イラストレーターの山藤章二が現役を引退した。「週刊朝日」の名物企画、「ブラック・アングル」と「似顔絵塾」はもう見られない。デビューした当時から「週刊朝日」の編集部でほぼ同時期を過ごしてきたから、感慨はひとしおだ。
山藤は私より3学年上で、同じ目黒生まれだ。3歳の時に山手線目黒駅の助役だった父親を亡くし、残された母親は目黒駅の売店で新聞や雑誌を売って三人の子供を育て上げた。今のキオスクの前身である。この辺りの家庭事情は池波正太郎や野村克也と底通するところがある。自身が二人の子供の父親になった時、世間でいういわゆる「父親像」を知らないから、「子供たちに、どう接して良いのかわからない」とよく言っていた。
恵まれた絵画の才を活かそうと、東京藝大を目指したが、3回の挑戦もむなしく武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。在学中の1957年に当時最も権威があった日宣美(日本宣伝美術会)の特選になる。卒業と同時に広告制作会社「ナショナル宣伝研究所」(社長=竹岡稜一)に入社。一年目にコントの台本やDJの構成などを手掛けていた五歳年上の米子夫人と結婚した。夫人は山藤の絵に、ただならぬ才能が秘められているのを見出した。まさに名伯楽だった。在社中に電通広告賞や毎日商業デザイン賞など多くの賞を受賞したが、「自分の絵を描きたい」ために退社し、フリーとなる。
まず仕事をしなくてはならないから、「見本」を持って、売り込みに回った。ある小さな劇団の舞台公演ポスターが飯沢匡の目に止まり、稽古場で会った。アサヒグラフの名編集長だった飯沢は、絵画、漫画、写真などの美術にも詳しく、飯沢との出会いが、後の仕事に大きく影響することになる。
有名になるには人気小説家のさし絵を描くのがいいのでは、という米子夫人のアイディアで、松本清張を訪ねた。自身も絵画に詳しい松本清張は気に入って、月刊誌「宝石」(光文社)の連載小説『Dの複合』のさし絵に起用し、後に単行本のカバーも手掛けた。
1969年から始まった野坂昭如の「週刊文春」連載の『エロトピア』のさし絵が編集者の間で注目されていた。70年講談社の出版文化賞のさしえ賞の第1回を受賞した。71年に文藝春秋漫画賞を受賞したが、受賞作品の中には『エロトピア』も含まれている。
「週刊朝日」に登場した最初は連載対談「飯沢匡の遠近問答(単行本では『遠近問答 飯沢匡対談集』に改題)」のイラストレーションだった。1970年のことである。飯沢から、江戸時代の浮世絵師、歌川(一勇斎)国芳の存在を教示された。反骨、奇想、描写すべてに唸るばかりで、しかも150年も前の人だったことに衝撃を受ける。その奇想天外なアイディアと斬新な画風から多くの影響を受けた。ここから「戯れ絵」なる言葉を標榜する。基礎的なデッサン力があることは言うまでもない。デッサンは3年間挑戦し続けた東京藝大の「受験勉強」で培われたものだ。雑誌がテレビの影響もあって、ヴィジュアルという言葉を盛んに用い始めた時代だった。
72年からほぼ3年間表紙を手がける。はっきり言って不評だった。1972年の第1回新年特大号は、松本清張、司馬遼太郎、瀬戸内晴美、池波正太郎、荻昌弘、大橋巨泉、淀川長治などの連載執筆陣の似顔絵を並べた。その後、ニクソン、ライザ・ミネリ、玉三郎、江崎玲於奈、王貞治、五木ひろし、森繁久彌、研ナオコ、加藤茶、コロンボ等、作家、政治家、芸能、スポーツあらゆる分野から時の話題の人物をピックアップして掲載したが、1974年に交代した。
これは明らかに編集部の起用ミスだった。内容と合わせてひねり出すのだが、やはり、毒を含み、猛り狂う男根の気配を感じるような画風は、女性の好むところではなく、電車の中で女性が持つのにはふさわしくないという批判があった。雑誌の表紙には、デパートの包装紙みたいな無毒な要素も必要だった。
74年には、朝日新聞で長いあいだ清水崑が描いてきた政治家などの似顔絵も引き継いだ。服装を墨(ベタ黒)にし、表情のある手を画面に添えて、人物が語り掛けるように工夫した。浮世絵で、手や足の表情が人物の内面の心理描写となっているところに着目したのだろう。この新機軸は評判となり、他の新聞でも真似をするところが出てきた。
絵もうまいが字もうまかった。漫画家の加藤芳郎が自宅を新築した時、表札の文字を山藤章二に依頼した。「加藤」の二文字だけだが、見る人が見れば一目でわかる字体だった。
◇…………………………………………………………◇
胃炎などの病気もあり、しばし休養した後の1976年から「山藤章二のブラック・アングル」として最後のグラビアページに移行した。「週刊朝日を後ろから明けさせる男」と異名を取った。誰が言い出したのか、当時の涌井昭治編集長だった気もする。
表紙から外れ、生き生きと蘇った。拙宅と会社の間に山藤のマンションがあったので、前日打ち合わせて翌朝私が原稿を取りに伺った。低血圧の持病があるため、徹夜明けで、床に就かず私を待っていた。
ロッキード事件では、有名な武者小路実篤の「仲よき事は美しき哉」の色紙をもじって、田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫をジャガイモに見立てた。1980年大平正芳首相が亡くなった時は岸田劉生の「麗子微笑」を借りて、麗子の顔を大平に見立てた。これぞパロディで、まさに国芳ばりの戯作だった。
武蔵美時代には、新宿で降りて末廣亭に良く通った。落語で学んだ、会話の妙、一人で何役もの人物を演じる手法、省略による単純化、などが役に立った。決して落語は学ぶものではないが、落語に何かを見つけたのだ。「意見を言う絵描き」は「意見を言う落語家」の立川談志と気が合った。「談志は毒をいっぱい入れたけど、私は気が小さいから耳かき1杯に留めた」という。寄席の芸と大衆を相手にする新聞や雑誌とでは、毒の量も異なるのだ。江戸時代の戯作者による静止画と落語の登場人物の動画が、血液のように山藤の身体の中を流れている。
文章が主役、絵が「刺身のツマ」の扱いを受けるのが面白くなかった。そこで、絵の中で発言した。読者は松本清張の小説を読みたいから、雑誌を買うので、小説の絵は、誰でも良かった。だから、絵の中で発言するのは禁じ手である。しかし、エッセイとなると、話は別だ。「作家と絵かきは仲良しじゃいけない。作家が好きなことを書くのなら、絵かきも好きなことを描く」という立場を貫いた。
野坂昭如の「エロトピア」から始まったさし絵家の発言の集大成が夕刊フジのエッセイだった。第1回(1971)は梶山季之の『あたりちらす』、第2回(1972)の山口瞳「飲酒者の自己弁護(単行本では『酒飲みの自己弁護』に改題)」、第3回の吉行淳之介「すすめすすめ勝手にすすめ(後に『贋食物誌』に改題)」あたりから調子がでてきた。これは一種の掛け合いで、ボケと突っ込みとなっている。作家もそのおかしみを意識しないとやっていけない。文章が有って、それに絵を付けるのだから、後だしじゃんけんのようなもので、作家が、「やられた」となる。作家の文章について、絵で否定したこともあった。その絶妙なやり取りが人気を呼んだ。
後年、エッセイの作者の人選はすべて山藤の好みで選ばれた。こんな例は、今までなかった。「絵描きは作家の従属者ではない」と主張した。目立たなくてはいけない、というイラストレーターの意地だった。文章にないことも絵にした。作家も絵の中で茶化され、いじられ、虚仮にされた。まさに同等だった。
これらのベースにあるのは江戸時代の風刺、滑稽、洒落、軽味(かろみ)であり、落語の了見そのものである。人生を少し斜に観て、自分を他人視することができる。その洒落がわからないと面白くない。見る人の素養が問われるのだ。昨今はその素養が伴わない人が増えてきたと感じたのかもしれない。
「週刊朝日」(本年11月19日号)の「似顔絵塾」で次のように書いている。
「先輩やライバルに恵まれた、という実感はない。(和田誠さんの絵を見て「すごい、でも負けないぞ」と思ったことはあったけど)、信じるのは〝自分の心〟だけである。」
これぞ、「好敵手」というものだ。和田誠とは同学年で、山藤が武蔵野美術大学なら、和田は多摩美術大学。山藤の「ナショナル宣伝研究所に対して和田は名門制作者集団「ライトパブリシティ」。山藤はいすゞ自動車やテイジンの広告で活躍しているのに対し、和田はたばこ「ハイライト」のデザインを手がけた。都築道夫や松本清張のさし絵で売り出せば、和田は、星新一のショートショートのさし絵で、朝日新聞に登場した。和田が亡くなった時、次のようなことを言っている。
「彼の仕事ぶりを見て、<キレイゴトの和田>に対して<キタナゴトの山藤>でいくという自分の居場所がおのずと決まっていった。その意味で、彼の存在は私の恩人である。また、アンチとしてのライバルであり、貴重な友人であった。スタートもゴールもほぼ同時代の戦友だった。」
やはり好敵手の存在がいなくなると、寂しくなるものだ。「自分の心」を信じ切った末での引退であることはいうまでもないが、決意の裏には和田誠の死去が少なからず影響を与えたような気がしてならない。=敬称略
参考文献
◇『山藤章二戯画街道』美術出版社(1980年)
◇『山藤章二の四行大学』朝日新聞出版社(2019年)
(2021,12,1)
◇次回の更新は12月15日を予定しています。