聴力が少し衰えてきた家族がいるため、テレビで生字幕放送を視ることが多い。「リアル字幕」ともいう。「生字幕放送のため、一部再生できません。誤字脱字などが生じる場合があります」などと断りが出る。AIによる音声変換に再読み込み、手入力など多様な方式を組み合わせることで、変換のスピードは依然より格段に速くなった。
同音異義語や特殊な読み方が多い日本語だけに著しい技術の進歩で、近い将来にはCMにも適用されるそうだ。高齢化社会には不可欠の技術だろう。NHK放送技術研究所などの功績は多大なものがある。
しかし、手放しで喜んでいいものか。お節介気味の個所も散見する。例えば「来れる」「見れる」「食べれる」などの「ら抜きことば」は自動的に「ら」が挿入され修正されて字幕に出る。「たにんごと」と発言すると「ひと事」と変換されて画面に現れる。
多少の憶測を交えての推論になるが、各テレビ局が独自に生字幕の技術を開発していたのでは、費用がかかりすぎて採算が取れない。そこで旗を振っているのは総務省だ。「生放送字幕番組普及促進助成金」などの名目で、相当な予算措置が付けられ、民間放送の各テレビ局は音声変換の字幕を専門の事業とする子会社や外部企業に委託している。
若い10代のスポーツ選手や芸能タレントが、「食べられる」や「来られる」などとはまず言わない。今やかえって不自然な感じを覚える。話す人の背景や年齢を考えず、一律に統一する現状の方式はこれから先、どうしても無理が生じていくに違いない。「生」や「リアル」の看板に傷が付くというものだ。
先日も「づつ」という表記が画面に出た。今では、日本人の大多数が「ずつ」と表記するはずで、旧表記の「づつ」は「許容できる」という注釈のもとに使用が認められている。間違いではないが「ずつ」のほうが一般的ですよ、ということだ。総務省すじに今なお旧表記の復活を望む人たちがいるわけではないだろうけれども。
それはともかく生字幕放送を視ていると、つい日本語の発音や用法、新語が気になるものだ。年齢を重ねると、日本語の奇妙な用法や理解できない新語に出くわすことが多い。近ごろ気づいた日本語について考えてみたい。
ちょっと古くなってしまったが、年末になると、ある線香の会社が盛んに「喪中見舞い」として、線香を贈るようテレビCMで宣伝する。「喪中見舞い」などという、いい加減な言葉を勝手に作って、テレビで流していいものか。このコラムの「ネッセイ(ネットによるエッセイ)」も同じ穴の狢(むじな)ではないかといわれそうだが、人の耳目に触れる量が違う。こちらは仲間内での一種の「じゃれあい」みたいなものだ。
私企業が日本の民俗や習俗、文化に関わることを営利のために口を出すことはない。新しい作法としていくら提灯を持っても、多くの人が納得すれば自ずと認められ、気が進まなかったら消えるだけだ。
喪中の挨拶の文章をネットで調べていた人の話だが、「年始の挨拶を遠慮するけど、賀状は送ってほしい」という例文があったという。これもどこかおかしい。「身内に不幸があり、年始のご挨拶を遠慮します」という表現の底流には「不幸があり、ご迷惑をおかけしないよう、静かにしております」という当人の覚悟が込められている。「私は年始の挨拶をしないけれど、あなたの祝意は受けたい」というのは、身勝手ではないか。
「死」を不浄と見るかどうかは議論が有るところで、キリスト教では、天に召される喜ぶべきことと考える。仏教では葬儀の「清めの塩」を用いない宗派もある。死は決して不浄ではないという教えだ。喪に服するかどうかは、本人の考え方(哲学)次第だ。「穢(けが)れ」をやかましくいうのは神道というほど大袈裟なものではないが、農業や漁業の祭事や年中行事の伝統を守ってきた中心にある「神様」の存在だ。明治以降に大きく様変わりし、現代ではあまり気にしなくても良い、という考え方が主流になりつつある。
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新型コロナウイルスの感染拡大は、新しい外来語や奇妙な用法を増殖させた。まず気になったのが「人流」だ。いち早く作家の平野啓一郎氏などが指摘しているので触れない。かなり以前からある言葉のようだが、一般的な「物流」が強く普及しているので、自らの意思で動く人間と貨物を同等に扱うところが、違和感を生んだのだろう。
コロナ禍は「ロックダウン」に始まり、「パンデミック」「ソーシャルディスタンス」「クラスター」「ホームステイ」など、やたら横文字が並んだ。言葉は時代とともに変わるもので、「ソーシャルディスタンス」は「フィジカルディスタンス」に代わった。オミクロン株が隆盛となってからも、「ブレークスルー感染」「ブースター接種」など新顔が次々に登場してきた。
昨年亡くなったサトウサンペイさんから、生前に「ロングロング・ホームステイで、GOTOトイレの毎日です」という近況報告をいただいたのを思い出す。
日本語に外来語が多いのは、よくいえば「進取の気性」であり、裏を返せば日本人の「外国コンプレックス」があるからだろう。外国で日本語を学んでいる人には、この外来語がなかなかわかり難い。「キャンセルする」など、名詞から動詞化し、さらに「どたキャン」のように合成し、転移、派生するからだ。
日本語に関して、私はどちらかといえば、保守派で昔の用法を順守していきたいと考えているのだが、個人の力ではどうしようもない段階だ。新語や流行語に興味と関心はあるが、自分から使うことはない。
20世紀末の頃か、井上ひさしさんが、「劇団員などはかなり以前から『なにげに』は使っていましたよ」といったのには、ショックだった。「なにげに」などという用法は、どこをどう探しても私の「辞書」にはない言葉だった。10年ほど前に私より7歳ほど若い芸能関係者と話をしている時に、あえて「なにげに」と会話で使ってみたことがある。
相手はびっくりした様子で「重金さんもなにげになんて言うのですが」と不審な顔をされた。こちらは、ちょっと相手の反応を確かめようとしたのだが、やはり違和感を抱いたようなので、その後は用いたことはない。それだけでも収穫だった。年寄りの冷や水というのか、なじまないことに手をつけるものではない。同様の例が「ほぼほぼ」で、最近は周囲で耳にする機会が増えた。営業や商店などの人たちに多い気がする。
テレビでいえば、NHK教育テレビの「NHK俳句」の選者(宗匠)は俳人の岸本尚毅さんで司会が女優の中田喜子の週。この組み合わせの週に限ってのことだが、進行役が選者のことをやたらと「教官、教官」と呼ぶ。 私の理解では、教官といえば公務員としか考えられない。いっとき深田祐介原作の連続テレビドラマ「スチュワーデス物語」で、訓練生が「教官、教官……」と連呼していた辺りから流行り出したのかもしれない。自動車教習所の指導員を教官と呼ぶところももあるようだ。
「貴様は、上官のいうことを聞けんのか!」といった軍隊の用法から連想して、地位の上の者が、無理やり技術を習得させる、という感じがある。『日本国語大辞典』(小学館)には「教職に従事する官吏。陸海軍の学校で教職に従事する人の職名。軍人を武官教官、文官を文官教官といった」とある。
私が私立大学を退職したとき、同年代の友人が「もう大学は退官したのですか」と聞いてきた。面倒なので退官の説明はしなかったが「退任です」と強く答えた。かなりの年配の人でも「官」の意味が分かっていないようだ。『広辞苑』(第7版)によれば、「また俗に、私立大学や専門学校などの教員にもいう」とつけくわえてあるけれども。
俳句は日本語による文学の一種なのだから、言葉の正統と純粋を順守してもらいたい。教官という言葉が、俳句の番組にそぐわないということがどうしてわからないのだろう。選者も司会者もプロデューサーも言語に鈍感なのが、不思議だ。
昨年の流行語大賞の候補に「チルい」が上がった。「チル」は「のんびりとくつろぐこと」を意味するそうで、私の全く知らない言葉だ。
三省堂の『三省堂国語辞典』(通称「三国=さんこく)の第8版が昨年の12月に、8年ぶりに改版された。早くも「チルい」が収載されている。=この項続く(2022.2.2)
◇次回の更新は2月16日を予定しています。