【第32回】続・無影灯の下にさらされて 完結編その4 最終回

【第32回】続・無影灯の下にさらされて 完結編その4 最終回

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【第32回】続・無影灯の下にさらされて 完結編その4 最終回

重金敦之

7月某日 海の日だという。なんだかよくわからない国民の休日だ。病院も当然休診だが入院は受け付ける。緊急入院というけど、切迫感はない。明朝一番で手術。

7月某日 手術といっても身体に傷をつけるわけでもなく、内視鏡で膀胱内の腫瘍を摘出する。30分程度でつつがなく終わったらしい。それでも全身麻酔なので、術後ICU(集中治療室)へ。前回と異なり、慣れもあって気楽なもの。前回は四日留め置かれたが、今回は一日で一般病棟に戻る。

7月某日 隣に入ってきた住人はかなり認知症が進んでいる。ナースコールの使い方がわからないのか、「お願いします、お願いします」とベッドから叫び続けている。そのうち「助けてください、タスケテクダサーイ」と哀願調になる。看護師が懸命になってナースコールの使用方法を教えるのだが、なかなか覚えられない。導尿の意味が理解できないから、「オシッコしたい、オシッコしたい」と同じことを繰り返している。「そこでしてください自動的に出ますよ」と言われても、すぐに忘れてしまって、また同じことをいっている。そのうちナースコールと電話機の区別がわからくなったようだ。
 病院は一種の共同生活だから、最低限の約束事ができない人に入院は無理だ。普段は介護施設で生活しているとのことだが、施設の職員の苦労がしのばれる。「明日はわが身」の恐れなしとしないから、暗澹たる気分になる。

7月某日 入院中は食べたいものが次から次へと浮かんでくる。退院したら「あそこへ行こう、ここにも行きたい」と店の名前と料理が現れる。そんなことでも考えていなければ「生活の張り」と「明日への希望」が生まれてこない。気分が滅入るばかりだ。食べたいものを考えていたら、最近「消えた食べもの」が多いことに気が付いた。
 昔は刺身のつまによくオゴノリ(ウゴとも)が添えられていた、細い薄緑の海藻だ。おそらく近海の岩場で無尽蔵に採れたのだろう。旨い味がする珍味でもなく、特段に好物というほどのものではなかったが、見かけないと寂しくなる。
 沖縄の海藻、海ぶどうは居酒屋などで単品の料理として出てくる。形状もきれいだし、味もいい。養殖も盛んだ。オゴはそんなに高い価格にはならないから養殖品が現れないのだろう。茹でて色を出さなくてはならないから手間もかかる。
 縁は異なものさて味なもの 独活(うど)が刺し身のつまになる
という都々逸がある。どうも独活は地味で華がない。とはいっても刺し身のつまに華があったら、つまではなくなってしまうだろうけれども。
 ノシイカの佃煮。ノシイカを甘辛く煮付けたもの。昔はつくだ煮屋には必ずあった。我が家では、お赤飯と言えば、このイカが定番だった。「イカあられ」というのが、一般的らしい。あまり消化はよくないと思われるが、なぜ我が家でお赤飯と組み合わされるようになったかは分からない。祝儀や進物にそえる熨斗(のし)からきたのかもしれない。熨斗は神饌(神様へのお供え)や鏡餅の上に飾られたもので、鮑(あわび)が本来だった。鮑をイカで代用したのだろう。
 今多いのは、薄く細切にしたイカの佃煮だ。なんとも頼りなくて、存在感が少ない。「イカあられ」というのが、一般的らしい。

7月某日 4泊5日で、退院。痛みもなければ、見た目には血尿もない。

7月某日 平岩弓枝さんについで、森村誠一さんの訃音が届いた。長い歳月をかけて『忠臣蔵』を「週刊朝日」に連載してもらったのは忘れられない。出会ったのは『高層の死角』のころからだから古い。
 その間の経緯については森村さんが直接述べている文章があるので、少し長くなるが紹介したい。
<いまから十四、五年前に遡る。何かの会合で私は偶然、旧知の週刊朝日編集部の重金敦之氏と席が隣り合った。江戸川乱歩賞を受賞した二、三年後で最も張り切って書いている時期であった。作家になれたことが嬉しくて仕方がない、そんなフレッシュな時期であったとおもう。
 重金氏はそんな私を験(ため)すように、「今度はどんな作品を書くつもりですか」と尋ねた。私は目の前の執筆に追われて、次作のことを考える余裕などなかったのである。推理小説の依頼が相次いでいたので、ただなんとなく、「次は時代小説を書いてみたいとおもいます」と答えた。
「どんな時代小説ですか」と重金氏は間髪を入れず質問を重ねてきた。私は苦しまぎれに「忠臣蔵」を書いてみたいと答えた。重金氏は、私の答えに目に興味の色を濃く塗って、「その節はぜひ週刊朝日にお願いします」と、即座に言った。
 私はどうせその場かぎりの外交辞令だとおもっていた。だがそれから一年後、重金氏は私に電話をかけてきて、そろそろどうかと迫った。私はびっくりしてもう二年待って欲しいと言った。だが週刊誌のライフサイクルは速いから、重金氏も二年も経てば忘れてしまうだろうとおもい直した。そのうちに重金氏自身も異動してしまうかもしれない。
 だが重金氏は忘れもしなければ異動もしなかった。二年後、着実に約束の履行を迫ってきた。私は一年きざみに引き延ばしながら次第に追いつめられてきた。
 まことに重金氏もよく粘ったものである。私が産みの親であるとすれば、重金氏は本作品の育ての親であり、ゴッドファーザーのような存在である。>(『忠臣蔵』1986年、朝日新聞社、あとがき)
 はじめてお会いしたのは、短編小説の依頼で厚木の団地だった。時分時(じぶんどき)になり自宅で茹でた蕎麦をご馳走になった。団地の二軒分をぶち抜いて、自宅と仕事場にしていた。ベストセラー作家になっても、長いあいだ地味な暮らしぶりだった。

8月某日 入院中は、「あれも食べたい これも食べたい」気持ちで、過ごしていたがいざ退院してみると食欲がわかない。なにを食べても美味しく感じないのが悲しい。どうやら服用している薬の副作用と考えられる。「消えた食べ物探し」の旅どころではない。

8月某日 小さい頃から親しんできた自由が丘の中国料理「南国飯店」が店を閉じ、テークアウトだけやっているという。
 今から40年以上も前になるが、朝日新聞の夕刊で、近くに住む曽野綾子さんが「豚挽き肉の唐辛子焼きそば」を紹介していた。辛いが、旨い。当時は今ほど四川料理が一般的ではなかったので、実に新鮮に感じたものだ。細かく微塵にしたニンニクもかなり利いていた。多くの周囲の人たちに勧めたが、概して好評だった。この焼きそばだけは、他の店で出会ったことが無い。
 一品料理だけでも楽しめるし、二階に個室があるので会合にもよく用いた。味はごくありふれたクラシックな料理だが、けして俗に流されていない。昨今流行りの腑抜けたモダンチャイニーズでもないし、私の美学とは相容れない食べ放題、飲み放題の店でもない。この種の店は世相に合わないからか、経営は難しいのかもしれない。
 そういえば、神田神保町の新世界菜館のオーナー傅健興氏も若い時、この店で修業したと聞いたことがある。傅さんと、南国飯店の在りし日を思い起こして、紹興酒を飲みかわさなくてはいけない。

8月某日 術後の診察。膀胱がんの治療と再発防止のため、9月から膀胱内にBCGを注入することになった。がん細胞にとりこまれたBCGに対して身体は免疫反応を起こす。この免疫反応ががん細胞を攻撃して増殖や再発を抑えるというメカニズムらしい。ごく一般的に普及している治療方法、との説明を受けた。抗がん剤を注入するより効果は高いが、副作用は大きいらしい。

8月某日 前々回に、「人間万事塞翁が馬」と「禍福はあざなえる縄のごとし」の諺(ことわざ)を紹介した。昨年の9月から疫病神に付きまとわれ、凶事と一緒に暮らしているような日々が続いた。そんなさなかに、孫が結婚して第一子となる男児が生まれた。
 初のひ孫と出会ったが、まさか豚児が爺さまになるとは、思いもしなかった。お目出たい吉事といわなければならない。諺にあるように凶事ばかりは続かないものらしい。
 薬のせいで食欲が湧かず、無力感に襲われている。何をやり始めるにしても、すぐに手が着かない。「テキパキ、バリバリ」とは対極の「ウダウダ、ノロノロ」とした行動しかとれない。
 病気の性質からして、完治は難しそうだ。BSNHKの人気番組「球辞苑」の、エンディングのきまり言葉を借りれば、「治療作業はまだまだ続く」ことになる。
 自分でいうのも気が引けるが、病の身にとっては冷静に周囲を観察でき、自己を分析できたと思う。しかし、こんなことを長いあいだ書き続けていても、鬱々とした気分に陥るばかりで、ひ孫の育児に良い影響を与えないだろう。
 ここはひとまず寛解ということで、この連載を終えたい。長い間のご愛読、有難うございました。
 しばらく静養して、気分と構想を一新し、また新しい一面をご披露したいと考えている。新しい春とともにお目にかかりたい。[完]
(2023,8,23)

▽ご愛読ありがとうございました。この連載は今回で完結です。

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