【補遺】無影灯の下にさらされて 特別編 「週刊朝日」の休刊とフリーライター邨野継雄の死

【補遺】無影灯の下にさらされて 特別編 「週刊朝日」の休刊とフリーライター邨野継雄の死

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【補遺】無影灯の下にさらされて 特別編 「週刊朝日」の休刊とフリーライター邨野継雄の死

重金敦之

 しばらくお休みをするつもりだったが、どうも体調が元に復さない。無影灯にさらされる事態にはならなかったが、入院中に「週刊朝日」が休刊するというニュースが入り、古い友人たちから多くのメールや電話をいただいた。
 部数減による窮状は数年前から耳に入っていたのでさほど驚かなかったが、かつての同僚から「自分がやってきた仕事が、全否定されるような気がした」という感想を聞いた時には、少なからず心が痛んだ。
 「週刊朝日」2月3日号には「休刊のお知らせ」として、1922(大正11)年創刊の日本最古の総合週刊誌、100年余の歴史があると記されている。最盛期は1953(昭和28)年で第1回菊池寛賞を「扇谷正造と週刊朝日編集部」として受賞し、翌年9月には百万部を超えた。この全盛時に、中学生だった私は熱心な読者だった。テレビは試験放送の段階で、まだ登場していない。マスメディアはラジオと新聞の時代だった。新聞はページ数が少なく、ニュースのエッセンスをまとめたようなもので、深い解説、ルポルタージュ、時間をかけた調査追跡記事はほぼなかったと言っても良い。1958年はNHKと日本テレビの本放送が始まった年でもある。
 私は小学生時代は、月刊「少年クラブ」(講談社)を愛読していたが、中学生になるとおサラバした。月刊「少年」(光文社)には手塚治虫が「鉄腕アトム」の原型ともいうべき「アトム大使」を連載し、熱心に読んでいた同級生もいたが、私はすでに長篇のコマ漫画への関心は薄れていた。そういう意味で「手塚以前」の人間となる。
 私が今でも覚えている「週刊朝日」の特集記事(トップといった)に「ノイローゼ」を取り上げた特集がある。何しろ生まれて初めて聞く単語が、それこそあっという間に全国的に広まり、流行語から世間的常識語となる。こんな例は、過去になかった。学校へ行けば担任の教師や級友たちとの話題になった。ノイローゼの一例として、家を出て電車に乗ってから、「家の鍵を掛けて来たか、心配になる」といった話が紹介されていたはずだ。
 「あなたはドライ派かウエット派か」の特集も記憶にある。資料によれば、「三越にはストライキもございます」、「皇后さまのデザイナー田中千代」(27年)、「君の名はー今年の当り屋さん・菊田一夫」(28年)、「森繁久弥の笑いと涙―ある庶民的コメディアン」(30年)などがある。すでに、見出しも新聞とは一味違う「週刊誌」のテイストがある。今では考えられないが、「流行語が週刊誌から生まれた時代」だった。まだ他にもいろいろとあったはずだが、詳しく思い出せない。資料を渉猟する体力がない。もどかしい限りだ。
 時代の流れと片づけてしまえばあっけない話だが、テレビ文化が爛熟期を迎え、昨今のインターネットの普及とあいまって生じた紙媒体の低迷は誰にも止められない。「週刊朝日」の部数は10万部を割り、最近は7万部程度に落ち込んでいたらしい。惨状と言っていいだろう。
 当時の週刊朝日の魅力は特集記事の他に、吉川英治の『新平家物語』、獅子文六の『大番』といった小説類。徳川夢声がホストを務める連載対談「問答有用」、本格的書評「週刊図書館」などの読み物も充実していた。「新聞批評」のページがあったのも、当時としては画期的な企画だった。
 大宅壮一や花森安治など気鋭の論客を執筆陣に加えたのも、新聞には出来ない企画だった。編集者にとっては、長い付き合いとなるわけだから、得るものも多かったはずだ。
 大宅壮一の「日本の企業」などは、その好例だ。花森安治は「日本拝見」で札幌を訪ね、「ラーメンの町」と喝破した。以後、札幌は「ラーメンの街」として広く定着する。
 「ロータリー」というコラムのページがあった。1ページを四つ割にして一つが600字程度。最も新しい社会現象やファッション風俗、言葉、新製品、新輸入食品など、を取り上げた。週刊朝日に配属された「新人」が必ず担当するページだった。全国紙の地方版から地方紙や雑誌、PR誌などを博捜しネタを集めたようだ。単なる紹介記事ではなく、多少の文明批評も要求された。
 私が覚えているのは、輸入され始めたばかりのグレープフルーツ。北海道から顔を見せ始め、一部の店にしか置いてなかったシシャモ(柳葉魚)などが記憶にある。まだ流通網が整備されておらず、北極海から、シシャモに似た別種が輸入されるようになるのは、ずっと後の話だ。後に編集長になる小松恒夫は入社早々3通りの「ロータリー」の原稿を提出したものだと、長く伝えられた。
 全盛時の編集長、扇谷正造は「週刊朝日」の読者層を「旧制高女2年程度の読み書き能力に、プラス人生経験10年、夫の月収2万5千円、こども二人くらい」と想定した。ニュース本意の大衆紙。新聞の第1報を受けて、より深く事件を掘り下げ、主題を一ひねりして読みやすい文章にした。「さりげない正義感とヒューマニズム」が当時の風潮に受け入れられたのだろう。
 「週刊朝日」の隆盛をみて、各出版社は何も新聞社だけに任せておくことはないとばかりに週刊誌を発刊していく。1956(昭和31)年の新潮社の「週刊新潮」が最初だった。翌年には初の女性週刊誌「週刊女性」(河出書房、後に主婦と生活社)、34年には漫画週刊誌「少年サンデー」(小学館)「少年マガジン」(講談社)に「朝日ジャーナル」(朝日新聞社)「週刊現代」(講談社)「週刊文春」(文藝春秋)「週刊平凡」(平凡出版、現マガジンハウス)が相次いで創刊され、週刊誌ブームとなった。
 書き手のいない出版社が、新聞社に対抗する過程で生まれたのが、取材チームとしてデータを集めるデータマン(特派記者といわれた)と最終原稿を書き上げるアンカーによる「分業」だった。当時のアンカーの中には、草柳大蔵、梶山季之、井上光晴など後に活躍する人たちがいた。

 「週刊朝日」は「朝日新聞」社から出版されているが、雑誌記者と新聞記者はどう違うのか。池島信平(元文藝春秋社長)の名著『雑誌記者』(初刊1958年、中央公論社。中公文庫所収)を繙(ひもと)くと、出版ジャーナリズムの現場から、鋭く問題を摘出している。雑誌記者というのは、ひとまず編集者と置き換えても差し支えないだろう。
  ・編集者は企画を立てなければならない。
  ・編集者は原稿を取らなくてはならない。
  ・編集者は文章を書けなくてはいけない。
  ・編集者は校正をする。
  ・編集者は座談会を司会し、速記録、或いはテープを編集して原稿にしなければならない。
  ・編集者は絵画・イラストレーションと写真について相当の知識を持たなくてはいけない。
  ・編集者は広告を作成しなければならない。
 <雑誌記者(編集者)と新聞記者の相違は、前者が浅くとも何でも知っているのに対し、後者は狭いけれども知識の専門家で有ることである。更に「雑誌記者は自分の作っているもののソロバンを知っているのに、新聞記者は金勘定を知らなくても、新聞がつくれる」ことである。>
と池島信平は熱意を込めて説いている。
 「これは売れるニュースかな」と一瞬でも考えるのが雑誌記者で「これは読者のために、何としても取材しなくては……」と言って出かけるのが、新聞記者なのだ。
 要はコストパフォーマンスを意識するのかどうかの問題だ。扇谷正造の「週刊朝日」が、実際にコストパフォーマンスを意識していたかどうかは疑問がある。「週刊図書館」に新刊書を取り上げるとき、著者の顔写真は最新のものを使えとの号令一下、写真部員が車に乗ってザラ紙で2、3センチ程度の写真を撮りに行くのは、今ではマンガに映るかもしれない。
 出版はしょせん零細企業で新聞社は中企業だ。販売、広告収入、配属社員数、など比べ物にならない。
 そして社内に根強く残る新聞紙面至上主義(それは新聞記事出稿者を優遇する考え方を意味する)は、出版を見下ろす悪弊を生んだといえる。編集局が販売、広告、総務管理部門を見る目も同じだろう。人事管理の論理で、編集局で使いにくいクセのある人物を出版に異動させる。技術革新によって生じた余剰人員を出版局などへ強引に配置転換させたこともあった。
 「週刊朝日」をキオスクで一部買う読者と公正取引委員会に守られた(法的な問題は残る)月ぎめ料金で自宅に配達してもらう販売収入は全く異質な物だということに長い間気づいてこなかったのではあるまいか。
 少し荒っぽい表現かもしれないが、雑誌記者なら誰でも新聞記者は務まるが、新聞記者には雑誌記者が必ずしも務まるとは限らないのだ。
 この部分について、まだ書かなくてはならないことはあるが、ひとまず先を急ぎ、時計の針を昨年の十二月に戻す。

◎あるフリーランス・ライターの死

 「週刊朝日」や「朝日ジャーナル」で長く活躍したフリーランスのライター、邨野継雄(むらの・つぐお)が亡くなった。盛岡市出身。というより盛岡第一高校出身。中学浪人しても第一高校(地元では、「盛岡」を省略する)を目指すといわれる名門高校。高校時代は映画と小説を読むのに明け暮れ、あまり学業には精を出さなかったようだ。典型的な盛岡出身という風貌は純朴と野性を兼ね備えていた。
 東京のさる私立大学へ入り、出版社にアルバイト原稿を書いているうちに中退、文筆の道に転じた。時はバルブ経済の勃興期、出版界には「ぐるーぷ・ぱあめ」という編集者集団が顔を利かせていた。上智大学探検部出身の磯貝浩と松島駿二郎が主宰し、「週刊朝日」などで活躍していた。
 邨野はそんなグループにも属することはなく、あくまでも一匹狼として活動し週刊朝日にも出入りするようになった。篤実な性格で面倒見が良かったから、フリーランス仲間の「親分的存在」として慕われたようだ。読書量の豊富さは群を抜き、特にハードボイルド系のミステリーには造詣が深かった。西武新宿線の下井草駅近くにあった自宅マンションは若いライターの梁山泊の観を呈していた。
 週刊誌業界でのフリーランスの仕事はピンからキリまであり、取材対象はあらゆるジャンルに及んでいる。奴隷のような過酷な労働条件で、地べたをはいずりまわるような仕事もある。多くの新聞社や出版社に共通していることだが、いわゆるアルバイト、下請けといった正社員でない人たちへの処遇と対応は厳しかった。特に朝日新聞社は、その傾向が強かったように思える。正社員よりもはるかに才能があり、仕事に貢献している人たちもいないわけではないが、多くは原稿料払い(出来高払い)のシステムだった。
 ブラジルへ渡り、邦字紙『日伯毎日新聞』(後に「ニッケイ新聞」と合併し、廃刊)の編集部にもいたことがある。この時代のことはあまりしゃべりたがらなかったが、日本の大手紙特派員や移民の二世、三世といった古いしがらみにとらわれた人間関係があり、あまり楽しくはなかったと思われる。
 フリ―ライターの世界では、何と言っても「単著(書き下ろし)」を出さなくては、相手にされない。一流とは認められないのだ。私が図書編集室にいるときに、埼玉栄高校のブランスバンド部の活躍をまとめた『心の音楽(うた)を奏でよう』(朝日新聞社)を執筆してもらった。
 私はアンソロジーを三冊編んでいる。『美味探求の本』『美味探求の本 世界編』『飲むほどに酔うほどにー愛酒家に捧げる本』(いずれも編集=有楽出版社、発売=実業之日本社)のすべてに邨野の協力を得た。もちろん些少ではあるが印税の一部を差し上げた。飲み代にもならない額で、申し訳ない忸怩(じくじ)たる思いがある。それだけで食えるわけでもなく、編集部の秋山康男や横山正雄といった長老記者たちからは、「君は生活できているのか」と心配されていたという。邨野の仕事ぶりを評価していたのだろう。
 編集部に出入りしていた女性のフリーライターと編集部員の間で男女関係が生じたことがある。別に取り立ててトラブルになったわけではないが、当時の編集長からは「君の監督責任だ」と言われたらしい。フリーライターがそこまで責任を負うことはない。ジョークだとしても、いい過ぎだ。
 2018(平成30)年に私は『淳ちゃん先生のこと』(左右社)を出版した。作家、渡辺淳一と編集者としての交友を書いたもので、幸い好評を得た。渡辺淳一の対談のまとめなどの仕事を依頼していたから、旧知の仲だった。邨野は「最後に重金さんの代表作が出ましたね」と褒めてくれた。あまり人のことを褒めない邨野だったから、真実味があり、心に染みた。
 邨野は2019年に『昭和天国と地獄 時代を駆け抜けた43人が語る』(朝日新聞出版)を出した。長い間「週刊朝日」に連載したそれこそ、邨野の代表作となった本だ。私は10部ほど買い求め、知り合いの雑誌編集部に送って、紹介してほしいと依頼した。
 「週刊朝日」では文芸評論家の温水(ぬくみず)ゆかりが次のように書評している。
<令和になったからといって昭和はけして遠くならない。いや、むしろ、のっぺりとした平成を間にはさむことで、昭和の面立ちがくっきり見えてくる。[略]こういった企画のインタビュアーは、歴史のコンパスを持って史実を歩く人。地味を厭わない歩幅の広い人にしかできない仕事だ。>(「週刊朝日」2019年5月17日号)
 邨野とは、忘年会と暑気払いの名目で、よく中野の「ふく田」で会った。別に込み入った話をするわけではない。共通の趣味の野球と競馬、ノンフィクションの若いライターの作品について他愛のない話をするだけだ。野球は草野球のチームを作って、楽しんでいた。実際に遊んだ機会はなかった。競馬は最期まで「3連単一筋」だった。「あの、当たった時のスリルがたまらないんですよ。少し当たるようゾーンを下げなくては、と思うんですけれどもね」とよく言っていた。あまり大損したという話も、大儲けしたという話も聞いたことはなかった。ときたま馬券を買ってもらったこともある。私は「軸一頭三連複流し」が主体だ。
 二年ほど前だったか、ちょっとここを見てよ、と右側の喉(のど)を指さした。ふっくら瘤状に膨らんでいた。あきらかに異常で、ただならぬ病状であることは、素人目にもわかる。いつも、私は彼の左側に座るので、気が付かなかった。もし気付いたとして、病院に行くよう勧めても素直に行くような男ではなかった。
 同じ病状だった大学時代の恩師、Hさんの最期を思い起こしていた。酒とたばこを手放せなかったのも共通している。最後は、オレンジのリキュール、コアントロウに氷を浮かべ、ストローで吸っていた。酒も強く、タバコはなかなか止められなかった。「朝日の仕事をして、酒でつぶされたのは、社会部から来た豊原正康一人だけ」と豪語していた。
 (「ふく田」では小一時間ほどすると、必ず店主の福田義明と外へ出て「一服」するのが常だった。)酒を全くたしなまない福田は、がんを抱えながらもタバコを止められなかった。山形医大で医師となっている甥っ子の邨野浩義に勧められて築地のがんセンターの治療を受け始めたのは2022(令和4)年の春頃だったか。
 折しも、「週刊朝日」の臨時増刊「夏の甲子園大会」号の仕事の依頼が入ってきた。もう30年以上も続いている仕事だった。まだ「週刊朝日」に元気があった時代には、弁当代などにも余裕があった。いくら会社の隣のがんセンターから通うといっても、酒も飲めずに若い人と付き合うのは大変だ。自分のポケットマネーから、面倒を見ていたらしい。
 ただちに投薬による治療策がとられた。手術をするには遅すぎたようだ。私も体調を崩し、9月ごろだったか、久しぶりに「ふく田」で会った。味覚障害があり、何を飲んでも、食べてもおいしくない」と不機嫌そうにいった。頭髪は抜け、ネパール料理のように」強い味のするものがいいと」いっていた。こちらは、今生の別れと思ったから、シャンパンを用意したが、「こういう酒は味がしないんですよ」と悲しげな笑みを浮かべた。
 「週刊朝日」休刊のニュースを知らずに旅立ったのは、邨野にとって良かったのか、悪かったのか。
 戒名は徹悠継文清居士。享年73。合掌
=敬称略(2023, 4, 5)

◇次回の更新は未定です。

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