【17回】「老い」のかたち (承前)

【17回】「老い」のかたち (承前)

マカロニの穴から豆腐の角を見る

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【17回】「老い」のかたち (承前)

重金敦之

 アメリカのオバマ元大統領も来店したことがある銀座の鮨屋の有名店「すきやばし次郎」の店主、小野二郎(1925~)は「現代の名工」の指定を受けている。96歳になった今も矍鑠(かくしゃく)としてなじみの客には握るという。それを有難く自慢げにネット上で発信する人がいる。人が何を食べようと傍(はた)から口をはさむ筋合いはないけど、黙って食べていればいい。
 かつて昭和天皇に寿司を握ったことで知られる銀座の著名な鮨屋の主が脳疾患で倒れた後、再起して握ったことがあった。当然のことに覇気が薄かった。B級グルメの祖、里見真三(故人)は「鮨屋では鮨を食べるが、その主も食べる」と喝破したが、その謂いを借りるには、かなり痛々しかった。
 小野二郎は店にいるだけで緊張感が漂う。貴重な存在感があるということだ。その良し悪し、好き嫌いのすべては食べる人の嗜好と感性が決めることだ。
 昔は「人生50年」といわれたが、今や「人生100年」が現実味を帯びてきた。嵐山光三郎(1942~)も「週刊朝日」のコラムに書いたが、高齢者のための書籍が大流行りだ。
 その中でも売れているのが精神科医、和田秀樹(1960~)の『80の壁』(幻冬舎)。著者は医学だけでなく、受験勉強の仕方、人生指南など多数の著作がある。目次を見ると高年者の健康法も挙げられているが、目新しいことはなさそうだ。今さら余計な情報に時間を取られたくない。
 大阪万博が終わった1970年代の初め、フランスで修業していた若い料理人たちが、続々と帰国して新しい店を東京に開いた。大袈裟にいえば、毎週のように店が増えていく時代だった。フランス料理の店といえばホテルや一部の結婚式場を除けば、六本木から銀座に移転した「レンガ屋」に芝の「クレッセント」くらいだった。銀座ソニービルの地下にパリから「マキシム」が出店し、フランス料理のレストランとワインのブームが始まっていく。
 「クイーン・アリス」の石鍋裕(1948~)が六本木に「ロテュース」を開き、リヨン近郊の「トロワグロ」で修業した井上旭(のぼる・1946~2021)が福岡の「花の木」から銀座の「レカン」に招かれ、やがて「シェ・イノ」を京橋に出す。無国籍料理を標榜した熊谷喜八(1946~)は、葉山の「ラ・マーレ・ド・茶屋」から「キハチ」を展開する。それぞれ新鮮な印象があり、日本のフランス料理界に新しい刺激を与えた。井上も鬼籍に入り、シェフたちも高齢化の波に襲われている。
 その頃は新しい店をよく探し求めたものだが、今は「新店開業」といった類の情報はなるべく頭に入れないようにしている。別に好奇心が失せたわけではないが、新しい店を開拓する意欲は薄れた。たまさか訪ねても、残念ながら期待外れに終わることが多い。人生で残された食事の時間を大切に考えれば、気心が知れた店を訪ねるだけで精一杯となる。どうしても冒険より安全を優先させてしまう。
 昨年亡くなった三人目の人間国宝の落語家、柳家小三治(1939~2021)は私と同学年で、同じ学区の都立高校だった。2019年の朝日名人会で「厩(うまや)火事」を聞いたのが最後だった。「青菜」や「小言念仏」は何度聞いたかわからない。
 スポーツ界の選手寿命もずいぶん延びた。女性の場合、日本では結婚すると家庭に入って引退する人が大半だが、欧米の例を見ると、テニスやゴルフ、サッカーなどママさん選手も多い。
 プロ野球でも、40を超えて活躍する選手が増えてきた。2015年50歳での登板を果たし、引退した中日の山本昌(1965~)は、それまで浜崎真二(1901~1981)が持っていた最高齢投手の記録をほとんど更新した。41歳でノーヒットノーラン、49歳で勝利投手は大記録だ。今シーズンでは中日の福留孝介、オリックスの能見篤文(コーチ兼任)、ヤクルトの石川雅規、ソフトバンクの和田毅など41歳を超える選手が登録している。
 監督となると、アメリカのMLBではかなり高齢の人が目に付く。最高齢はアスレチックスのコニー・マックで87歳(1950年)だった。東京巨人軍の初代監督で阪神の監督も務めた藤本定義(1904~1981)にインタビューしたが、お見受けしたところかなりの高齢に見えた。調べたら64歳だった。私が若かったせいもあるが、高知県安芸市のキャンプで火鉢にかじりついていた姿はどう見ても80近かった。野村克也(1935~2020)は楽天で74歳まで勤め、次の年もやる気でいたが、契約書を盾(たて)に名誉監督に祭り上げられた。サムライ・ジャパンの監督に意欲を燃やしていたから、もし依頼があれば受けたはずだ。
 仕事の上で親しくして人も、だんだんと彼岸を渡って行く。
 昨年亡くなったサトウサンペイ(1929~2021)とは、入社してすぐから付き合いが始まった。大阪の大丸百貨店宣伝部を辞めて上京したのは1961年で、「週刊漫画サンデー」に連載した「アサカゼ君」が、コマ漫画の世界に新風を巻き起こした。衝撃といっても良かった。65年に朝日新聞「フジ三太郎」が登場した。スタートは夕刊で朝刊に移った。67年にサンデー毎日で「スカタンCO.(カンパニー)」が始まり、「週刊朝日」でも連載をお願いすることになった。
 サトウから出た条件は「カラー」にしたいというものだった。カラーだと同じ2ページでも情報量が圧倒的に多くなり、変化に富んだ発信ができる。それまで誰もやってなかった企画に挑戦するという意欲にあふれていた。今と違ってカラーグラビアはまだまだ貴重なページで、それをマンガにするというのは、編集部でもかなり勇気のいる決断だった。「夕日くん」の誕生だ。
 サトウは漫画家の地位向上を目指し、作家が重用される雑誌ジャーナリズムの傾向に強い対抗心を持っていた。そういう意味では常に全身に力が入り、両肩を怒(いか)らせて歩いているように映った。
 50代の半ばに差し掛かったころ、「普通のサラリーマンなら定年を迎える時期だから、『退社』したい」と、連載を終える意向を示した。何とかなだめすかして「延長」してもらったが、辞意は固く1985年で「夕日くん」は幕を閉じた。
 後釜の人選は難しかったが、多くの候補の中から加藤芳郎(1925~2006)にお願いした。サトウより5歳上だった。サトウに対して「あなたより上の人でも、まだ頑張っていますよ」というメッセージを伝えたつもりだった。彼がどう受け取ったかは、わからない。会社を辞めた後も最近まで、サトウからは私が本を出すたびに、励ましの電話や丁寧な手紙を頂戴した。酒の上で言い合いになったこともあるし、サトウ邸で漫画論を深夜の日付が変わるまで戦わせたこともある。まさに「戦友」だった。
 加藤芳郎のタイトルは「オレはオバケだぞ」だった。始まってしばらくしたら講談社から、それは「週刊現代」に連載していたもので、まだ終わったわけではない、と半分は「冗談」のようなクレームが付いた。単行本も講談社から出ていた。担当はよく知っている編集者で、加藤と一緒にゴルフへ行き酒を飲む仲間だった。「オレはやっぱりオバケだぞ」と「やっぱり」を加えることで落着した。
 サンペイより8歳ほど若い東海林さだお(1937~)は、今なお活躍している。肝臓ガンの手術を受け、復帰した。自身の切り取られた肝臓を目にして、「これでレバニラを作ったらどうなるか」と考える好奇心と観察眼が創作のエネルギーになっているのだろう。毎日新聞朝刊のコマ漫画「アサッテ君」は終わったが、「週刊文春」の「タンマ君」と「オール讀物」(文藝春秋)の「男の分別学」、「週刊朝日」の「あれも食いたい これも食いたい」は今なお続いている。
 池波正太郎(1923~1990)の『食卓の情景』の流れを汲む「食べ物」に関するエッセイの書き手を探し続けていたが、東海林以外に思い浮かばなかった。文藝春秋の担当者に、東海林の連載をいつまで続けるつもりなのか、それとなく聞いてみると「亡くなるまで続けるでしょう」という返事が返ってきた。七、八年がかりで懇請を続けたところ、なんとか展望が開けてきた。築地の河豚料理屋で当時の木下秀男編集長と池辺史生を交え、4人で河豚を食べながら説得した。池辺も東海林とは、サトウを通じて古い付き合いだ。1987年から連載が始まった。「なんとか一年でいいから、やってください」といった記憶がある。私が新聞社を辞めてからも今日まで35年の長きにわたって続くとは、思いもよらなかった。
 作家でも瀬戸内寂聴(1922~2021)が昨年99歳で大往生を遂げたが、ひとつ下の佐藤愛子(1923~)は今年の11月に99となる。『九十歳。何がめでたい』と毒づき、『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(いずれも小学館)を書いて元気だし、曽野綾子(1931~)も今年90を越える。「私、死ぬ気がしないんです」と言っていた宇野千代(1897~1996)は、93歳で亡くなった。最晩年に渡辺淳一(1933~2014)と自宅へ伺ったが、渡辺は「すごい、まだ色つやがある」と、感激していた。
 松本清張(1990~1992)は82歳で亡くなるまで「週刊文春」に小説を連載していた。晩年の清張は自分の衰えを感じていたのだろう。全盛時には考えられなかったが、締め切り前に脱稿し、ゲラで推敲を繰り返した。2回は普通で、多い時は4回も見直した。初校で朱を入れた部分を再校で書き直し、三校ではさらに書き加える。四校になると、書き直したところをすべて削ったので、結局元の原稿通りになったこともある。余白一杯に直しが入り、「血の滴るような」校正紙だった。
 片言隻句(へんげんせっく)も疎(おろそ)かにせず,句読点にまで執着する校正の文字には、松本の人生の執念と怨念が滲(にじ)み出ていた。「まだまだ小説を書き続けるんだ」という、餓鬼のような形相が今でも浮かんでくる。
 私が入社した当時の朝日新聞には、演劇評の秋山安三郎(1886~1975)、アマチュア野球の飛田穂洲(1886~1965)など最晩年まで書き続ける記者がいた。
 私が通う鮨屋の主人はまだ還暦を過ぎたばかりだが、握る姿で自らの技術を後輩に残したいという。さて、私の晩年の「老いのかたち」はどう決着がつくのか、今もってわからない。気分だけは、青春時代の真ん中のように橋の上を行ったり来たりしているけれども。=敬称略 この項終わり
=(2022.7,6)


◇次回の更新は7月20日を予定しています。

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