【第22回】魅力ある横浜の裏町の裏のまた裏

【第22回】魅力ある横浜の裏町の裏のまた裏

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【第22回】魅力ある横浜の裏町の裏のまた裏

重金敦之

 最近、横浜に関する本が2冊刊行された。八木澤高明の『裏横浜──グレーな世界とその痕跡』(ちくま新書・筑摩書房)と佐野亨の『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)で、著者の八木澤は1972年生まれ、佐野は1982年と比較的若い年代のフリーランスのライターだ。
 二人とも横浜在住で、八木澤は大学生の頃からバックパッカーとしてアジアを旅していた。ネパールのルンビニにある無料の巡礼宿で出会った年長の日本人男性から「どこから来たの?」と尋ねられ、いつものように「横浜からです」と答えた。  すると「横浜って、神奈川県でしょう。日本人に出身地を聞くと県で答えるのが普通なのに、横浜の人は必ず神奈川県と言わず、『横浜です』って、言うんだよな」と返された。
 意表を突かれた八木澤は幼いころから神奈川県民というよりも、横浜市民という意識が強かったからではないかと自らの来し方を振り返った。自身も一度、横浜出身の旅行者と出会った時、相手も「横浜です」と名乗ったことを思い出した。一種の癖だが、直そうとも思わないし今もって直せないでいる。
 一方の佐野は、東京に生まれ小学校4年から保土ヶ谷に引っ越し、高校時代から南区に暮らしている。かつての良き時代の横浜を知らないからこそ、横浜の深層に眠る歴史に興味を抱いたようだ。

 今の人にはほとんど読まれていないが、獅子文六(本名・岩田豊雄)という文化勲章を受章した作家がいた。1893(明治26)年、横浜の野毛山公園近くの月岡町で生まれた。現在の西区だ。父の茂穂は九州の中津藩出身で同郷の先輩、福沢諭吉に学び、絹を扱う貿易会社、岩田商店を横浜の外人居留地(現在の山下公園近く)に創設した。長男の豊雄は自宅から人力車で会社へ行く父に連れられ、よく会社へ遊びに行った。店に来る客はほとんどが外国人、とりわけ英米人が多かった。
 豊雄が9歳の時に父親の茂穂は病没し、東京の慶應義塾幼稚舎に転校する。寄宿舎生活だった。大学の予科まで進んだが、中途退学してフランスへ渡る。横浜に育ち、幼少のころから外国の文化に慣れ親しんでいたのも一つの理由だろう。
 父が興した絹の貿易会社は母が切り盛りしていたが、没落の一途をたどる。フランスで演劇を学び、帰国後の1937年に岸田國士(くにお)、久保田万太郎と共に文学座を興す。演劇関係は本名で活動し、小説は獅子文六と筆名を使った。由来は「44・16(ししじゅうろく)」をもじったとも、「文豪(五)」よりも上を目指したともいわれるが、定かではない。このあたりの人物像は牧村健一郎の『評伝獅子文六 二つの昭和』(朝日新聞出版、後にちくま文庫)に詳しい。
 獅子文六を有名にしたのは、1936年「報知新聞」に連載された小説『悦ちゃん』(ちくま文庫)と戦後に発表された『てんやわんや』(1948年「毎日新聞」ちくま文庫)、『自由学校』(1950年「朝日新聞」ちくま文庫)、『やっさもっさ』(1952年「毎日新聞」ちくま文庫)の「敗戦小説三部作」だ。
 「てんやわんや」は漫才の「獅子てんや・瀬戸わんや」の芸名に使われ、『自由学校』の登場人物が用いる「とんでもハップン」や「ネバー好き(大キライッ)」などが時の流行語になった。『やっさもっさ』には戦後の国際児問題と横浜市内を米軍兵士が闊歩する世相が的確に捉えられ、題名の語源が話題となった。
 当時の東海道線横浜駅に登場した崎陽軒のシウマイ娘も取り上げている。赤いタスキを肩から下げてホームでシウマイを販売していたのだ。
 続いて自伝的作品『娘と私』(1953~56年「主婦の友」ちくま文庫)と兜町の風雲児を描いた『大番』(1956~58年「週刊朝日」ちくま文庫)が爆発的も人気となり、映画化され話題となった。滑稽と風刺に富んだ着想と時代を見るに敏なジャーナリスティックな観察眼がすぐれていた。
 小説に加え、食べ物に関する随筆も多くものにしている。1956年に河出書房から出した『随筆 飲み食ひの話』(後に『飲み・食い・書く』として角川文庫)を筆頭に、『食味歳時記』(1968年・文藝春秋、後に中公文庫)などが代表的なものだ。パリ時代の安いレストランの食事やワインの他にもアブサンなどの安酒に浸る話は、酒飲みにはたまらない雅趣がある。かなりの食豪で愛酒家だったことがわかる。同時代パリに遊んだ高畠達四郎(画家)、高田博厚(彫刻家)、宮田重雄(画家・医師)らとの交流の様子も楽しい。
 民俗学者の池田弥三郎(元慶應義塾大学教授)は次のように書く。
<うまい・まずいは誰しもが感じることなのだから、うまい・まずいは誰にも言えることである。しかし、うまい・まずいを言える人が、誰でもみんな、うまい・まずいについて書ける人だとは言えない。むしろ、それは非常に難しいことかもしれない。そして、「飲み食いのことを書く」ことが好きだと言うこの著者などは、その飲み食いの感想と、その文章とが、ぴたりとバランスがとれている、珍しい筆者のひとりではないかと思う。>(『飲み・食い・書く』解説)
 また文芸評論家の尾崎秀樹は、日本のグールマンディーズ(食豪)の系譜として、<村井弦斎、木下謙次郎、本山荻舟(てきしゅう)にはじまり、北大路魯山人、辻嘉一、小島政二郎、谷崎潤一郎、獅子文六とつづく。>(『食味歳時記』解説)と評価した。
 幼児の頃から折り紙付きの「わんぱく小僧」だった獅子文六でも、横浜の南京町(今の中華街)に行くのは少なからぬ勇気を要したと述懐している。父親の存命中は当然行けるはずもなく、父の会社の店員に連れられて行った。この店員は大の酒好きのうえ、暴れ者でいつも金欠病だった。当時はそんな人でなければ、南京町に行かなかったという。
 今では考えられないが、「南京町を通るのに鼻を抓(つま)んで駆け抜ける人さえいた」時代だった。2、3年経つと新しい物好きの横浜人が「安くてウマい」という理由から「南京」(中国料理)を食べることが流行した。書かれた内容から推測すると明治の末期、文六が10代のころで「私はかなり早くから南京を食べていた」と自慢している。
 当時は中華街とは言わず、南京町といっていた。この場合の「南京」は中国江蘇省、長江に臨む大都市の南京とは関係がない。「中国の」といった意味で使う。神戸の中華街も南京町という人が多いはずだ。当初はおそらく一部の中国人たちが同胞のために食事の場所を提供したもので、まさか日本人がお客として来るとは、端(はな)から想定していなかったのだろう。噂はまたたくまに広がり、東京からわざわざ円タク(タクシー)を飛ばして乗り込んでくる酔狂な人まで現れた。

 私の生家は東急東横線だったので、小さい頃から横浜へはよく出掛けた。郷里の若狭から上京してきた親戚を南京町へ案内したこともある。東横線の横浜駅で国鉄(JR)の京浜東北線に乗り換え、石川町駅から歩くことが多かったと記憶する。戦後1950年代後半のころだが、もうかなりの観光地になっていた。
 南京町で行く店は海員閣と決まっていた。毎日新聞連載の『やっさもっさ』には南京町の「海員閣」が「水師閣」として出てくる。一流店だった聘珍楼から張汝琛料理長が、独立して戦前に開いた店で、知る人ぞ知る名店だった。小津安二郎も好んだといわれる。中華街大通りから狭い香港路を関帝廟(かんていびょう)の方向に入った小さな店だが、いつしか店の前に人だかりがするようになった。
 混んではいたが少し待てば、席ができた。1階の奥の左の席には、いつも店の主と思しき老婆が陣取り編み物をしていた。どんなに客が待っていようが、立って席を空けるようなことはなかった。ごく普通の中国人の家庭を訪ね、居間で食事をするような案配だった。
 行くと必ず注文したのが、牛バラ肉と青菜の煮込み、青豆と芝海老の煮込み、鶏肉とカシューナッツの炒め物の三品だった。青菜は小松菜か菠薐草(ホウレンソウ)で、当時は青梗菜(チンゲンサイ)や田菜(ターツァイ)、豆苗といった中国野菜はまだ手に入らない。青豆(グリンピース)は年中あったから、缶詰だったのだろう。もちろん冷凍食品はまだ普及していない。カシューナッツはそれまで食べたことはなかったし、売っている店もなかった(牛バラ肉の「八角」の香りは今でも記憶にある)。
 メニュー通りではないかもしれないが、漢字で書けば「紅焼牛腩」、「青豆蝦仁」、「腰果鶏丁」となる。「紅焼」や醤油味の煮込み、「腰果」はカシューナッツ、「丁」は食材が小さな角切りになっている意味だ。読み方は中国の地方によって異なるので、と逃げておく。
 私の父は獅子文六の二歳下になり、東京へ出てきてから中華料理を食べ始めたのだが、酒は飲まないのに食べることには執着心が強かった。名物の牛腩(バラ肉)を掛けたご飯とか、焼きそばだけを頼むことはなかった。地方出身者の見栄っ張りというか、馬鹿にされたくないという意識が強く、必ず料理を数品頼んだ。都会生活に慣れている格好をつけたかったのだろう。もっとも東京からわざわざ横浜まで出掛けて、炒飯やトリそば一皿で帰ることは考えられなかった。海員閣はしばらく休んでいたが、代変わりして再開したと風の便りが教えてくれた。
 中華街と言えば、サンフランシスコが有名だが、横浜も世界的に知られている。長い歴史を振り返ると、本土系と台湾系の対立や日本への帰化を巡る確執など、多くのいざこざもあったが、立派に存続、発展しているのは慶賀なことだ。
 その昔パリの中華街を車で通った時、「超市場」という赤いネオンの文字が目に付いた。すぐに「スーパーマーケット」のことか、と納得した。そういわれれば、フランス語では「シューペリ・マルシェ」ではないか。何か懐かしさを感じたのを覚えている。
 横浜の街の面白さは、中華街だけではない。黄金町や寿町など、都市にはなくてはならない淀んだ一郭には人を引付ける「何か」がある。陽光を避けた暗渠のような街に生きる人たちもまた横浜人なのだ。寿町は東京山谷と比べればまだまだ「健在」だ。浅草の泪橋(なみだばし)一帯の現状は、都市の終焉を示している。コロナ騒ぎが沈静化したら、また横浜の裏街を歩くのが楽しみだ。
=敬称略(2022.9,21)

◇都合によりしばらくお休みいたします。(筆者)

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