「電車で立っていて、思いがけずに席を譲られることがあった。まだ50代の頃だけど、最初に譲られた時はショックだったね。とうとう自分も『周りからは年寄りに見られている』と、否応なく気づかされるんだから」
その昔、20歳以上も年上の作家と電車に乗った時にそんな話をしたことがある。私が初めて席を譲られたのはいつ頃だったか、もう記憶にない。今は譲られたら、有り難く座る。
数年前だが急に体調を崩し、電車で病院に向かったが、4駅の間に3人から席を譲られた。朝のラッシュ時でもあり、厚意はうれしかったがすぐ降りるので丁重にお断りした。本人は大丈夫と思っても、傍からはかなり大儀そうに見えたのだろう。
なるべく車内の優先席には座らないようにしているが、混んでいる時は利用する。身重の人や杖を持っている人が乗ってくれば譲る。立ってから周囲を見ると、座っている中で私が最年長だったりする。高校生や大学生はスマホに夢中で、乗り込んでくる乗客に気が付かない。概して若い女性は、妊産婦に対して厳しい気がする。
物欲しげに優先席の前に立つ人がいる。明らかに「弱者」の時は、傍から「譲るように」声を掛けたいが、最近は物騒だから黙っている。心の中では「立ったらどうだ」と毒づいている。自分が座っても不自然でない男の人が優先席に座っていた若者を立たせて、入り口近くに立っていた老婆を座らせていたのをみたことがあった。立たされた若者は不満げに口をとがらせていた。そこまで仕切る勇気はないし、やる気もない。
やせ我慢といわれるかもしれないが、優先席の前に立つことだけはしない。近ごろ駅のベンチにまで「優先席」の表示が付いている私鉄がある。ベンチが少ないから満席で、みんなスマホをいじっている。
席を譲ったら、怒鳴られたという高校生だか中学生の投書があったが、大人気ない人もいるものだ。「俺を年寄り扱いするな!」という心意気なのだろうが、単なる「強がり」に過ぎない。別に悪意があって勧めているわけではないのだから、素直に座るか礼を言って断ればいいだけの話だ。
年配の小母さんたちはすぐに車内で座りたがる。歌舞伎座へでも行くのだろう。地下鉄日比谷線の銀座駅から(3人が)乗りこんできて「あそこ、あそこ空いてるわよ」と3人とも座ったのはいいが、ご存知のように銀座駅と東銀座駅とは、ホームの明かりが見えるくらいの指呼の間だ。動いたと思ったらすぐに着いたので、座ったとたんにあたふたと降りて行く。会社勤めをしていた時代によく出くわした光景だ。
肉体的な体調の衰えは、あらゆるところに現れるので自覚できるし、あきらめもつく。例えば細かい字が書けなくなる。公共団体などに出す書類が困る。小さな枠の中に住所や氏名を書き込まなくてはならない。
印鑑や住所のゴム印を捺(お)すのも苦労する。自分ではまっすぐ捺したつもりだけど、印面を見ると見事に曲がっている。切手もまっすぐ貼れなくなってきた。歪んでしまう。最近はシールになっている切手が多い。こちらは幼少のころからの年季が入ったフィラテリスト(切手蒐集家)だから、目打ち(切手を切り離す穴)が入っていないと切手とは認めたくない。かつて集めた古い切手を盛んに使っている最中だから、どうしても糊で貼らなくてはならない。
月に2、3回はテニスもどきを楽しむが、サービスのトスが乱れる。利き腕でない方の手でボールを一定のポイントに放るが、定まったところに上がらない。前後左右上下、ばらばらとあらゆる方向にぶれる。3年ほど休んだのが原因だ。トスの練習をしなければいけないのはわかっているが、面白くないからやりたくない。
歩くスピードが遅くなってきたので、後ろからつっかけられることが増えてきた。「あおり運転」ばかりでなく、「あおり歩き」というのもあるらしい。階段を降りるときは、よほどに気を付けないといけない。
酒量がめっきりと落ちた。昔はワイン1本くらいを家でも軽く空けていたのに、途中で飲む気が失せてしまう。白ワインでも1本に3日くらいかかる。赤なら4日でもしんどくなった。置いておくうちに味がまろやかになることもあるけれども。
そういう肉体的な衰えではなく、最近年齢を痛感させられることがあった。
2021年度下期の第166回直木賞を『塞王の楯』(集英社)で受賞した今村翔悟(1984年生まれ)が作家になったきっかけとして、「小学校5年生の時に、母親から奈良の古書店で、『真田太平記』(朝日新聞社刊)を全巻買ってもらい、読み終えてからだ」と公言している。
池波正太郎の『真田太平記』は、1974年1月から1982年12月まで「週刊朝日」に連載された長編小説で、半年ほど休載したが9年に及んだ。単行本は朝日新聞社から全16巻で出版されている。
完結して3年後の1985年にNHKの大河ドラマで放映された。当時は何故か水曜日の8時からの時間帯だった。すぐ日曜日に戻った。脚本は金子成人、真田幸村の役は草刈正雄。他に渡瀬恒彦、丹波哲郎、遥くららなどが出演した。池波が「ずい分足の長い幸村だな」と、こぼしていたのを思い出す。草刈正雄は2016年NHK放映のやはり河ドラマ「真田丸」(脚本・三谷幸喜)で、幸村の父親昌幸を演じることになる。何かの因縁があったのだろう。
この大河ドラマの放映に合わせ、1984年から85年にかけて新装版が朝日新聞社から刊行された。1987年には12巻に編集され、「新潮文庫」に収録された。連載していたころは、まだ「朝日文庫」はなく、発刊が決まるとすぐに文庫収録のお願いをしたが、池波から「もう新潮社に念書を入れてしまったところだ」と断られた。本当に「念書」を書いたのかどうかは、誰もわからない。
新装版が出された時、すなわち『真田太平記』が大河ドラマとして放映された頃に今村は生まれた。小学校の5年生といえば、90年代になる。
今村翔悟が奈良の古書店で母親に買ってもらったのは、この新装版だったと思われる。わざわざ朝日新聞社と断っているし、ソフトカバーだから16冊まとめてもそんなに重くはない。確たる証拠があるわけではないが、そう思えてならない。
連載の誕生に深くかかわり長い間担当した小説の読者から直木賞作家が生まれるとは、夢にも思わなかった。作者の池波正太郎も泉下で喜んでいると思われる。若い時代小説の書き手を渇望していたからだ。
若い頃から池波作品に影響を受けた直木賞作家が、もう一人いる。今村翔悟の一期前21年の165回直木賞を『星落ちて、なお』(文藝春秋)で受賞した澤田瞳子(1977年生まれ)だ。
澤田が日本経済新聞の読書欄に寄せたコラムの中で池波正太郎の『食卓の情景』(1972~73年「週刊朝日」連載、朝日新聞社・新潮文庫)に触れている。
<数々の美味が登場するが、それらはただの味覚としてのみ語られるわけではない。女手一つで氏を育てた母親の生きる活力、亡き人を偲ぶ熱い酒と東京の蕎麦、少年の氏が弟子入りを決意したどんどん焼の屋台……数々のおいしい食べ物の向こうには、氏を含めた人々の人生と密やかな哀歓が重なり合っている。>(「半歩遅れの読書術」22年5月14日)
1969年に池波が「小説新潮」連載した自伝風エッセーの『青春忘れもの』(毎日新聞社・新潮文庫)を読んで、「食べ物」に対する人並み外れた好奇心と鋭い人間観察に目を見張った。すぐに「週刊朝日」へ『食卓の情景』の連載を依頼し、『真田太平記』につながっていく。私にとっては忘れられない連載となった。『青春忘れもの』は唯一の「自伝」として読まれているが「小説」と考えた方が良い。
連載後に生まれた澤田瞳子が指摘したように「味覚としてのみ語られるわけではない」のだが、この書を単なる「美味いもの案内」の類として読む人が多いのは残念なことだ。飲食店の名前も出てくるが、訪ねた揚げ句に店の料理を批判し、著者の味覚嗜好にまで文句をつけるようなライターがいる。嘆かわしい限りだ。
『食卓の情景』の連載を読んで感動し、大手の広告代理店を退職したコピーライターがいた。「押し掛け書生」と称して、池波の海外旅行にたびたび同行したが、後に袂(たもと)を分かった。池波は師である長谷川伸と自分に置き換え、「押しかけ書生」を小説の弟子に育てたかったのかもしれない。両者の軸がどこかで、ずれていったのだろう。自分が担当した池波のエッセーが一流大学を出て一流企業に勤める人の人生を変えるきっかけになるのかと最初は驚き、それだけの作品に携わった自負と責任を感じたものだ。
澤田瞳子の母親、ふじ子(1946年生まれ)は1975年に『石女』で「小説現代新人賞」(講談社)を受賞しているが、そのときの選考委員の一人が池波だった。澤田ふじ子の作品について、語り合った記憶がある。
いずれにしても才能のある若い人の出現は喜ばしいが、一方で自分の年齢を痛切に感じてしまう。「過去の人」になっていくのを、容赦なく意識させられる。肉体的な衰えよりも、胸の中にゆっくりと滞り、後から確実にじわじわと効いてくる。=敬称略(この項続く)
=(2022.6,22)
◇次回の更新は7月6日を予定しています。