞も含め最近の受賞作や候補作に女性の作品が増えている傾向は今に始まったことではなく、21世紀になってから女性が約半数を占めている。一般のジャーナリズムがこの現象に着目するのはごく当たり前のことだ。あるテレビ局は受賞決定の夜の報道番組で、特集を組んだらしい。
番組を見ていないから大きなことはいえないが、選考委員による経過報告の場で「受賞作はどんな世相を反映しているのか」と番組制作の女性記者から質問が出たらしい。たまたま代表として説明の任に当たっていた川上弘美も困惑したに違いない。
女性作家の増加傾向と作品の内容から世相なり、時代を読み取ろうという企画の狙いはどう考えても無理がある。川上弘美は「作家がそれぞれに見た時代が小説に結実するので、そう簡単に時代の変化と作品を結びつけることは出来ない」と説明した。
自身が『蛇を踏む』で受賞した1996年の上期は直木賞が乃南アサの『凍える牙』だった。両賞ともに女性だけの受賞は史上初めてだったので、そこに異常なライトが当たり、作品以外の雑音に煩わされた体験がある。
このやり取りは選考委員の間でも話題になったらしく「文藝春秋」9月号に掲載された選評でも一部の選考委員が指摘していた。
<ジェンダーフリーとか、多様性とか、女性の社会進出とかと結び付けて、お手軽にアップ・トゥ・デイト感を出そうとしたのだろうが、小説家の感じ取る世相は作者個人のもの。言うまでもなく、今回の女性候補者たちは「男女機会均等枠」で選ばれたのではなく、小説作品の質が高いから最終的に残ったのである。>(山田詠美)
指摘通りでなんの異論もない。ただ顔なじみの担当編集者に囲まれる「文壇ジャーナリズム」とは異なる別のジャーナリズムもあることは理解しておいてほしい。今回のテレビ取材は時と場所を間違えた。選考委員が選考経過を説明する共同記者会見場にはそぐわなかったということだ。
さて受賞作の高瀬準子の『おいしいごはんが食べられますように』(「群像」22年1月号・講談社)だ。話の舞台は埼玉県の奥にある食品や飲料のパッケージやラベルの製作会社支店。東京都心まで出るには一時間以上は掛かるようだ。
独身男性社員の二谷は、食べることにそれほどの関心がない。コンビニの食事が普通で、三食をカップ麺で過ごすこともできる。「おいしいものを食べるために自分の時間や行動を支配されたくない」を信条としている。
その二谷と付き合っている女性社員がいつもニコニコ顔の芦川さん。手料理を作るのに執着している。病弱を認められているので、仕事を変わってもらい、頭痛がするといって帰ってしまう。早退した翌日、家で焼いたケーキを持ってきた。「あの子気配りができるよね」と周囲の評判はいい。仕事を肩代わりさせられても、淡々と片づけていくのが後輩の押尾さん。二谷にも悪い感情は持っていない。二人で飲みに行って、「私は芦川さんが苦手です」と打ち明ける。要するに小さな会社の中の群像劇といった設え。
著者の高瀬準子は「受賞者インタビュー」で「高瀬さんは芦川に似ていますか? それとも押尾に近いのでしょうか」と聞かれ、「多分両方だと思います。いまは残業してでも仕事を終わらせる働きかたなので、同僚からは押尾に見えているかもしれません。以前の部署では、ケーキを焼いて持っていくようなことまではしませんでしたが、芦川だったかもしれません」と答えている。
もちろん創作だから、著者が勤務する職場とは関係がないが、さまざまな経験が投影されていることは間違いない。忘れられないことは、新入社員歓迎会で「女の子はカワイイからこっち」と年配の男性社員の横に座らされ、ずっとお酌をさせられたこと。その後も似たような場面があり、周囲から「おごってもらえていいよね」といわれたけれど、「いや、一万円払ってでも帰りたい」と思っていたという。かつてはよく見られた光景で、今のご時世なら「パワハラ」だ「セクハラ」だのと、糾弾されてイエローカードが出されるケースだ。
それはともかく、どこにでもあるような疑似家族的職場の構成人物が、生き生きと描写されるところに特色がある。鋭い観察力がないと気が付かないごく小さなエピソードをちりばめることで、人物の内面が浮かび上がってくる。
川上弘美は「人物の多面性が良く書けている」と評価したが、まさに的確な評言だ。登場人物の心理と行動は単純な一次方程式ではなく、変数が複雑で立体的な動きをするので、軌跡が交差し、絡み合っていく。
<やがてかれら全員が、簡単にはほぐれない一つの球体をなしてどんどん輝きを放ってくる。これはいったいどういうことなのか? たぶん、この小説の中の人たちは、生きているのです。>(川上弘美)
芦川が二谷のアパートで、ご飯を作る光景がある。
<男に「デザートもありますよ」と言い「一口大に切ったスイカの入ったタッパー」を出してくるといったあたりで、わたしは背筋がそそけ立つのを感じた。これはほとんど恐怖小説だ。(略)
プロットの主軸は三角関係だが、そこに職場の上下関係、仕事における能力差、正規社員と非正規社員の差など複雑なベクトルが交錯し、基層には怨嗟、嫌悪、競争心など社交的配慮からはっきりとは口にされない情緒的なマグマが底流する。>(松浦寿輝)
そこで気になるのが、山田詠美の指摘だ。<彼女(芦川)のそら恐ろしさが、これでもか、と描かれる。思わず上手い! と唸った。でも、少しだけエッセイ漫画的既視感があるのが残念。>(山田詠美)
そうなんです。この小説は少女漫画というか少女小説の範疇に入ると考えると、わかりやすくなる。松浦が摘出したキーワードはすべて少女漫画の骨格をなす必須な基本テーマに他ならない。
田辺聖子が1982年の初頭に発表したジュニア小説に社内の恋愛事情を描いた作品がある。舞台は関西だから、一緒にうどんを食べられる「うどん友だち」が最高だとか、関西のうどんは白湯に塩を入れただけといいきる関東地方出身の女性が登場する。そういえば、猫も小道具として出てきた。もちろん時代は違うが、どこか共通の香りが微かに残っているような気がしないでもない。
再び冒頭に記した、時代相と女性作家の話に戻る。著者の高瀬は小さい頃から本を読むことが大好きだった。
男女雇用機会均等法が成立してから、30年以上が経過したものの多くの課題を抱えているのはご承知の通りで、女性の就労環境は改善されたとはいえ、「昔よりは少しましになった」程度だろう。いつしか「寿(ことぶき)退社」は死語になったが、別の理由から退社していく人や、総合職の資格や権利を放棄する人も多い。
現在男女の学力差は圧倒的に女性の方が優っている。医系の大学で女性に採点の差別を施した例もあった。女性の政治家も数が少ない。ニュースキャスターだった安藤優子が、近著『自民党の女性認識』(明石書店)で「自民党議員の前職を調べると、普通じゃない女性しか議員になれない」と書いた。(斎藤美奈子の「今週の名言奇言=週刊朝日」)
圧倒的に男性優位の「ムラ社会」が厳然として存在するから、何かしら「むかつき」を感じている人(別に女性とは限らないが)は多い。高瀬準子は「ムカつき」(小説では「むかつき」と表記)が書く原動力のひとつになっている、と受賞者インタビューで答えている。
すべての男女が上昇志向を持ち、「企業戦士」になりたいと思っているわけではない。その些細な意識の「ずれ」の一部が「ムカつき」になっているのかもしれない。
どうも女性の方が「ムカつき」を鋭敏に感じさせられ、怨念として言葉で表現する力が強く巧みなのかもしれない。
『三省堂国語辞典第八版』に拠ると、「ムカつく」は1980年代から全国に広まったとある。折しも雇均等法が成立し、高瀬準子が生まれた時代だ。芥川賞作家から直木賞路線に転じた松本清張や田辺聖子のひそみに倣い、将来大きな物語を生み出せるかもしれない。そのためには良い編集者に巡り会うのが、必須条件となるけれども。
<注> なお選評と受賞者インタビューは「文藝春秋」(22年9月号)に拠った。
=敬称略(2022.8,24)
◇次回の更新は9月7日を予定しています。