1945年3月の東京大空襲以後、日本の敗勢は決定的になった、と後世の書は解説する。日本人の多くはうすうすとわかってはいたのだろうが、戦闘意欲を喪失し敗色を感じ取ったということだろう。夜になると毎日のように警戒警報のサイレンが鳴った。一瞬緊張するが、そのうち慣れてきた。ラジオから流れてくる「東部軍管区情報、東部軍管区情報、房総半島よりB29編隊が帝都に侵入しつつあり……」という男の声は今でも記憶している。高校野球の甲子園球場でのサイレンを聞くと、いまだに戦時中を思い出す人は多い。私でさえあまり心地よいものではない。
昼間に今まで見たこともない大きな飛行機が見えた。B29だ。独特の大きな音だった。大きくてゆっくりとしか旋回できないから、小回りの利く日本の戦闘機は捉えやすい、と聞かされた。ほんの気休めで、恐ろしさが先だった。
自宅の隅に掘った防空壕の中で、姉は私に「日本は世界の中で、こんなに小さいのよ」と指を丸めてしめしたが、縮尺の概念がないから、意味はよくわからなかった。東京は指で囲める広さよりもかなり広いのに、と不思議だった。「小さい国だから、負ける」と教えるつもりだったのか、「小さい国だけど、必ず勝つ」といいたかったのか。いつか聞いてみたいと思っていたが、今ではかなわない。
東横線の第一師範駅の東側は、少し行くと畑で、今の目黒通りを越えるとのどかな水田が広がっていた。北里研究所(現北里大学)の実験用の牛を飼っている農場があった。3月の大空襲で、その牛舎が焼け、多くの牛が焼け死んだのを見た、というのは9歳上の兄の話だ。
5月25日、夜になると盛んにB29が来襲した。家の外で空を見ながら、近所の人たちも集まっていた。遠く北の方の空が、薄く桃色に染まっていた。誰かが「あそこらは杉並の方角でしょうね」といったのを覚えている。杉並という地名を聞いたのは、初めてだった。9時か10時ごろだったのだろう。東の空も赤い色が濃くなってきた。かなり近い。
大きな爆発音と同時に、家の中が昼間のようにまぶしく光った。焼夷弾が落ちたのだ。かねてからの準備通り、私は姉と二人で逃げるように家から離れた。その時の格好ははっきりと記憶にないが、三角の防空頭巾をかぶって、小さな背嚢(はいのう)を背負っていたはずだ。ランドセルか、あるいはリュックサックといったのかもしれない。外国語の名詞はほとんど日本語に言い換えられていたが、背嚢は軍隊の用語で、家庭にまで及んでいたかは覚えていない。綿を入れた防空頭巾は各家庭で作らされていた。姉は一枚の毛布を持っていた。
改正道路(今の駒沢通り)をゴルフ場(現駒沢公園)の方向に歩き出した。なんとなく多くの人が同じ方向に流れていた。どこからともなく「ゴルフ場へ行っても草が燃えて、火の海になっている」という声が聞こえてきた。海軍病院(現国立医療センター)手前の柿の木坂から右に折れ、芳窪町(現東が丘)あたりを歩いた。畑が多く安全に思えたのだろう。「どこから来たの」と尋ねられ、「三谷(さんや)町からです」と答えたら、「そう、多分あっちはもう焼けてしまっているだろうね」といわれた。みんな正確な情報は持っていない。あてどなく、うろうろと黙って歩いていた。不思議と周りに燃えている家はなかった。
外に出ている人たちもだんだんといなくなり、上空の爆撃機の機影も消え、静かになった。東の空は変わらず桃色に染まっていた。家を目指して帰ろうとすると、姉がずっと持っていた一枚の毛布を捨てていく、という。「なぜ持って帰らないの?」と聞くと「もう家は焼けてしまい、お父さんもお母さんも死んでいないかもしれない」という。その話と毛布を捨てるのは関係ないと思ったけれど、うなずくしかなかった。持ち歩いているうちに疲れたのかもしれない。
ようやく周囲が明るくなり、とぼとぼと歩いて家が近づいてきたが、周囲に火災の気配はない。家の塀や玄関は、何事もなかったかのように静かだった。外から見ると、何も変わっていなかった。父も母も元気に迎えてくれた。
焼夷弾は縁側にある大きな沓(くつ)石に落ちた。雨戸は開け放たれ、ガラス戸は粉々になっていた。廊下の天井の一部と戸袋が燃えた程度で、柱の一部が黒く焦げていた。爆弾が落ちるとすぐに「隣り組」の人たちが消火に当たってくれたという。平素の訓練が役立ったのだ。焼夷弾が命中した2メートル近い沓石は見事に真っ二つに割れ、残骸とみられる大きな鉄の塊が庭の土の上に転がっていた。焼け残った天井や柱には、ねっとりした黒い油がところどころにこびりついていた。
落ちたのは50キロの一番大きな焼夷弾だったということが、噂できこえてきた。目黒に4発落とした1発が、たまたまわが家に落ちたと、父は悔しそうにつぶやいた。真偽のほどはわからない。しかし周囲のほとんどは何の被害もなかった。仲間とはぐれた1発の「流れ弾」がふらふらしながら我が家に舞い込んだらしい。
落ちた場所がもう1メートル北側にずれていたら、屋根を突き抜け、家は間違いなく燃え尽きただろう。もし1メートル南にずれていたら、土の中に直接めり込んで、爆発もせず、何の被害も無かったはずだ。いずれも当時の私の推測ではなく、大人たちが話していたのを覚えているだけだ。
全焼と一部損壊では、大きな差がある。もう一つ好運なことがあった。その日、兄はいなかった。父の説明では、空襲警報が出ると父と兄で庭側と玄関の道路側に別れて警戒していた。兄が不在のため、父はたまたま北の道路側にいて南の庭側には誰もいなかった。もし兄がいたら、どちらかが犠牲になったというのだ。兄はその日、父の故郷である福井県の耳村(現美浜町)に行っていた。母の着物や帯などを手に持って、生家の土蔵に避難させるためだった。
故郷の義弟宛てに届いた父の手紙には、「今まで頑張って築き上げたものが全部なくなってしまった」と落胆している様子が書かれていた、と兄はいう。農家の次男に生まれ、敦賀の商業高校を出ると上京し、財閥系企業の幹部社員にまでなった。都内に自宅を構えた父にとっては、かなりのショックだったのだろう。兄は家が全部燃失したのに違いないと、落胆して帰ってきた。今では笑い話みたいなものだが、ほとんどが無事に残っていたので、拍子抜けしたという。
小さな工場があった改正道路の辺りはその後も3日くらい白い煙を出し続けていた。子供たちが無事だったことに安堵したのか、父は姉がどこかに置いてきた毛布に未練が出てきたらしい。どの辺りに置いてきたのか、姉と二人で探しに行った。なんでも、舶来の品で、「良いもの」だという。それにしても暗闇でどこをどう歩いたのか、探しようがない。今のご時世ならともかく、物が貴重な時代に「毛布が落ちていましたよ」と記しておくような悠長な時代ではない。
ともかく東京にいては危ないということになった。怖くなったのは事実で、私と姉の二人は父の郷里に疎開することになった。東海道本線でまず米原に降り、北陸本線に乗り換えて敦賀まで行く。敦賀から小浜線に乗り換えて二つ目、河原市(現美浜)の駅から20分ほど歩く。幼児期に一度は行ったことがある。米原駅で食べた経木の四角いタバコみたいな箱に入ったアイスクリンの味の記憶がある。今でいうシャーベットに近いもので、クリーム感はなく香料だけが強かった。
切符を買うのも簡単な時代ではない。とにかく父と姉、私の三人で福井県へ向かった。父の生家は「奥兵衛(おくべい)」という屋号で呼ばれる農家で、牛と鶏を飼っていた。祖父はだいぶ老齢だが、健在だった。父の兄夫婦、妹が嫁いでいる近くの洋品屋の義理の叔父になる平(へい)さんらが、気持ちよく迎えてくれた。子供心にそう感じただけで、実際は違ったのかもしれないけれど。父はトンボ帰りで東京へ戻っていった。
父が帰るとき、姉が「これで、二度と会えなくなるかもしれないから、よくお父さんの顔をみて覚えておくのよ」といった。どこまでわかっていたのか、いわれた通りにじっと父を見つめていた。=この項続く(2022.4,13)
◇次回の更新は4月27日を予定しています。