2003年のアメリカイラク戦争はテレビゲーム戦争とか、ニンテンドーウォーなどともいわれた。今回のロシアによるウクライナ侵攻は何と呼んだらいいのか。両国の戦闘意欲に著しい差がある不思議な戦争だ。ウクライナ市民の多くがスマホを持っているので、総戦場カメラマンといってもいい。これだけ戦時中の家族の情景、とりわけ子供の映像(しかも動画だ)がメディアに流れる例はかつてなかった。「SNS戦争」といってもいいのではないか。
ベトナム戦争でも市民の惨状は、映像(スチール写真)として残されてはいる。しかしその多くは従軍カメラマンが撮影したもので、あまりメディアには取り上げられなかった。1965年にUPIのカメラマン、沢田教一が撮った「安全への逃避」(川の中の母子たち)や1972年のニック・ウト(AP)の「裸で逃げる少女」はピュリッツアー賞を受賞し、重要な記録として今なお語り継がれ、保存されている。
今回は当事者がごく普通の当たり前の日常を切り取っているので、鋭く人の心を刺す。警官としてウクライナに残る父親と国境での別れにあらがい、抱かれながら父のヘルメットをぶつ幼児の姿には行き場のない怒りと悲しみが込められている。母親と別れ、サポリージアからたった一人で1000キロもの距離をスロバキアに向かって汽車で避難した少年は、その後無事に母親と再会した。それらの映像を見ていると、つい70年以上も昔の自分の姿を重ね合わせてしまう。
今まで幼児期の話はあまり書いたことはないし、人に話すこともなかった。どう書いても、当時としては恵まれた環境にあり強運が重なった、と羨望の眼差しで見られるのがわかっているからだ。その上あまりにも幼い時代の体験だから、信用されないのではないかという心配もある。いずれにしても好運に恵まれたのは事実で、東京空襲や戦地に散った犠牲者には現在でも申し訳ない気持ちを持ち続けている。
生まれたときに自分が浸かった産湯の白い盥(たらい)のふちを覚えている、と書いたのは三島由紀夫の『仮面の告白』だ。そこまでは言わないが、1945年5月25日の東京大空襲の様子ははっきりと記憶にある。
晩婚だった父が44歳になった1939(昭和14)年に私は9歳上の兄や7歳上の姉を持つ次男として生まれた。東京大空襲の時は満6歳になったばかりで、翌年は小学校に入学する予定だった。今なら幼稚園の年長組だが、当時は戦事の真っただなかだから幼稚園どころではない。
生家は東横線の学芸大学駅の改札口から300メートルほどの住宅地で、私の生まれる4年前の1935年に建てた家で麻布から越してきた。1927年の開通当時の駅名は碑文谷だったが、1933年に「青山師範」となり、1943年に「第一師範」と変わった。「だいいちしはん」という読み方が難しかったが、すぐに慣れた。
東横線はまだ高架になっておらず、道路と平面交差だった。渋谷駅は2階に当たり、高架で山手線と並行に走り、しばらくして並木橋で山手線をまたぎ、右側に折れていく。曲がる手前に「並木橋」という駅があったが、すぐ廃止された。戦後になってしばらくは、ホームの残骸が残っていた。
山手線(当時は省線)の恵比寿駅から中目黒の正覚寺を通って海軍病院(現在の国立医療センター)まで改正道路と呼ばれる舗装された広い道路があった。現在の駒沢通りだ。祐天寺と第一師範の間で、東横線と交差し、大きな踏切があった。海軍病院の前で舗装は終わり、先は泥道でその先は、地元ではゴルフ場と呼ぶ草っ原だった。東京ゴルフ倶楽部があったところで、幻の東京オリンピック会場の候補地になっていた。東急フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)の本拠地となり、駒沢競技場が整備されていくのは、戦後も10年ほど経ってからのことだ。
わが家の道を挟んだ向かいは茅葺の葛屋(くずや)だった。古い農家だったのだろう。作家の結城信一が隣に住んでいた。いつも怖そうな顔をして、和服で歩いているのを見たことがある。
1944年から「強制疎開」と称して駅から線路に沿って10メートルほどが取り壊されていった。燃える建物を無くして延焼を防ごうというので、江戸時代の「火消し」の考え方と同じである。改札から20メートルほど行ったところに三井住友銀行があるが、その少し南に「モンブラン」というミルクホールがあった。店内の壁面は白いタイルで清潔感があり、正面に高いカウンターがあった。
戦争が激しくなり外食券が配給された。取り壊される前、日は決まっていなかったが、どこからともなく、「モンブランが開くよ」と情報が入る。母親とすぐに駆けつけて並ぶと、真っ白な分厚い食パン一切れと昆布茶がセットで出る。今でいう山高パンで、それは見たこともない真っ白なふかふかしたパンだった。
ところが、私には昆布茶がどうしても飲めなかった。初めて経験する飲み物で、なにか生臭い塩気のある味だった。罰当たりな話で、許されない所業だ。今でも申し訳ないと思う。本来ならコーヒーが出たのだろうけど、もう全く手に入らなかった。別に飲んだ記憶があるわけではない。ジャムがあったのかは記憶にないが、白い食パン一切れでも大変なご馳走だった。
家には兄や姉のおもちゃが残っていたが、ほとんど遊んでいない。講談社から出ていた少年講談の『寛永御前試合』など、漢字と平仮名の本を読んでいた。漫画は田川水泡の『蛸(たこ)の八ちゃん』が今も手許にある。大日本雄辨會講談社の発行。社の字の偏は旧漢字の「示」だ。布製のハードカバーで1935年刊。定価は1円とある。繰り返し、繰り返し何度も読んだ。わからなかったのは、蛸の八ちゃんが、そばを食べるシーンだ。いまなら「立ち食い」の蕎麦屋でも用いるもり蕎麦の「せいろ」の容器がわからなかった。
すでにそば屋や食堂、甘味処の類は営業禁止となっていた。もちろん出前なんかない。働き手はみな徴用されていた。人がいないのだ。家で乾麺を茹でて、皿に盛るくらいのもので、丸なり四角なりの枠にすだれを敷いた器は見たことが無かった。みんな燃料として燃やしてしまったのだ。蛸の八ちゃんは、奇妙な器で食べているな、と不審におもいながら読んでいた。
もう一冊、繰り返し見ていたのが、同じ田河水泡作の『のらくろ』シリーズだ。猛犬連隊に入営した野良犬の「くろべい」が二等兵から一等兵そして上等兵に出世するのが最初の巻で、「のらくろ伍長」「のらくろ曹長」と出世していく話だ。もちろん戦意高揚漫画であることは間違いないが、当時はそんなことを誰も考えていなかった。どういうわけか「伍長」の巻だけが家にあった。
わからなかったのが、「たい焼き」だった。「たい」が鯛なのはわかる。しかし焼いた魚を休日の「酒保」でおやつのように食べるのがわからない。酒保が軍隊の中にある売店なのは絵からわかった。焼魚を何故お菓子のように食べるのか、父の説明をいくら聞いても、「たい焼き」のイメージは浮かんでこなかった。何しろ、まんじゅう、大福などの餅菓子はほとんど食べた記憶がないのだからいたし方ない。
渋谷から地下鉄に乗って、日本橋の百貨店に行った記憶はある。おそらく3歳か4歳で昭和17、18年ごろのことだろう。今の銀座線で、当時の地下鉄は銀座線しかなかった。それでも丸の内線の計画はすでにあったようで、赤坂見附駅は上下の2階構造になっていた。地下鉄でも必ず先頭の車両に乗って前を見ていた。外の風景こそ見えないものの、東横線にはない紫や橙色の信号灯を見るのが楽しかったのだ。
今考えると多分日本橋高島屋の食堂だったと思うが、受付で注文した料理の料金を払うと、セルロイド製の食券をテーブルの上に載せて待っている。現在のポーカーチップみたいなものだが、三角や四角、ダイヤ型等さまざまな形をしていた。厚さも2ミリくらいはあったはずで硬い。色も白、赤、緑ととりどりで、おもちゃにしたくて仕方なかった。
何しろ着るものを含め、すべてが目立たないようにと派手な色はなく、国防色のカーキ色、絣のモンペなど目立たないものだけだった。食券の鮮やかなセルロイドの色だけが明るく輝いて見えた。
地下鉄の駅から百貨店の地下に通じるのだが、入り口に自動の台秤(ばかり)があり、台の上に載って5銭の硬貨を入れると、体重が表示された。印字された紙片は出てこなかったはずだ。ただ記憶するだけだったのではないか。
このころから空襲警報が出ると、防空壕に逃げこんだ。「灯火管制」とかで、電灯に黒い布をかぶせた。1945年3月10日の東京大空襲は、主に下町一帯に多大な被害がもたらされた。目黒周辺にも爆弾が投下された。
昼間、今まで見たこともない大きな飛行機が見えた。B29だという。独特の大きな音を発した。大きくて小回りが利かないから、小さな戦闘機でとらえやすい、と言われていたが、決して気持ちの良いものではなく、恐ろしさが先だった。=この項続く(2022.3,30)
◇次回の更新は4月13日を予定しています。