文章の修辞法や表現手段の一つに擬人法がある。夏目漱石の「吾輩は猫である。名前はまだない」が典型的な例だろう。猫をあたかも人であるように見立てる手法だ。もちろん動物でなくてもいい。雨や風、雲などの自然現象でも可能だ。「雨が殴りつける」とか「獣が吠えるような風の音」といった具合だ。自動車や電車のように動かなくても構わない。「部屋の主人のような顔をして、大きな机が中央にある」のように。家具、花瓶、額、花や酒瓶などの静物でも成り立つ。
最近、何でも「たち」を付ける語法が流行っている。擬人法の一種だ。先日も新聞広告で、「愛しきミュージカル映画たち」というキャッチフレーズを見た。名ミュージカル映画の特集再上映の広告だった。
確か数年だったか、年下の文芸評論家から来た賀状に「年を取ると、若い人の言葉づかいが気になります。最近いやなのは『ピアノたち』のように無生物に『たち』をつけることです」とあった。
テレビの料理番組でも、料理人だか料理学校の先生かタレントだか知らないが、「このピーマンたちを……」とか、「先ほど塩をしておいたお魚たち……」などとしゃべっている。
『広辞苑⑦』(岩波書店)で「たち」を開いてみる。漢字では「達」で、<①名詞・代名詞に接続して複数形を作り、または多くをまとめていうのに用いる。古くは主に神または貴人だけに用いた。②複数の意が薄れ、軽い敬意を表す。>とある。
ピアノやピーマンはもちろん無生物だが、まだ形があるからいい。数えようとすれば数えられる加算名詞だ。最近は抽象的な言葉にも平気で「たち」を付ける。極端なのは「過去」や「未来」のような時間軸を表す曖昧模糊とした対象にさえも「たち」をつける。
その始まりは1977年に発売された歌謡曲の歌詞にあるようだ。美空ひばりが歌って大ヒットした「愛燦燦(あいさんさん)」に「過去達は優しく睫毛(まつげ)に憩(いこ)う」とか「未来達は人待顔(ひとまちがお)して微笑む」などとある。作詞作曲をしたのは、1944年生まれの小椋佳(おぐら・けい)。
このような用法の始まりを特定するのはなかなか難しい。今ではあまり見られなくなったが、ライスカレーに福神漬けを添えるのを考えついた人は、誰で何時(いつ)なのかという起源を探すようなものだ。
『三省堂国語辞典⑧』(三省堂)で「たち」を引く。
<擬人化して「花たち・家具たち・歌たち・過去たち」などとも言う。英語などとちがい、物の複数をあらわす接尾語がないためもある。>
なんと、「たち」の項に「過去たち」が載っているではありませんか。
この美空ひばりが歌った「愛燦燦」のヒット以降、何にでも「たち」を付けるのが流行りだしたのではないか。「歌詞検索サイト」(株「ページワン」)で調べてみた。「愛燦燦」は美空ひばり以外にも、石川さゆり、坂本冬美、天童よしみ、香西かおり、秋川雅史、氷川きよし、加山雄三など錚々たる30人近くの歌手がカバー曲を出している。これらを一曲と数えると歌詞に「過去達」を用いた曲は54に及ぶ。
「達」を「たち」にした「過去たち」を調べてみると、小椋佳自身がよほど気に入ったのか、2007年に「過去達」を「過去たち」に変え「祭り創り」なる曲で、再び用いている。他にも柴咲コウの「勿忘草(わすれなぐさ)」(2003年)、中川翔子の「Starry Pink」(2008年)、加藤登紀子の「そこには風が吹いていた」(2012年)など25曲もある。何年からデータ化しているのかわからないが、小椋佳以前にはなかったろう。ちなみに「未来たち」を引くと、43曲もある。「過去たち」と「未来たち」の両法を用いている曲もある。この検索サイトは便利に出来ていて「涙」を含んだ歌曲は65,078曲、「道」は54,776曲と、たちどころに出てくる。
それにしても「過去達(たち)」とは、凡人には思い浮かばない用法だ。確かに『三国』が記すように、日本語では単数と複数の区別に敏感ではない。「過去」のような数えることができない無量大数(むりょうたいすう)の事象を数えるという発想がない。
小椋佳は作詞の動機について「中学生時代の日記を読み返すと、過去の思い出が瞼(まぶた)の裏に浮かんで、その時代の自分をいとしく思える。その気持ちを誰も使った事のない言葉で表現したかった」(「東大新聞」)と述べている。
一般的に解釈すれば、「過去には楽しいことも悲しいことも多くあったが、これからも多くの試練を経て、静穏な時が必ず訪れるであろう」といった「人間賛歌」だろう。詩の世界だから作詞者の感性を尊重し、四角四面に目くじら立てるほどのことではないといえば、それだけの話だ。しかし辞書にまで載せる価値がある言葉なのかは、疑問が残る。もちろん社会現象と言えるくらいの影響力をもったから、載せたのだろうけれども。「神または貴人だけに用いた」なんて、嘘みたいな話だ。「軽い敬意を表す」といわれれば、首肯できる雰囲気は感じられる。
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1935(昭和10)年生まれの作家、秦恒平が近著『父の敗戦・湖の本157』の「水流不競 私語の刻」の中で若い人が使う言葉に、こんな感想を記している。
<* テレビの宣伝商戦は何の躊躇(ためら)いも無げに旺盛。聞くがいい。
ホントニ ナント スゴイ 彼らに日本語とはこの三語で足るらしい。コマーシャルに限らない。有象無象のはしゃぎまわる日本語も、おおかた ホントニ ナント スゴイ の三語。
わたしは どんな売れっ子であれ、エラソーなひとであれ、ホントニ ナント スゴイを連発の手合いには 即、大きな 疑問符を呈することにしている。2021 8/21>
同感である。私なら、秦説の三語を四語に増やす。ホントニ、マジ、メッチャ(メチャ)、ヤバイの四語だ。
有名作家を父に持ち、テレビでも活躍する女性の人気エッセイストが「ヤバイ味」などと平気で使っている。いささか救いの手を差し伸べると、本人自身の言葉ではなく、ネットに出た表現を引用しているだけだ。それにしても、70近い「大のおとな」が自分の文章にこの手の言葉を用いるセンスは、私が共感するものではない。父君は泉下で湯気を出して怒っていることだろう。
すでに永井荷風を初めとして古くから多くの人が指摘しているが、「させていただく」の流行もおかしな現象だ。自分が謙譲語を用いることで、相手への尊敬の念を表現しているつもりなのだろうが、どうも最近は度を越している。
どんな議会にしろ、選挙で選ばれた議員が「質問させていただく」とへりくだる必要があるのか。答える政治家側も「緊密な連携をとりながら、総合的に勘案して慎重に検討させていただく……」だから、まさにどっちもどっちなのだが。
そうかと思えば、居酒屋などで、隣に座った若者が「もう一本お酒いただいてもよろしいでしょうか?」と注文している。よく意味が理解できない。客なのだから、飲みたければ勝手に飲めばいいではないか、と毒づきたくなる。
「これ、マジ、ヤバクネエ?」
「ウン、メチャ、ヤバイ気がする」
「ホント、ホント。ゼンゼン、ヤバイよ」
「ホントに」には、もはや「本当」の意味が薄れている。単に「実感する」の意味を込めたあいづちでしかない。しかし、あいづちというのは、相手の言葉に対して反応するものだが、一方的に自分の意見を開陳、主張する場合でも、副詞や形容動詞的に用いている。「藤井聡太五冠の差し回しはホントに素晴らしい」のように。
これは、今の人たちが「上から目線」といわれることを極端に恐れているのではないか。今やみんな「上から目線視恐怖症候群」に陥っている。「偉そうに、上から物を見るな」といわれることを避けたいあまり、「……させていただく」とひとまず謙譲の振りを見せて、相手を立てる。自分の判断を他人にゆだねて、自らは決して判断しない。
自分で決断するのが怖いから「……いただいてもよろしいですか」などと、決定権を人に預けてしまう。実際は自分が決めているのだが、いかにも「最終責任は自分ではないよね」といったポーズをとる。
「ホントにィ??」も「マジっすか?」とか一時流行った「ウッソー」も同根だ。一瞬相手の意見に疑念をはさんだ格好をつけて置いて、それからおもむろに同意する。「本当にそうですか? さっき、確認しましたよね」とか「まじめにおっしゃっているのですね。それなら同意します」のように、まず確認し断ってから、自分の意見を表明する。芸が細かい。
慎重といえば慎重、優柔不断といえば、その通り。決断力がない。周囲の雰囲気に同調しがちだ。つまるところ確たる自分の意見と主張を持ち合わせないので、自信の無さを表明しているのかもしれない。
=(2022.6,8)
◇次回の更新は6月22日を予定しています。